20150919_10プレイク

スコールと戦争 (ベトナム・プレイク)

2015.09.19(Sat)  3日目後半 プレイク

プレイクに着いてバスが降ろしたのは、町の中心地にある5階建くらいの大きなホテルの前だった。
自分の中での内陸都市のイメージとは違って、4、5階建くらいの高い建物が並び、ちらほらとガラス張りだったりして、割と都会的な印象。

プレイクは、ベトナムの中部内陸に位置するザライ省の省都で、二つの主要高速道路(14号線と19号線)が交差する交通の要衝である。

Wikipediaによると、ベトナム戦争中はアメリカの空軍基地が攻撃され、有名な北爆のきっかけとなった町。
1975年には南ベトナム軍によって焼き払われたが、1980年代にソ連によって再建されたそうで、モニュメントや区画の形成がどこか洋風な印象。

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とりあえずは宿の確保から。
降ろされた目の前にホテルはあるが高そうなので、ひとまず街歩きしながら小さな宿を探すことに。
中心地は緩やかな坂が多く、道の両側にはお店が並んでいる。
街らしい町だ。

ただ、カフェやコンビニを覗いても、外国人旅行者の姿はない。
思い返せば、ここまで最初のホイアン以外で外国人らしき人に出会っていなかった。

その後も調査がてらに街の中心部をひと通り歩いたものの、いわゆる”ゲストハウス”的なものは見つけられなかった。
外国人があまり来ないからゲストハウス的な宿がないのかもしれない。(ニワトリたまごかも)

諦めて、はじめにバスを降ろされた目の前のホテルに恐る恐る入ってみた。すると、意外にも値段は普通だったので決定。
その分部屋は質素で清潔感はあまりなかったが・・・。
部屋に入って荷物を降ろす。

休憩しながら、明日以降のことを考える。
プレイクは交通の要衝にあるだけの地方都市という感じで、完成度の高い街ではあるが、もう1泊するような魅力はあまり感じなかった。
となると、次はいよいよ国境越えをしてカンボジアに入国することになる。

プレイクからカンボジアへ通る道があることは、事前にGoogle Map上で確かめていた。
同時に、確からしいことはそれしかなく、想定通りにカンボジアへ入るバスがあるのか、その国境は日本人でも通過できる国境なのかについて、確証はない。

まぁ薄暗い部屋で考えていても仕方ない。
まずは行動!で、バスターミナルを探すことから始めることにした。

わずかなネットの情報では街の中心部から1キロほどのところにバスターミナルがあるとのこと。
フロントでバスターミナルの場所を聞くと簡単な地図を描いてくれ、やはり1キロくらいの場所にあるらしかった。


スコールとおじさんたち

さっそく歩き出そうと外に出ると、3人くらいのバイクタクシーのおじさんが、宿の前の階段でたむろしていた。
彼らは、歩き出そうとする僕を見て、遠くの空を指差した。
指差す先には、これでもかというくらい黒い雨雲が重く横たわっていて、ずんずんとこちらに近づいているのだった。

スコールが来るの?とジェスチャーすると、そうだそうだと頷く。
自然には逆らえないので、たむろのおじさんたちと並んで階段に座り、ゆっくりと本を開く。

おじさんたちのタバコの吸殻が何本か重なるころ、予定調和的に強烈なスコールが降り始め、雷も鳴り出した。
人々は小走りに、建物で雨宿りする。

ふと道路に目をやると、なぜだかバイクは普通に走っている。
よくよく見ると、バイク用にカスタマイズされたカッパを着て運転しているのだった。

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バイク社会のベトナムでは、スコールが降るくらいではいちいち止まっていられないらしかった。

降り続くスコールの中、おじさんたちと並んで、静かに止むのを待つ。
隣のおじさんがタバコを勧めてくれたが、吸わないんだと伝えて断った。

またしばらくすると、その本はなにかと聞いてきた。
もちろん聞いたところで理解できる可能性はほとんどないのだけど、妙に自然に隣に座る外国人にそわそわしたらしい。

ベトナム戦争の本だよ、といくつか写真を見せてみるが、案の定あまり伝わらなかった様子。
そうかそうかと適当な相づちを打ちながら、また自分のポジションに戻り、おじさんたちと僕との静かな時間が再開する。

日本でもベトナムでも、雨の中で静かにしていると、不思議な感覚になる。

だらしなくどこまでも続いていく空間に、雨がその物理的な水のカーテンと、一定に続く音で、一つ一つ区切りをつけてくれる気がする。
その一つの空間にいる自分は、静かにその場に留まることを許されているような感覚。
誰かとその空間にいれば、例え知らないひとであっても、”雨に降られていること”を共有することができる。
晴れでは起きないことも、雨では起きたりする。

そして、昔のなにかを思い出す。
幼い頃の記憶なのか、実際には体験していない遠い昔の感覚なのか。

そんなおじさんたちとの不思議な時間は、吸殻の山を一つ作ったころに幕を閉じた。


Bus?? なんだそれは。

立ち上がり、じゃあね、と雨上がりの湿気たっぷりな道を歩き出す。

地図は割と単純で、最後の角を曲がり、緩やかな坂を登っていく。
1キロだから、20分くらいで着くと思っていたけれど、30分くらいしてもバスターミナルは見当たらない。
緩やかな傾斜に加えて、歩道がガタガタしていたり穴が空いていたりで、サンダルにはなかなかしんどい。

さらにしばらく続けたが、帰るのにも時間がかかってしまうと思い、もったいないが、いったん宿に戻ることにした。

無駄に歩いてしまった疲労感と、やっと長い登り坂が終わった開放感を左右のふくらはぎから感じながら坂道を下っていると、1台のバイクがスピードを緩めながら近づいてきた。

