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モードの歴史vol.2 ショッキングピンク、ニュールックの誕生 〜モードの復活〜

こんにちは、lilcatです。
今回は前回に引き続き、モードの歴史について書き込んでいこうと思います。

1930年代 ショッキングピンクの誕生

1910年〜20年代にて、ポール・ポワレやココ・シャネルの登場により、女性をコルセットから解放し、その洋服を大量生産し新たな既成服を販売し、多くの人々を自由にするという偉業を成し遂げました。
その後、10〜20年の時が経ち、ポワレ本人に才能を見出された一人のデザイナーがファッション業界に現れます。

そのデザイナーこそ、「エルザ・スキャパレリ」です。
エルザはポワレ、シャネルとともに20世紀で最も影響を与えたデザイナーの一人です。

デザイナー「エルザ・スキャパレリ(Elsa Schiaparelli)」は1890年のイタリア・ローマで父は王立図書館長を務める東洋語学者で、母も貴族出身という裕福な家庭に生まれる。
父親の影響で多くの芸術や文化に触れることのできる環境で育ち、1914年にロンドンに遊学している時に出会ったケルロル伯爵と結婚。
結婚後は夫の仕事の関係でニューヨークに渡ることになる。

しかし、結局夫とはうまくいかず子供の医療費を払うために働くことになり、フランス・パリにてファッションの業界に入る。

はじめはフランスからアメリカへの洋服やデザインの輸入販売を行っていたが、デザイナーの「ポール・ポワレ」のメゾンで働く友人にドレスを制作したところをポワレに目撃され、ポワレ本人から才能を見出され、事業の支援を申し込まれる。

これを機に、エルザはデザイナーへ転身。
25年に自身のショップをオープン。27年に初のコレクションの発表。30年に自身の名前の「エルザ スキャパレリ」のブティックをオープンさせた。

エルザは縫製などの技術はなかったため、ブランド立ち上げ当初はスポーツウェアにフォーカスし、幼少期に影響された芸術感性から幾何学模様をデザインに取り入れてファッションとアートを融合させた前衛的なスタイルで勝負しました。

これもポワレやシャネルなどがコルセットを追放したことによるファッションの自由性が高まったから行えたと考えられ、ファッションの近代化が着々と進んでいるように感じられます。
同時期に活躍していたココ・シャネルがモノトーンやツイードなどのいわゆる「ギャルソンヌ・ルック」を提案するのに対して、エルザはニューヨークで受けた保守的なヨーロッパファッションにはないニューヨークのスタイルからインスピレーションされ、ショッキングピンクなどの派手なカラーに、肩パッドやウエストを際立たせるという真逆のエキセントリックなスタイルを提案しました。

また、彼女のアーティスティックでアバンギャルドなデザインはアメリカや、芸術家からも支持されており、「サルバドール・ダリ」とも親交があったようです。

1969年 ロブスタードレス

1936年 デスク・スーツ

これらの作品はエルザ・スキャパレリが69年にデザインしたドレスでスカートにザリガニのプリントがされているものと、36年に作成されたポケットが抽斗のようになっているのが特徴的な「デスク・スーツ」というアイテム。
これらは両方ともダリの作品や絵画をモチーフにされたものだとされております。
ダリの他にもエルザは芸術家との交流が多く、「ジャン・コクトー」や「ジャコメッティ」「マン・レイ」などとも仲が良かったのです。


1930年代のヨーロッパは「アンドレ・ブルトン」がシュルレアリム革命を出版したことなど、アートや文学が繁栄した時代だったため、エルザは芸術家たちとの交流が行え、新たなインスピレーションを生み出せたと考えられます。

そして、彼女がこの時代のデザイナーでなによりも偉大な理由が「ファッションとアートのフュージョン」です。
今となっては洋服も一つのアート作品として捉えられることもありますが、この時代は洋服は生活の必需品という捉え方でしかなかったのです。
しかし、彼女は色鮮やかな布を持ち前の感性で立体的に仕立て上げ、芸術作品としました。
これは近代モードにおいて革命的なことであり、シャネルと違い、エルザの引退後は小物と香水のみがライセンスに残ったため、現代のファッション誌に彼女の名前に焦点を当てられることはあまりないが、ファッション史において重要な人物の一人だということは忘れてはなりません。


