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たこやき屋

R40+  3200文字  70年代~80年代
JR駅前風景 (邦楽)  屋台のたこやき屋
※興味のないかたはスルーしてください※

イントロ・タグ

先般、母の介護施設候補を見学に行ったときのこと、相談室に案内してくれたスタッフの名札に思わず釘付けになりました。「K池」と書かれた、お年寄にもよく分かるように大きく印刷されたその苗字は、とても珍しく、ぼくにはとても懐かしいものでした。プライバシー保護のため、K池、としか表しませんが、きっと読者の皆様には想像もつかない珍名です。ぼくの人生でも、K池という苗字は小・中学校の同窓生しか思い当たりません。

そのスタッフは女性で、50代半ばぐらい……。ということは、彼女は同窓生の妻君だろうか、待てよ、K池くんにはたしか 4・5歳離れた妹が……。

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JR阪和線の最寄駅の近くに、一軒のたこやき屋がありました。東改札口から20mほど離れた線路沿いで、毎夕そのたこやき屋は屋台を組み立て、夜遅くまで営業をしていました。正式な店名はなかったと思います。いや、ぼくが忘れただけなのかもしれませんが、ぼくらにとってその店は「K池んちのたこやき屋」だったのです。1970年代、物心ついたときには、もうその店は駅前風景の一部でした。当たり前のようにそこに在りました。

K池くんは色黒で、ひどく痩せていました。いつもだぶだぶのランニング・シャツを着て、それも油塗れに黄ばんだもの、屋台を仕切るお父さんを手伝いながら、黙々とたこやきをひっくり返していました。義務教育の間、ぼくは一度も同じクラスになっていません。遊んだ記憶もまったくなく、友達と呼べる間柄ではなかったと思います。まあ、それも当然で、学校が終わって一息つくと、K池くんはもう夕方には駅前の屋台にいたのです。平日も週末も関係なく、彼にはたこやき稼業がすべて、親しい友達に成り得た同級生なんているはずがありません。お父さんは、見るからに気の弱そうなタイプでした。長じて「テキ屋」というものを知ってからも、その言葉から連想されるイメージからはおよそ掛け離れていました。

味はどうだったのか、なにも覚えていません。それどころか、K池くんのたこやきを買った記憶さえ、ぼくにはありません。ぼくの父がいわゆる勤め人ではなく、会社帰りに駅前で一杯ひっかけて土産を持ち帰る、といった文化とは無縁だったせいもあるでしょう。また、単純にうちが貧しく、無駄な食費にまわす金銭的余裕がなかったせいもあります。しかし、K池くんの屋台の向かいにある「いろは」のコロッケはよく食べたので、後者はイマイチ説得力がありません。もしかすると、なんとなく気後れするような空気があったのかも、と現在では考えています。それを、うまく言葉で表せないもどかしさ。自信はないのですが、70年代の民度の低さから推し量ると、たぶんぼくは直感的に越えてはならない一線を察していたのでしょう。

それは、微妙な距離感として、K池くんの周囲にシールド・バリアを張っていたようにも思います。早い話、たこやきを買うときに一声かけるその言葉が、まったく思い浮かばなかったのです。相手が K池くんであることは、街中の誰もが知っています。しかし、学校で話したことはなく (学校では極端に影が薄く)、はっきり言えば、ほとんど子供らしい交わりがない。それを今更「あ、K池くんや」と言って小銭を渡すのは照れ臭いし、「宿題もう終わったん?」と聞くのも憚れるし。どう考えても、たこやき一舟に釣り合う簡単なコミュニケーションではなかったのです。

だから「K池んちのたこやき屋」は、おもいでの風景に必ず貼りつくマストピースではあるものの、ヴィヴィッド感がない紋切型の記号のように感じられます。あるいは、双方がその紋切型に逃げこみ、敢えて思考停止していたように。そういえばたしかにぼくは 、K池くんが常連と悪ふざけをしたり女性客に冗談を言ったり、いわゆる接客にまつわるナマの言動を見た覚えがありません。もちろん、現実にはそういったことは日常茶飯だったはずで、ぼくの先入観が「見ざる聞かざる」を決めこんでいた、という可能性は大でしょう (むしろこのほうが重要)。そして、向こうもぼくのことを同様に「見ざる聞かざる」で捉えていたのなら、たがいのこの緩やかな無視は何だったのか、と思います。侵さざる一線。

