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「学校に行く」ことが生むリスク

「貧しい国の子供たちを学校に通わせたい」

日本で生活していると、そんなフレーズが書かれたプロジェクトをよく目にするし、それを読む少しの間、心動かされるものがある。
「学校に行ってないなんて、かわいそうだな。」と。

僕自身、教育はとても重要なものだと思っている。

しかしベトナムでの経験をするまでは、盲目的に教育は是だと思っていた。
ましてや、学校に行くことにリスクがあるなんて考えてもいなかった。


ベトナムで山仕事を手伝う子供たちに出会う

2017年5月、僕はベトナム北部にある、ハジャンという山岳地域をバイクで旅していた。
ハジャンは大部分がカルスト地形で、急峻な岩山が連なり、見たことのない美しい景色がどこまでも続いていた。
一部の窪地や斜面では、地域ごとに異なる民族が作物を育てて生活していて、険しい環境ながら、のどかな雰囲気も感じられた。

ある時、僕が山道をバイクでゆっくり登っていると、急に道路脇の木々がザザザッと揺れだした。
僕は急な音に、大きな獣か?と一瞬身を固くしたが、次の瞬間に現れたのは、子供たちだった。

彼らは、背中に自分の体より大きい葉っぱの束や鎌を背負い、険しい表情をしていた。
その顔には子供のあどけなさはなく、”山の人”とでもいうような風格があった。

僕は彼らがちょうど山仕事を終え、山から下りてきたところに出くわしたのだった。

先頭を歩く子と目が合った。
すると一瞬、彼は僕に興味を持ったような表情になったので、ちょっと話ができるかなと思い、5メートルほど通り過ぎたところから引き返した。

見知らぬ外国人が引き返して近づいてきたのを見て、子供たちは興味半分で足を止めた。
笑顔で話しかけると、笑顔で答えてくれた。ここでようやく子供らしい表情を見せてくれた。

僕が横に座ると、彼らも荷物を降ろして横に座ってくれた。
すると、再び木々が揺れて大人たちが降りてきた。彼らのお母さんたちだった。

彼らの運んでいるものを見せてもらったり、僕の持ち物を見せたりして話していると(言葉は理解できない)、彼らが充実感に満ちた、芯のある表情をしていることに気がついた。

こんな表情、東京の子供たちにはできないんじゃないか、と思った。
いや、それどころか、街に住むベトナム人だってできないんじゃないか。

彼らの誇りと充実が感じられるその表情が、単に魅力的でカッコ良かったのだ。

いい出会いがあったと嬉しく思うのと同時に、ベトナムの「発展」によって、いつかはこの地から「彼ら」が失われることになるのではないかと、寂しく思った。

別れ際も、僕はその微妙な気持ちを抱えながら手を振るしかなかった。


学校に行かないのはかわいそうなこと?

ベトナムに行く直前に友人から、ラオスの奥地で教科書を配り、もっと子供たちを学校に行かせよう、というクラウドファンディングを勧められた。

じっくりと内容を読んだ上で、結果的に僕は参加しなかった。

理由はというと、目標金額の割に配布する教科書が少なく、本人の滞在費など本来の主旨と違うところにお金が回っているんじゃないか?、という運営面の疑問もあったが、一番は、「学校にいけないなんてかわいそうだ」と決めつけている雰囲気になんとなく違和感があったからだ。

そんな中で、彼らと出会った。

彼らは午前中から山仕事を手伝っていて学校には行ってない。
けれど、彼らを目の前にして、かわいそうだと思う人は誰もいないと思う。

当たり前のことだけど、かわいそうかどうかなんて直接会ってみなければわからないと、改めて思った。


「学校に行く」ことが生むリスク

もしも彼らが学校に行くようになったらどうなるのだろう。

まず、学校に通わせ教育を受けさせることの大きな目的の一つには、より高い賃金を得られる仕事に就くことによって、個人(ミクロ)としては貧しい環境から抜け出し、国(マクロ)としては国全体の経済力を上げることがあると思う。

それはハジャンのような農村部で言えば、農業の次の担い手にはならず、街で高収入を得て、村に仕送りすることを意味するだろう。

その時、担い手がいなくなった山や畑はどうなるか。
ハジャンのような肥沃とは言えない土地では、手入れを欠かせば荒れ果て、再び作物を得られる状態に戻すには膨大な時間と労力がかかるだろう。

畑で作物が得られなくても、街で高い賃金が得られていれば問題ないのかもしれないが、街で働くときは失業のリスクがつきまとう。
教育を受けていても、同じように教育を受けた子供たちがこぞって街に流入していれば、教育を受けた子供たち同士での仕事の取り合いは避けられない。
(人口が増えることによる仕事の増もあるが、部分的だと思う)

失業してしまえば、当然生活が立ち行かなくなる。可能性の話とはいえ、生命の維持に関わる問題となる。

一方で農村部での生活を続けた場合を考えると、現金収入は少ないとしても、食べていけるだけの生活はできる(現にできている)。

つまり、村での農業は彼らの生活のセーフティネットの機能を果たしているのだと思う。
考えてみれば、先祖代々その地で畑を耕し、現に生活を続けてきたのだから当然だ。

子供たちが学校に行くことは、国の経済という(マクロな)視点で考えると良い選択でも、農村に暮らす彼ら個人の行動という(ミクロな)視点で考えると、必ずしも良い選択とは言い切れないのだと思う。

始めに書いたような学校に通わせるプロジェクトでは、「親の理解(教養)不足によって、学校に通える状況でも通わせようとしないことがある」といったことがたまに書かれている。
目先にある子供の労働力を頼りにして、親は子供を学校に通わせようとしないのだという。

その見方は、僕にとっては一方的なものに感じる。
「生活が出来ているのに、わざわざ勉強させて街に行かせる必要はない」と親が考えるのも一理はあると、今回感じたのだ。

ハジャンの場合、作物を生む山や畑は、肥沃とは言えない大地の上で民族が生き延びるために、先祖代々、大切に残してきた遺産だ。
大切にし続ければ、この先も恵みを与えてくれる。山や畑を手放し、街に住むことが正解だと言い切るのは難しい。


現地の人々の生活を感じることが重要

僕は、学校に通う子供を増やす活動自体に反対ではない。
むしろ、進んでいけば多くの良い影響があると思う。

しかし、彼らの実際の生活を置き去りにして、教育は必ず是であると盲目的に進めるプロジェクトには賛同したくない。
そのプロジェクトによって、僕が出会った彼らが生活できなくなってしまうかもしれないからだ。

プロジェクトを進めようとする人には、その支援対象である人々と少しでもいいから生活を共にしてほしい。
一緒に食べて、一緒に働き、一緒に寝てほしい。
その上で必要だと感じたことは、きっと本当に人々にとって必要なものなのだと思うから。それがこの旅で僕が感じた一番のこと。

クラウドファンディングの広がりによって、プロジェクトの立ち上げが手軽になった反面、資金集めにあたって事前の入念なリサーチが必須ではなくなったように思う。

プロジェクトに支援する側の私たちも、そのプロジェクトは確かな考えがあるものなのか、信用できる人なのか、良く見極める責任があると感じる。
人に変化や影響を与えることは、良い側面ばかりではないだろうから。

※今回は持続的な生活を送っているハジャンを例にしていますが、持続的な生活を送れない環境の地域では、教育や給食の意義が異なると思います。それでも、慎重なプロジェクトの立ち上げ、支援が重要であることは変わらないと思います。


僕とのおしゃべりを終え、仕事に戻ろうと紐を結び直す少年。これからもう一仕事だ。がんばれ。


たくさんの応援ありがとうございます。