エルザがモードの歴史において重要人物であることをしっていただけたでしょうか?
エルザは第二次世界大戦中はニューヨークに移住し、大戦後にパリへ戻ってメゾンを再開させました。
しかし、ここでとあるデザイナーの登場をきっかけに新たなファッションスタイルが流行し、ブランドのスタイルが時代背景に合わなくなりエルザはデザイナーを引退せざるを得なくなりました。
次は、そのデザイナー達について、お話ししていきます。



1940〜50年 クリスチャン・ディオール、ジバンシィ、バレンシアガ、デビュー「ニュールック」の登場

30年代が終わりを迎え、絵画、文学の他にマリリン・モンローの登場により映画のスター女優たちに人々が魅了され、ヨーロッパアートはさらに発展していき、アメリカンのトラッドスタイル(ハットにスーツ)に注目が集まっていました。

そんななか、一人のデザイナーがモードに新たな旋風を巻き起こします。

クリスチャン・ディオール

彼はブランド「Dior」の創設者である、デザイナー「クリスチャン・ディオール」。
彼は、フランスに生まれ、リュシアン・ルロンのメゾンで働く彼の才能に目を止めた木綿王マルセル・ブサックの援助で1946年に独立したデザイナーです。
のちに、彼が発表する新たなデザインはこれまでのファッション業界に革命を起こします。

「クリスチャン・ディオール(Christian Dior)」
1905年、フランス生まれのデザイナー。

実業家の家庭で育ち、裕福な生活を送る。
両親の希望により外交官を目指し、「アンドレ・ブルトン」のシュルレアリスムに魅了され画廊を開設するも、30年代全世界に起こった不況により職を失った。

その後、画廊時代の繋がりでファッション業界に転身。

リュシアン・ルロンのメゾンで働く彼の才能に目を止めた木綿王マルセル・ブサックの援助で1946年に独立、1947年のSSコレクションにて、パリコレデビューを果たす。

彼、ディオールは、1946年に自身のブティックを持ち、その一年後にパリコレクションへ出展するほどの恐ろしいほどの才能の持ち主なのです。
また、ディオールのデザインする洋服は斬新なもので、最も有名なのは初のオートクチュールコレクションにて発表された「ニュールック」です。

「ニュールック」は、ゆったりとしたサイジングのショルダーに細く絞られたウエスト、ロング丈のフレアスカートにより、8の字のシルエットを描かれた女性的なデザインで、世界中のトレンドを作り、これまで肩パッドの入った肩が強調され、素材もツイードなどを使った「ギャルソンヌ・ルック」が主流だったが、それらとは違う全く新しいデザインから「ニュールック」と呼ばれ、「平和的シンボル」と親しまれるようになったのです。

しかし、「ニュールック」は歴史的観点から見ればリバイバルってあると「ファッションプレス」の記事には記載されています。
たしかに、16世紀以降の女性服を見てみると、なだらかなショルダーラインに引き絞られたウエストに裾に近づくにつれて広がっていくようなフレアシルエットのドレスが定番です。

Dior 49年 ニュールック

17世紀の女性服

何故今になって「ニュールック」がトレンドになったのか。
その理由は戦時中でおしゃれをできる機会がなかったためと考えられます。
そして戦後になり、女性達は戦争という地獄からの解放感からファッショナブルになり、より女性らしい洋服を求めたとされています。
これにより、「ニュールック」が「平和的シンボル」と評されるようになったのです。

2019年に行われたDior展にて

去年、阪急本店で行われていた日本の文化から着想を得たアイテムなどが展示されていたDior展にて、クリスチャン・ディオール本人のデザインしたオートクチュールのドレスの展示品の写真がありましたので載せておきます。
この展示会では、ディオールの他に、「ラフシモンズ」や「ジョンガリアーノ」などのデザインしたオートクチュールが展示されていました。