それはどうやらバイクタクシーで、おっちゃんはお前はどこへ行くんだと言っている様子。
別にお金を払ってバイクに乗っけてもらうつもりもなかったので、乗らないからいいよと伝えたつもりで歩き出すが、おっちゃんは並走して「乗れ乗れ」と言ってくる。

しつこいなと思いながらも、よくよくおっちゃんの顔を見てみると、何だか僕を心配しているようにも思える。

その時になってようやく気づいたが、この暑さの中歩いている人など自分以外にいなかった。ましてや、とぼとぼとサンダル履きで歩く外国人風の男は不審者でしかないようだった。

とりあえず邪険にするのはやめて、バスターミナルを探しているんだと言ってみるけれど、おっちゃんには伝わらない。
ここではターミナルという言葉が一般的じゃないのだろうと思い、バスステーションやバスストップと言い換えてみるけれど、一向に伝わらない。
まさか・・・と思いながら、バス!と言ってみると、悲しいことに、おじさんの表情は全く変わらなかった。
そもそもここでは、バスが”Bus”ではなかったのだ・・・。

バスに乗りたいのに”Bus”が伝わらないという事実に直面した人間がどれほど動揺するのかは、僕の表現力では書ききれない。
なんて言ったって、誰もいない道端で「Big car!」と叫びながら、両手をめいいっぱい広げてバスをジェスチャーで伝えようとするんだから。

それでいて、”Bus”が伝わらないのだから”Car”だって同じなんじゃないかと心の中で自分にツッコんでいる。
それくらい僕にとっては旅で伝わらないと困ってしまう基本ワードだった。

おっちゃんはしばらく僕の奇怪な行動の数々を、まじまじと見ていた。
そのうち僕は正解のバスを引き出す決定打がないことを悟り始め、とりあえずホテルの名刺を見せて中心部まで乗せてもらうことにした。

じわじわと苦しめられた緩やかな坂をバイクに乗って下っていると、おっちゃんは僕が通ってないはずの道へ曲がった。
おっちゃんが「ここだろ?」という感じで指さす先には、広場に”Bus”が何台も停まっていた。
おっちゃん、よく理解してくれた!
でもどこで分かったの・・・?

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なかなか立派なバスターミナル。歩いた坂道から少し横道に入ったところにあったのだ。

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チケットオフィスの中にはいくつかのバス会社のカウンターがある。

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プレイクからは色々な方面へバスが出ている。ちなみに8h00というのは所要時間ではなく、8:00発という意味。

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そして、国境越えの心配は空振りに終わり、堂々とカンボジア行きのバスが運行されていた。
やっぱり、道があるんだから人は通り、人が通るんだから交通手段もある、という感じ。
おっちゃんのおかげで、無事に翌朝のカンボジア行きのバスチケットが手に入った。


コーヒーを飲みながらベトナム戦争を考える

目的が果たされると、喉が渇いてきた。
おっちゃんに「コーヒー飲もうよ」と言って(これはすんなり通じた)、ご用達の茶屋へ。

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グラスの底には練乳がセッティングされ、その上にゆっくりゆっくりと濃いコーヒーが滴る。
濃くて量が少ないので、氷を入れてアイスにすると、火照ってくたびれた体にちょうどよく染み渡る。
砂糖も用意されているので、お好みで氷の前に入れてかき混ぜる。砂糖の甘さと練乳の甘さは違うから、きっとそれぞれの人にベストバランスがあるのだろう。

こういうところでは大抵はお茶が一緒に出される。
「とりあえず茶を出す」的な文化は東アジアに通じるポイントだ。

おっちゃんとちびちびコーヒーを飲みながら、茶屋の人にガヤガヤ絡まれていると、目の前を松葉杖をついた50歳くらいの男が通って行った。
よく見ると彼には左足が付け根からなかった。

ベトナム戦争やその負の遺産で片足を失ってしまったのかと考えたけれど、それは僕の勝手な連想で、実は全然関係ないのかもしれない。

その時に気付いたのは、自分が「これまででベトナム戦争で負傷した人を全然見ていないな」と考えていたことだった。
つまり、もっと見かけるんじゃないかとどこかで思っていたのだ。

その原因として考えられるのは、実際には僕が思っているほど現在も身体的な傷を負っている人が少ないか、町にはおらず農村部にいるか、町にはいるがなんらかの理由で外に出てこないか、そのあたりかと思う。

仮に後者の二つに近いことが原因なのであれば、ベトナム戦争の傷跡は、見かけ上と実態に差があるのかもしれない。

復興には、むやみに過去を見ず、前を向きポジティブでいることが原動力になる、ということも理解は出来る。
けれど、上塗りすることのできない、過去の時点から現在まで繋がって進行していることもあって、そこに目を背けてしまうと、見かけ上と実態に差が出てくるのではないだろうか。

その差は、いつかひずみになるかもしれない。つらくても、過去を自己に内包しながら、前に進むしかないのだと思う。これはベトナム戦争に限った話ではなくて。


ホテルへ戻ると、おっちゃんは「明日迎えに来るぞ」と言っている。誘いは嬉しいが、バスに乗れないと困るので、おっちゃんが遅れても歩いてバスターミナルに行ける7時待ち合わせにし、ホテルのスタッフを交えながら「7時、7時」と腕時計を指して念押ししておく。

明日はいよいよ初めての陸路による国境越え。
道端で買った大きな肉まんを食べてから、早めに就寝した。

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