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時給一万円

 私たちが未来について宛てがえる時間の物差しの長さは30秒である、というようなことを以前書いたが、それは20秒だったかもしれない。  ショーン・エイカーの『幸福優位7つの法則』を読んでいない。しかし、ジャスティン・グレッグの『もしニーチェがイッカクだったなら?』は読んだ。怒りが過ぎ去るまでにかかる時間は10分とも15分とも言われるが、意識の未だ来ぬ旅へ置いてけぼりを食った無意識の"瞬間的な意思決定"が扱う"目先"の射程は如何ほどだろう。20秒は優に有るというようであれば、先

    • なぜなら貴方もまた魚雷だから

       何方で伺った何方の話だったか毎度ボンヤリしたまま書いて誠に恐縮だが、漫才というのは異世界への小旅行であるという。  能や狂言にしても同様だ。拍子木の音はタイムマシンのエンジン音であり、「こりゃまた失礼しました」とばかりに幕が降りきれば、私たちは元の日常へ送還される。  不可触で完結しており、しかも尊いという幟はある種の結界を構成する。拍手や歓声は「あちら側」の筋書きを改変しようとしない。「君たちはどう生きるか?」という哲学も往々に芸術に成り下がる。出し抜けにインターホンが

      • ガルリロ

         有り体に申しあげれば私は裕福な家庭の育ちで、そのためだろう、私は自転車に乗れない子供であった。  ペダルを踏み、漕ぎ出す。幾許もなくよろける。なかなか友人たちのようにはスイスイ行かれないものだ。漕ぎ出す。よろける。また漕ぎ出す。ああ、これは無理かもしれん、と思いついたとき、私はある種の安らぎと喜びを感じた。  よろけて止まる。それは、母の実家のそばの小さな紡績工場の駐車場のアスファルトの上にもうこれ以上ガリガリと不快な補助輪の音を撒き散らさなくてもいい、といった類のもので

        • ホモゲニウム・リンギスティコ

           酒の呑める連中に、私が好きで酒を呑まないでいることをより少ない言葉でわかってもらうためには全体どうすればいいのだろう。  酒好きの人間と酒嫌いの人間の間には遠大な渓谷がある。ノンアルコールを注文したとき、私の記憶の中の酒呑みからの第一声は決まって「なんで?」だ。なんでも糸瓜もあるものか。こういうとき、私は言い知れぬ無力感に見舞われる。  言葉は時に無力だ。もとい。言葉は大体の場合において比較的無力だ。何者と比べてかと問われれば、それは言葉が予め備える意味以外の全てとである

        時給一万円

          あるいはステキな週末を

          「ああ、今日はせっかくの休日なのに、何も有意義なことができなかったな。」  雑居ビルと雑居ビルの天辺と天辺で区画された狭い空、倦怠と停滞の堆積した臭いのするポリバケツの傍らに座り込んで吐き出すには些か安穏に過ぎる呟きはしかしながら、その暢気そうな顔で今も確かに私たちの安穏を蝕んでいる。  やる気のない無能はとにかく退屈している、というのは誰の言葉だったか。世界は狭くなって短くなった。「できる」と思う感覚と「できないけどやる」という心意気が挫かれたなら、彼の楽しみはもはやY

          あるいはステキな週末を

          本を読むことについて

           「本を読むなんてのは、全くばかばかしいことだ。」  大変結構。  100年、200年という倍率で見れば、他の多くのことと同じように、私が本を読むことは誠に下らないことだ。  1年、2年という倍率で見てだに、知らない他人の悩みなど態々覗き見る価値が全体あるだろうか。まずもって、本、という括りも雑すぎる。  一方で、「本を読むのは素晴らしい。」  知っていることの多いこと、せめて有り得べきことを多く知っていることは依代の備蓄だ。  当たるも本、当たらぬも本。どちらにせよ念仏の

          本を読むことについて

          世界はただ貴方のために

           ああ、胡散臭い。いったい何なのだこのタイトルは。しかしこう表現せずにはおられない。だって私は確かに見たのだから。  鈴木祐さんの『無(最高の状態)』に慈経行というのが紹介されていたのを、近所の百貨店の地下の惣菜売り場を彷徨いているときにふと思い出して試みた。  しかしこれが、やはりというか、いざやってみると中々、どこから手をつけたものか。「私は貴方の幸せを願います」。それはむかしバーピージャンプを見よう見まねで初めて動いてみたときと似ていた。なるほどそれらしいことはできる

          世界はただ貴方のために

          私とリテラシー

           橘玲さんの『もっと言ってはいけない』では2013年にOECDが主催した国際成人力調査が引かれている。日本人のおよそ3分の1は日本語を満足に読み、理解し、伝えることが出来ていないらしい。この報告はどうだろう、貴方に共感いただけるものだろうかというのは、およそ文字ばかりの当記事内に発するには全く愚かしい問いかけかもしれない。  ソシュールの記号学、グライスの協調の原理、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム、ヴィトゲンシュタインの語りえぬもの、ポパーの反証可能性、等々。  言葉によ

          私とリテラシー

          心安らかにあるために

           先日、鈴木祐さんの『無(最高の状態)』を読んだ。毎度のことながらこの手の統計調査に基づく記述の荒涼さと来たらたまらない。  さて、私は、私の感情は、私の抱く現実についての見立てと実際のそれとの差によって生じるものと考える。着想は何だったか。おそらくあれは怪しい仏教の経典めいた何かだろう。さてどこで読んだのだったか(そもそも実在したのかどうかも怪しいが)。  ヒトが五感で受けとった刺激の全てを脳に送り、判断し、行動するまでにかかる時間は、一般に時速190kmが26ydの距

          心安らかにあるために

          私と北方アサバスカンの共通項について

           少なくともある時期に発行された哲学の教科書に当たれば、演繹と帰納はそれぞれ大陸合理論とイギリス経験論とに紐付けられており、両陣営の対立の事情もあってお互いなんとなく排他的であるような印象があるが、もともと別種類のものであって、同じ一般則を導こうときにも相補に働けるし(演繹に完全性の点で譲歩願えれば)、例えば統計を根拠にする論文体系などにおいては、帰納の発想で収集したデータを演繹の発想で理論立て、演繹で導出した仮説を帰納で裏づけるといった発展的な絡まりも見られる。  アブダ

          私と北方アサバスカンの共通項について

          ステキな週末を

           私に掛かっている数ある呪いの内の一つは次のようなものだ。 「ああ、今日はせっかくの休日なのに、何も有意義なことができなかったな。」  まったく、忌々しい。貴方もそうは思わないだろうか。こんなのはしみったれだ。日本テーラワーダ仏教協会のweb根本仏教講義を仮にもつまみ食いした身として、あるいは鈴木祐さんの『無(最高の状態)』を齧った身として、こうまでばっちり二の矢が突き刺さっているのには誠に不甲斐ない限りである。  この、せっかく、というのが良くない。せっかく人に生まれて

          ステキな週末を

          おはようございます。今日も良い一日を。

           先日、なかなかに上等なpc用キーボードを買いつけた。  これがなんというか、とにかく上等で、まずもってその手触り。やはり手触りの良いものは良い。それから音。打鍵のたびにサクサク鳴る金属は、倦んだ小さな事務所の中の小さな停滞を忘れさせてくれる。やはりバランスであるな! 将来のために倹約、やがて蓄財をとは昨今特に声高だが、だからといって現在を蔑ろに供し切るのはいかにも芸ないことであって、などと、贅沢をしたのち去来する特有の罪悪感はやはり工業製品の理屈で梱包しておいて、手元に目

          おはようございます。今日も良い一日を。