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Spotify「Brian Eno produced 20」

2016年、Bob Dylan がノーベル文学賞を受賞したのはまだ記憶に新しいところです。もちろん詩人としての偉業が評価されたのですが、もともとノーベル賞に音楽賞がないための「苦肉の策」っぽい印象が無きにしも非ずでしたよね。もしノーベル音楽賞があるのなら、絶対この人で間違いなし、とぼくがひそかに思うのが Brian Eno。20世紀~21世紀にかけて、人類の音楽文化に多大なる貢献をしたアーティスト (プロデューサー) です。


70年代①〜電子音楽

ぼくの人生に Brian Eno という名前が加わったのは、1974~75年頃だったと思います。プログレがピークアウトを迎えた時期に、フリップ&イーノ名義でリリースされた数枚のアルバムとともに。ただ、このときは音源そのものをまだ聴いてはいません。名前だけが、テキスト情報だけが、一人歩きしていた感じで、プログレ 5大バンドの LP を必死に集めていた中学生には、そこまで手が (お金が) 回らなかったのです。で、そのテキスト情報がこれまた近寄りがたい雰囲気でした。実験的とか思索的とか、音楽雑誌が伝える情報はおそろしく敷居が高いイメージでした。

もうひとつ、Eno の音源を敬遠気味だったのは Tangerine Dream の存在もありました。S木くんのお姉さんから TDの目ぼしいアルバムは録音させてもらっていたのですが、「Zeit」や「Atem」など黎明期の電子音楽サウンドは非常に退屈で、良くいえば「未知への挑戦」、悪くいえば「コンピューターでこんな音が作れますよ」だけの 80分 (Zeitは2枚組) でした。そこに、革新的だの瞑想的だの、ライナーノーツが無理くりの賛辞を並べても、逆に学生運動 (70年安保) の名残を引き摺るような痛々しさが感じられたのです。おそらくその政治的背景を理解するには、ぼくはまだ幼な過ぎたのでしょう。しかし、クラウトロック全般の初聞イメージは、概ねそんな感じでした。TD のおかげで Eno 音源との出会いは先送りにされました。

なので、当時はフリップ&イーノというユニットにしても、知名度でいうなら 9 : 1 で Robert Fripp が圧倒的な集客担当……。口さがない連中は、まだどこの馬の骨かも分からない Brian Eno のことを、便乗商法的に軽んじる見方も……。「イーノ? 誰?」「ロキシーのキーボード?」。ふうーん。

1977年、David Bowie「Low」が発売されて、この見方は一変しました。いや、ぼくの認識 (不足) が激変しました。いわゆる Bowie のベルリン三部作第一弾にあたる本作は、Eno とのコラボ作品です。特にB面はアウシュビッツをモチーフにした最先端の電子音楽=クラウトロック風アレンジで、当時としてはかなり先鋭的な作風でしたが、これが見事にヒットします (全英2位、全米11位)。B面 1曲目「ワルシャワ」を一聴しただけで惹き込まれたぼくは、続く第二弾「Heroes」でさらに Eno の世界にのめりこみます。ぼくだけではなく、ここでようやく時代が Eno に追いついたのでしょう。

70年代②〜環境音楽

そうです、ベルリン三部作は、それまで一部のマニアだけが聞いていた電子音楽の、商業的な汎用性を証明したのです。70年代初めから Bowie も Fripp もすでにトップ・ミュージシャンたったので、この成功によって一躍名を上げたのは、もちろん Eno その人です。そして、彼の先見の明を裏付けるかのように、この先駆的クラウトロックから、テクノ → ニューロマンティック → シンセポップ、とニューウェーブの主流にエレクトロニック・サウンドが浸透していきました。80年代を迎えて大衆化していくロックの彩りに、シンセの音色/存在はなくてはなりませんでした

この頃でしょうか、Eno 関連ワードとして「アンビエント」が世に出始めたのも。1978年にはズバリ「Ambient 1」という Eno のソロアルバムが発売され、以後も 80年に~2、~3、82年に~4、とアンビエント・シリーズは続きます。また、75年には Eno みずからが主宰する Obscure レコードを立ちあげ、Harold Budd、Michael Nyman、Penguin Cafe Orchestra (PCO)、John Cage、等々のメンツに (今更なからスゲー!) 作品発表の機会を与えます。つまり、アンビエントの供給側にも手当は怠らなかった、地道に種蒔きをしていた、ということ。ぼくがはじめて買った Eno も、「Ambient 2」でした。Harold Budd の作曲&演奏を Eno が編集した作品で、ヒーリング・ミュージックを先駆けるような静謐さを湛えていました。

ただ、正直な話、実感としてのアンビエントには、まだまだ不分明なところがあったように思います (サンプル数が少な過ぎた)。概念的な御題目は別にして、とりわけイージーリスニングと何が違うのか、ぼく自身がかなりオブスキュアーだったので。というのも、同じ頃 Richard Clayderman が流行したのですが、「あんなのはイージーリスニングだ」といった論調があり、その言外には、クラシックのパッチモン、商業主義的堕落、といった蔑視がありありだったからです。クラシック界からも、ポップス界からも、見下された語感=イージーリスニング。その言葉に、少々ぼくは過敏になっていたようです。Eno の行っていることもその一環なのか、それとも本質的に別次元のものなのか。

