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おやさまたより

私の天理教修養科ものがたり パート15


 私は、一回目の修養科卒業から二回目の入学に至る40年ほどの間に、おぢばには何度も足を運びました。妻の修養科中に子供が身上を頂いて一目散に駆け付けて地元と往復した話はしましたが、毎年の献米団参子供おぢば帰りなどのひのきしんは言うまでもなく、ことあるごとに車を走らせたり電車で帰りました。

 お道の上でも世上の波による影響で様々な移り変わりがありました。それはお道においても、やはりバブルの崩壊という時代の波の衝撃は大きかったと思います。

 身近な例では、私の所属する「湖東大教会」の大きな事情で大教会長さんが交替され、詰所がそれまでおぢばでも有数の建物だったのが多額の借金の代わりに本部の管轄となり、敷島大教会の元の詰所信者詰所として当てられた事でした。初代の大教会長の直系の現大教会長さんが就任されるまで、本部の世話人先生や部内の前教会長さんがそのバトンを引き継がれました。

 湖東部内ではその件に関し当事者への批判なども聞かれましたが、ほとんどの信者が我が事・わが節として受け入れてその木造の詰所を喜んで使わせて貰って今に至ります。
 
 私個人もとても親しみのあるその詰所が好きで、特に前の詰所より神殿に近く商店街の並ぶ本通りにも一筋違うだけの便利な場所に立っていることをうれしく思って来ました。歩くと長い廊下がギシギシ軋むのも楽しい詰所でありましたし・・・

 今回も話の筋をかなり寄り道しての展開になっておりますが、二回目の修養科での生活にも深くかかわる伏線と思いますのでもう少し続けます。

 こういう話は湖東に限らず多くの系統であったように聞いていますし、肝心要の教会本部でも、甘露台が突然の侵入者に倒されるという大節がありました。 
 私の知る限り一度目の事件のあと間もなく三代真柱様の奥様がお出直しになられましたし、直近では現真柱様が脳梗塞のご身上を頂かれるという大変な事態にもなりました。そのことに原因があったのかどうかは分かりませんが、信者としては結び付けて思案せざるを得ない出来事でした。

 実はこの二回目の事件のあった直後に私は未信者の友人を案内しておぢばに帰り、甘露台の見えないことに我とわが目を疑いました。文字通り自分の目がおかしいのだとしか思えなかったのを覚えています。

 友人を天理に連れて帰った経緯も不思議な流れで、当時地元でお世話になっていた絵の師匠がインド仕込みの瞑想の大家でもあり各地でワークショップをされていたのですが、たまたま金沢でのセミナーに参加した時一緒になったのがこの大阪の青年でした。私は車で来ていたので天理まで同乗して、大神神社大和神社などを回って本部神殿で説明をしながら、言葉に詰まってしまった事だったのです。

 慌てて、神殿で当番をしていた本部青年に事情を聴くと一週間ほど前に甘露台が倒されたことを知り、私の目がおかしいのではないと納得しました。

 そうした事情が幾つも重なっての二度目の修養科でしたが、現真柱様がご身上でもう一年ちかくも「おさづけの理」の拝戴も行われていないという異常事態の中だったのです。

 真柱様の心中をお察しするにはあまりありますが、私が修養科に入ることになった秋季大祭には真柱後継者の太亮様が祭主を勤められ、若々しい声で神殿講話されているのを初めて聴きました。その時、真柱様は車いすで回廊から参拝されていたという事でしたが、その後徐々に回復されコロナ禍を経てこのエッセイを書いている現在・教祖140年祭三年千日スタートの春季大祭に私も参拝させてもらった折、杖を突いて登壇なされ甘露台の前で神楽勤めを参拝されている後姿を拝見させてもらいました。


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