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【作曲家K11】音楽の先生

ブログで書いても更新がたまにであり、私のような無名で話題性の無いものをほぼ読まれないでしょう。それでいいのですが、書いていて老人の思い出話を綴っているように思われると結構心外なのです。障害者で高校の教員なりにいろいろありました。辛いこと、自分の力ではどうにもならないこと、理不尽なこと。今でも怒りが収まらないのは県の無計画な人間の顔が見えない、心の無い行政です。それを綴って行きたいと思います。

新任の高校

 教員になったのは28歳の時でした。大学は入るために浪人3年、研究室で修士3年と6年間遠回りをして大学を出ました。その頃は子どもが増えて学校全般が新設されていました。ある市などは高校は3校あったのが一気に10校超える数になりました。外側からみていると、何処でも空いている場所があれば高校を作っているという感がしました。私が採用された高校は新しく東京湾の干潟を埋め立てた真ん中に作られていました。それも3校一緒にできあがりました。ほぼ同じ造りで。後々になってその埋め立て地は新都心とか言われるほど開発されましたが、後付の感は今でも感じます。それについて別の話です。どこでも空いている土地に学校を建ているということは生徒、職員のことを考えていないということです。歩いて行けない場所もあります。最初はバスを通しても何十年かしてそれが廃止されると悲惨な状態になります。県の人たちは思ったのでしょう。生徒は自転車がある、職員は車がある。他は適当に何とかなるさとか、想像ですが。その姿勢を思ったのは、赴任した高校の校舎に入って4階建ての階段に手摺りが全く無いことが分かった時でした。設計した人間、またそれを削った人間を思うと冷たい風が吹き込む様でした。階段の手摺りは障害者がそう言った建物で生活するのに必須なものです。(そこまで配慮する様は人は県にはいませんよね。障害者!頭の片隅にも思わなかった・・・・・。今は大分かわりました。社会の趨勢で変わったのであって、自分たちで変われなかったでしょうね。)話はそれました。そう言った建物優先で作った3つの高校何か特色を持たせようと後付けで、先生方を集めて考え出したのが芸術コースをもち、教科の大幅な選択制を採る高校でした。(詳しくは幕張三高の創立5周年か10周年誌にあると思います)いちいちコメントを付ける事は避けますが、選択コースに理系とか文系とかと同じように芸術系を作ることは当時、全国で流行っていたようです。今でも成功した学校は残っています。幕張三高、芸術コースは東高校、西高校、北高校、それに美術、音楽。書道と割り振られていました。教科課程に美術コース、音楽コースは今まであったようですが、さすが書道コースは無く、無理して文部省と作ったようです。でも、正直、後々成功しませんでした。(先ず、職員にやる気が無かった。創設の時の主任が3年で転勤するのですから−あくまでも私の想像です。そして、生徒が集まらなかった。)私が赴任したのは幕張西高校、音楽コースもある学校でした。

幕張西高

幕張三高は設計段階ではほぼ同じ作りでした。東校と北高は並んでいて、西校は東校と点対称で並んでいました。東校の常態が西校と考えれば想像がつきます。教科課程の関係で建設時に壁を変えて教室を変化させていました。西校は音楽室が3つ(次の年度に1室、合奏室が増えました。)レッスン室が1つ、練習室が10室。ピアノがグランド4台、アップライト10台。オーケストラ楽器一式。その他エレクトーン等。音楽に関して県下最高の設備でした。赴任した創立2年目でコース制が始まるとしで、まだ、授業は始まっていませんでした。赴任した4月初め、音楽主任の先生と初対面で「音楽コース何やろうか」と聞いたとき驚きました。音楽コースの授業方針、方向が決まっていなかったのです。専門課程の授業は2、3年で週7時間〜となっていてましたが、細かい内容は曖昧だったのです。担当が非常勤を含めて6人で専門の生徒64人を動かして行くわけです。詳細は省きますが、授業形態が整うまでに数年かかりました。それも、2,3年90人(人数は毎年かわりました。大体、2,3年、1クラスずつになるように調整しました。これについて、別の話ができあがります。ここでは触れません)の授業展開は困難がつきまといました。進路の選択コースは学科ではないのです。ほぼ同じ人数で学科だと設備、予算、指導者の人数が桁違いなのです。確かに普通科の中それらのものある程度、あったのですが、やはり限界はありました。生徒1人1人に声楽とか器楽の選択をさせて担当者が決まり、レッスンをすることになっていました。でも、人数の多いピアノ専攻など担当者が足りません。3人で10人近く抱えて90分2枠でレッスンは無理があります。そこで4人の担当に私が回ってきました。私がレッスンできる時間は専門の時間内は作れませんでした。仕方無く、始業前の朝、放課後にすることが当たり前になってきました。音楽コースの運営の仕方はいろいろあったと思います。その当時の私を含むスタッフがその方法を選びました。その当時、中学生が高校受験する時に音楽の勉強ができると思って入学してきていました。でも、多くの生徒は音楽と言うとロック、ポピュラーを頭に浮かばせているのです。実際入ってきてそうではなく芸術音楽の勉強すると言うことを初めて知って戸惑っていたようです。しかし、学校の中でそういった勉強する事はまず不可能に近く、我々も専門課程と言うとゆで卵の学習の方向に進めていかざるを得なかったのです。

川手誠(作曲家)


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