それは、きっと多くのリスナーの偽らざる本音だったはず……。それほど、当時アンビエントは完全に未知のジャンル……。

80年代①〜新しい波

80年代に入って本格的な大量消費の時代が訪れると、この霧も少しづつ晴れてきます。この時期、なんでもかんでもポップ化・ライト化・マイルド化が進められるなか、クラシック界隈で Penguin Cafe Orchestra が小っちゃなブームになったのもその一因です。新時代のライト・クラシックみたいな捉えかたで、ちょっと前の Richard Clayderman=イージーリスニングとはえらい違いでした。ぼくには、アンビエントのサンプル数もそこそこ出揃った、その代表に思えました。近未来のクラシック周辺、あるいは、ヒーリングのための室内楽。クラシック、ミニマル、民族音楽、電子音楽、を混ぜ合わせた、しかしそのいずれでもないサムシング・ニュー (当時はこれらのタームがなく、肌感覚で納得するばかりでした)。

それにしても Eno の目の付けどころは凄かった、この一語に尽きます。PCO の Simon Jeffes にしても、Harold Budd にしても、アカデミックな背景を持つクラシックの「本物」でしたから。やや遅れて Michael Nyman も映画音楽から火がつきます。アンビエントの認識もメジャーになっていきます。

しかし、そんなものは Eno にとって単なる助走。ぼくがさらに驚いたのは、大衆が電子音楽やアンビエントを追いかけている間に、彼が全然べつの活動をしていたことです。まったく思いもよらない形で次にプロデューサー Eno の名前に触れたのが、1980年 Talking Heads「Remain In Light」でした。N川くんが「えげつないぞ、これ」と言って貸してくれました。それまで聴いたことがないアフロリズム。身体の芯から蠢動するリズムとはアンバランスな NY のアーバン&インテリっぽいコーティング。シーンは絶賛し、Talking Heads はたまちニューウェーブの寵児に。それを 3年前から Eno がプロデュースしていたとは。「イーノ、一体あなたは何者?」と正直ぼくは神々しさに震えました。世界を変えるのはこういう人なのだ、と確信しました。

80年代②~温故知新

後追いで調べると、Eno は70年代末からノーウェーブ/ポストパンクの動きに接近しており、1978「No New York」というコンピ盤ライブをプロデュースしていました。また、DEVO のメジャーデビュー盤「頽廃的美学論」のプロデュースも担当、Talking Heads がマグレ当たりではなかったことが、いっそうぼくを感服させました。彼は常に世の中の動向を見て、次はどうなるか考え、行動に移しているのか。世界の本質を見極めているのか。

おそらく70年代初頭に比べると、Eno のネームバリューは数百倍に跳ね上がったことでしょう。Fripp や Bowie とのコラボ時は露払いのような立場でしたが、「Remain In Light」を世に放ってからは完全に Eno がメイン。しかも、その後 Talking Heads のプロデュースを離れたのが (David Byrne とのコラボは続きますが)、また潔くてカッコよかった、はい。ぼくにとって Eno はいつも先回りの天才で、前衛音楽の脈絡で見つけた Jon Hassell「第四世界・マラヤの夢語り」のクレジットを見ると、そのドラムに参加していたのは Eno。映画「Dune」のサントラを TOTO が担当したかと思えば、そのテーマ曲のコラボレーターは Eno。といった具合に、彼は必ず時代のニーズを/ぼくの関心を先取りしていたのです。

そして1987年、U2 の歴史的名盤「The Joshua Tree」がリリースされます。メイン・プロデューサーは Brian Eno

まさか、の驚きには、全然予想できなかった音楽性の距離感があります。アンビエントでもニューウェーブでもなく、今度はルーツ・ミュージックを再解釈した王道ロック。U2 が元来アイルランド出身ということもあり、政治問題・人権問題に対する意識は高かったものの、Eno とのケミストリーによって世界的なシグニチャー・サウンドを確立しました。いや、正確には前作「Unforgettable Fire」からすでに Eno は関与しており、1985年の「ライブ・エイド」でのベストアクトも好評だったので、U2 がいよいよブレイクする兆しは充分にありました。しかし、世の中がすっかりニューウェーブに染まったときの、ロックの温故知新です。それも、インテリの企みに終始せず、まさに王道を極めた爆発的セールスをもたらしたのです。

Eno がプロデューサーとしてわが世の春を迎えたのは、間違いなくこの時期でしょう。「The Joshua Tree」U2は数々のギネス記録を打ち立てます

思えば、ロックを聴きだしてから50年以上、ぼくはずっと Eno と歩いてきました。付かず離れず、密着度はその都度さまざまでしたが、結局、西洋音楽の進歩は彼の足跡そのものでした。その知性、透徹した慧眼、時代性への嗅覚、そして実行力に至るまで、それらを天才という一語で括れるのなら、Eno は正真正銘の天才です。たとえ音楽に関わらなくても、仮りに大手商業銀行の債券ディーラーになっていれば、彼はやはり世界のトップに立ったでしょう。もしかすると、いまの若い人達にはこのリアリティーが伝わらないかもしれません。それなら、次のように想像してみてください。

もし Eno がいなければ、現在の音楽ジャンルはどうなっていたか……。あなたが踊るEDM もエレクトロニカも、心癒やされるアンビエントもニューエイジも、あるいは、ノリノリのアフロビートも音響系ポストロックも、この世には存在しなかった……。そう思えば、Eno がノーベル音楽賞にふさわしい理由も、少しはお分かりいただけるのではないでしょうか。最後に、21世紀の Enoプロデュース作品も貼っておきます。

それでは、また。
See you soon on note (on Spotify).

  


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