高校時代の三年間、ぼくは平日その JR駅に日参していました。当時、付き合っていた T家さんを送迎するためでした。

駅前で T家さんの帰りを待つとき、T家さんの乗っている快速電車を動体視力で追いかけるとき、あるいは、改札から出てきた T家さんがぼくを認めて嬉しそうに小走りで駆けだすとき、雨の日も風の日も、K池くんはいつも離れた屋台から見ていたはずです。同い年のカップルがイチャつくところを見るのは、どんな気分でしょう。華やいだ T家さんのオーラは、周囲の誰をも振り向かせるほど美々しかったのです。年頃のキュートな一挙一動、二人の溢れだすフェロモン、手前味噌ですが、たぶん街中公認のカップルとしてK池くんも認識していたでしょう。良いときだけではなく、痴話喧嘩になって T家さんを泣かせたことも、自転車の二人乗りを警官に注意されたことも、きっとK池くんは「見ざる聞かざる」で知っていたのです。

T家さんだけではありません……。キャサベルの仲間と駅前パチンコ店で遊んでいたことも、粋がって肩で風を切っていたことも……。

いや、もっと言えば、学校中の生徒がその JR駅を利用したのですから、休みに遊園地へ行く家族連れも、繁華街へ繰り出す同級生グループも、間違いなくK池くんは見送ったばすなのです。嫉妬や羨望はもちろんあったろう、と思います。むしろチッと舌打ちでもしてくれたほうが、まだぼくは救われるような気がします。一体 K池くんは何を思い、何を楽しみにして、日々の生活を送っていたのでしょうか。

いま思うと、「K池んちのたこやき屋」は違法営業だったにちがいありません。公有地の許可問題のみならず、児童福祉法の観点からいっても完全にアウト。そして、時代とともに駅前風景も変わっていきます。80年代後半からバブル景気が始まると、駅前には放置自転車が溢れます。

開店準備のため、放置自転車を整理する K池くんの姿を幾度となく目にしました。駅舎は立体的に改修され (跨線橋ができ)、周辺からブルーシートが消えました。ただ、ぼくらにとって大事なのはたこやき屋が続くことであり、そこに K池くんが休まず今日もいること。結局、彼が工業高校を卒業したのかどうかさえ、ぼくは知りません。永久就職、は結婚に対する女性特有の言葉でしたが、文字どおりの永久就職を彼はずっと背負っていたのです。「K池のおっちゃん、倒れたらしいな」「妹さんが店を手伝ってるわ」「見た見た」「可愛いよな」。

80年代も終わり頃、夜のたこやき屋を覗いたことがあります。煌々と照らす照明の下、手さばきよくピックを操っていたK池くん。派手なドレスシャツの前をはだけ、金のネックレスが輝いていました。傍には、俯き加減に生地をこねる女性がいました。彼女が K池くんの妹であることは、学生時分から知っていました。「姉ちゃん、飲みに行こや」酔払いが絡んでくると、妹さんは申し訳なさそうに手を横に振るだけでした。すると、K池くんがくるりとピックの向きを変え、酔払いのほうに定めました。ドスの効いた声で「帰れっ!」と言い放ちました。

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介護施設をあとにするとき、K池さんはもういませんでした。彼女がぼくの知る K池くんの伴侶なのか、妹なのか、結局は訊けずじまいでした。どちらかに違いない、という直感はあったものの……。駐車場でうずくまる野良猫の尻尾あたりまで、シマトネリコの影が延びています……。

母の認知症は進み、最後まで「施設には行きたくない」と言っていたことさえ判らなくなりました。7月末で母を入所させました。





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