そして、同時期に彗星の如く現れた「Dior」と共に40〜50年代に伝説を築き上げたブランドがあります。
それが、「バレンシアガ」と「ジバンシィ」です。


クリストバル・バレンシアガ

ブランド「バレンシアガ(Balanciaga)」の創設者 デザイナー「クリストバル・バレンシアガ(Cristobal Balanciaga)」
1895年、スペイン生まれ。
母親からテーラードとドレスメイクを教わり、独学で裁縫と縫製を学び、パリでスーツをリメイクした服を認められ、マドリードの仕立て屋で修業し、1918年にスペインのサン・セバスティアンに最初のオートクチュールハウスをオープン。
その後も、バレンシアガのデザインはスペインで高い評価を得て、店舗を大きく拡大していった。

ユベール・ド・ジバンシィ

ユベール・ド・ジバンシィ(Hubert de Givenchy)はジバンシィ社の創立者で、デザイナーである。
1927年パリ郊外に生まれ、由緒正しき貴族家系出身。父親は公爵である。

ロベール・ピゲ、ジャック・ファットなどのメゾンで経験を積んだ後に、「エルザ・スキャパレリ」のメゾンでモデリスト兼主任に。
1951年に、独立し、24歳で初のパリコレクションへの出展を果たす。
当時、ジバンシィは資金面の問題があり、コットン素材などの安価な生地でシンプルなドレスやブラウスを発表したところ、その斬新なアイデアと洗礼されたデザインに人々は魅せられ、中でもシャツ地で作った開襟、ラッフル袖の「ベッティーナ・ブラウス」は話題を呼び「モードの神童」と呼ばれるようになった。

翌年の1952年にジバンシィ社を設立した。

実はディオールより先にファッション業界へ入ったのはバレンシアガなんです。
そして、ディオールの「ニュールック」の前身となったウエストシェイプワイドスカートも発表されています。
バレンシアガは40年代から50年代にかけて、四角い「ボックスシルエット」のショルダーに細いウエストのデザインや、ウエストラインを持たないゆったりとしたデザインの「バレル・ルック」、無駄を削ぎ落とした洗礼されたデザインの「サック・ドレス」を発表します。


そして、時代は50年代に変わり、ディオールは新たにローマ字のようなシルエットを描いているように見えることから、「Yライン」「Hライン」「Aライン」などシルエットに着目したデザインを打ち出し、バレンシアガは「チュニックライン」を発表し、バレンシアガとディオールが世界の流行を独占していた頃。
「エルザ・スキャパレリ」のメゾンからジバンシィがデビューします。

ジバンシィはエルザのメゾンから独立したのち、パリコレに出展をするのですが、資金面の問題からコットン素材などの決して一級品とは言えない素材のみでコレクションデビューしたところ、バレンシアガやディオールなどが高級な素材で洋服を制作している中、あえてコットン素材でドレスを作り、「ニュールック」と対照的な体のラインを強調しないデザインとして「自由」を提案するそのアイデアが注目が浴びせられました。


「モードの神童」と呼ばれるようになったジバンシィはジバンシィ社設立したその2年後の1954年に当時ブームとなっていたスクリーン映画に着目した彼は、女優「オードリー・ヘップバーン」主演の「麗しのサブリナ」の衣装を手がける。これが世間に話題を呼び、「ティファニーで朝食を」や「おしゃれ泥棒」などの衣装提供を行うことで、オードリー・ヘップバーンはジバンシィの象徴とよばれるようになりました。

1950年代 BALENCIAGA 左チェニックライン 右バレル・ルック

BALENCIAGA 15-16aw バレル・ルックを彷彿とさせるデザイン

Givenchy ファーストコレクション ベッティーナ・ブラウス

オードリー・ヘップバーンの着るジバンシィ


ディオール、バレンシアガ、ジバンシィはそれぞれのコンセプト、アイデア、デザインでファッションの業界を盛り上げて洋服のさらなる近代化に努めました。
これにより、オートクチュールの世界は更なる発展に繋がり、パリコレクションはこの時絶頂期にありました。


しかし、そんな時、1957年にディオールが旅行先で心臓麻痺で急死…

そして21歳の若さでディオールの元で働いていた一人の青年がクリエイティブ・デザイナーに抜擢されるのでした。


最後に


今回も長文読んでいただきありがとうございました‼️
次回も今回の続き、1950年代〜70年代までをまとめていきますのでよければご覧ください‼️


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