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凡人が、本気で生きた結果


今回は僕の今までの生き方について
話していきたいと思います。


簡単なステータス
5人家族
うちの家系がものすごく頭の良い家系で
先祖、親戚には学校の先生、教育委員会、政治関係、お寺を持ってる方、動物病院経営

そんな中・・・僕は凡人
何一つ優れてるものがありませんでした。

二つ上の兄貴は頭は悪いけどサッカーはすごく天才的。
東日本の選抜レベルまで行きました

そんな僕のストーリー。


小さい時から
ものすごいストイックな家庭で育ちました。
幼稚園の時から毎日家での勉強、幼稚園終わりに習い事、空手など、させてもらってました。
小学生になり、プール、習字、サッカー、塾、そして、家での勉強をこなしていました。

勉強は国語、算数、本読みを中心に
毎日点数を取らないと寝ることができませんでした。
家ではさらにミッションがあり、リフティングを1日2000回終わるまで寝ることができませんでした。

兄貴はうまく誤魔化し、うまく生きていきました。

僕は恐怖から逃げることができず、怒られながらこなし、こなし、こなし続けていきました。
小さいながら、人生は嫌なことをこなし続けていくものなのだと感じ、我慢をする能力がつきました。

サッカー少年団でサッカーを始めたのですが、やるからにはトップをとらないといけないという想いから、クラブチームに入団。小学4年生の時に市の選抜、小学5年生の時に全国大会。小学6年生で全国大会準優勝
そして、小学5年生の時から、そのチームの中学生チームの人たちと練習をしていました。

僕らのチームは月末にファックスで
翌月のチームメンバーの発表がされるチームでした。
トップチーム
Aチーム
Bチーム
Cチーム

僕は小学生の時ずっと小学生チームのトップチームで
小学5年生の時、中学生グループのAチームで練習した。


僕は凡人でした。
誰よりもうまくなりたかった。
誰よりも走れる選手でいたかった。

だから毎朝早く起きて、朝練をした。
学校が終わって自主トレをした。
初めて、自主的にトレーニングを始めた。
この時は、もう習い事はサッカーと塾、家での勉強、リフティング2000回だけだった。

友達と遊ぶ時もスポーツ、サッカー、体を動かすことばかり。
人混みが嫌いな僕は1時間かけて自転車で練習場を往復した。

周りの選手がうますぎて、プレーするのが怖かった。
ものすごく消極的なプレーばかりしていた。
だけど、走れた。誰よりも走れた。
逆に言えば、走れるだけ。
悔しかった。

けれど、メンタルが、鬼のように弱かった。
チームは全国準優勝レベル

中学生になると、小学生のときの数倍レベルの高いサッカーが求められた。
80名ほどくるセレクションから選ばれた20名のメンバーで、小学生の時よりレベルの高い人たちとトップチームを競い合った

頭を使って生きてこなかった結果。
僕は完全に何もできない、ただの走れる選手になっていた。



高校生になり、部活というものを初めて経験した。
僕らが入学前の年の新人戦で優勝しており、
ものすごく、良いコーチがいるからそこの学校を選んだ。
そのコーチは僕らが入学する4月に、他の高校にいってしまっていた。

レベルの低い設備
サッカーを知らない監督
最高の中学時代の施設からすると一気に環境が変化した。


入部して最初の大会、3年生が、負けた時のミーティング
なぜか一年生の僕がみんなの前で怒られ、もう来るなと言われた。
初っ端、頭の悪い監督に嫌われてしまい、練習試合すら出れなかった。
ずっとボール拾い、ラインズマン、グラウンド整備の日々だった。

けど、僕には考えている余裕がなかった。
僕はプロになりたかった

新聞配達を始めました。
意地でもお金を貯めて海外に行きたかったから。

部活をやめることも考えたが、その場所を借りて練習しようと思い、みんなが辞めていく中、辞めずに環境を利用した。

誰よりもグラウンドにはやくいき、自主トレ
終わった後にスポーツジムで筋トレ。
そして、その後社会人チームの練習に参加させてもらってた。
2時50分に起き、0に近くに帰宅。睡眠時間は約2時間
それを、2年半やり続けた。
そして、イギリスに行った。

