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自分の文章で自分を助ける

忙しいとき、もしくは、精神的にしんどいときほど、文章を書きたくなるのはなぜなんだろう?

この前の記事にも書いたけど、ここ数日は本当に苦しかった。まだやることはあるけど(今から結果をまとめないといけない…)、一番高く、険しい山は、なんとか越えられた。「いい景色だなぁ」と余裕を感じる間もなく、再び歩き続けなければならない。


特に、火・水・木の3日間は、根詰めてやるしかなかった。この3日間を、自分の中で勝手に「死の3日間」と呼んでいる。

没頭しないと間に合わないと思ったので、研究室ではなく図書館でひとりこもってやっていた(理論研究なので、リモートでできる)。数学者が屋根裏部屋にこもって研究するみたいなこととは、レベルが天と地の差ほどあるけど、本当に集中したい時は、ひとりでこもってやる。

たぶん、スイッチが入っている時の目は、怖いと思う。図書館で「ふぅぅ」と深呼吸をしながら、ぶっとおしでやっていた。心臓に悪いから、できれば、もうこんなことをしたくない。けれど、必要に迫られたらできてしまうのが、人間のおそろしいところ。



前置きがいつものように長くなったけど、この苦しい数日間にも、僕は文章を書いていた。いや、いつもに増して、書く気力がこんこんと泉のように湧き出ていた。

普通に考えれば、精神的にしんどい時は、書く気持ちが起こらないはず。文章を書くのは、集中力やエネルギーを要する。ただでさえ、目の前のやるべきことに追われて疲弊しているのに、そこからさらに「よし、文章を書こう」とはならないはずだ。


だけど、不思議なことに、書いているのだ。自分のこころに、何が起こっているのだろうか。

思うにこれは、自分を自分で奮い立たせるために、書いている気がする。絶体絶命のピンチにいる自分に向けて、書いているのだ。「こんなところで、くたばってはいけない」と。

あるいは、冗談まじりの文章を書いて、自分をクスッと笑わせたり。「つらいときほど、ユーモアを大切に」と自分に、忘れないように教えてあげている。

書いている時の自分はもうひとりの自分であって、これがいろんなメッセージを、今の自分に伝えている。



誰かの文章に救われるだけではなく、自分の文章に助けられることもあるんだな。

そんな不思議な感覚に包まれたし、自分に向けて書いた文章が、誰かに届いているのも不思議に感じた。

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