イギリスの、マンチェスターユナイテッドのサマーキャンプに帯同し、人生2回目の海外でのサッカー
コーチと選手の距離感や、練習メニュー
個人能力の高さ
メンタル面など
ものすごく日本との違いに驚き
いままで僕は何かの洗脳の中でもがき苦しんでいたことに気づいた。

日本に戻ってきて
サッカー専門学校に入学した。
毎日の2部練、サッカーに関する授業を3年間おこなった

卒業後は地域リーグのチームに行く人たちが何人かいたが、僕はプロになりたかった。

スペインか、ドイツに行こうと思っていたが
脊柱管狭窄症という怪我をした。
サッカーができなくなった。

僕は卒業後地元に戻り、スポーツジムでアルバイトをしながら
フットサルをしていた。

体が思うように動かない。
常に目眩、吐き気がする。
けど僕にはサッカーしかない。

今しかない。
ピッチの上で最後を迎えるならそれが1番。
と考えていた時に
電話が鳴った。
伊藤壇さんというサッカー選手
なんとアジア数カ国でプロサッカー選手として活動していたアジアの渡り鳥

プロになりたい人を探してる
君の名前が出たから連絡した

明日5時に⚫︎⚫︎に来れる?
と言われて向かったら
ニッカンの記者の方々がいた。
チャレンジャスアジアとの出会い。


凡人でも頑張っていたら
こんなことがあるんだ。

僕はタイにいった、
そしてカンボジア

そしてオーストラリアにきた。

理由は簡単
いつ怪我でサッカーを失ってもいいように
人生を生き抜く武器を持っておきたいと思い
英語を学ぼうと思ったから。

オーストラリアにきて、すごい差別にあったりして急にピタッとサッカー熱が冷めました。笑

2年ほどプレーしていたのですが
差別されるたびに
辛い想いをし、こんな想いするために生きているのは嫌と思い
サッカーを、辞めフットサル一本で勝負することにしました。

フットサルではNPL1の強豪チーム
MASCOT VIPERSでプレーし、優勝を経験しました。

オーストラリアでは自分のサッカースクールをつくり
約100名ほどの子どもたちとサッカーを、することができた。


そして、コロナのせいで全てを失い日本に一時帰国。

日本にいた3年間は
毎日勉強、トレーニングをひたすら繰り返した。


そして、今の奥さんと出会い、オーストラリアに戻ってきた。

良いタイミングで今のSDBサッカーアカデミーのボスに出逢った。
選手としてプレーするチームを与えてくれて
サッカーアカデミーのコーチとしても働いている。

最高にいい人達に恵まれたのは
人生でも本当に本当に少ない。貴重な体験。


この僕のストーリーで伝えたいメッセージ


凡人でも何かに向かってひたすらに頑張り
諦めずに前向きに進むと
必ず自分にいいことも、悪いことも起きる
その起きたことからたくさんのことを学び、更に成長するために行動する。

たくさんの挫折と少しの良い思い出の、連続。

人生にはテーマがある。
僕のテーマは挫折の、繰り返し

  • 性格や才能に関係なく、努力と継続が成功につながる自身の経験を通じて、凡人であっても頑張り続けることで成長や良い結果が得られる

  • 家族や環境の中で自身の特徴や才能を見つけ、それを活かす方法を探る
    複数の家族のメンバーが異なる分野で成功している中で、自身の個性を生かすポイントを探り、他者との差別化を図る

  • サッカーやスポーツを通じて、目標を持ち、努力を続けることで結果を出す
    苦労や挫折を経験しながらも目標に向かって突き進む姿勢や、継続することの大切さ

  • 異文化や差別に直面した経験を通じて、多様性や寛容さの大切さを伝える記事。自身が差別を受けた経験を通じて、他者に対して理解や尊重を持つことの重要性

  • 挫折を乗り越えるための心の強さや回復力に焦点を当てる
    自身の経験を通じて、困難や挫折を乗り越えるためのヒントやアドバイスを提供



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