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美國停車場


謎の一首

このタイトルを見てピンと来た方は、石川啄木の短歌をよく読み込んでいる人だろう。
歌集「一握の砂」には次の一首が掲載されている。

石狩の美國といへる停車場の
柵に乾してありし
赤き布片(きれ)かな

石川啄木「一握の砂」より

「柵に乾してありし」は短歌の基本音律(五七五七七)から逸脱する字余りだが、「さくに/ほして/ありし」と3音を連ねたリズムにより字余り感を薄めている。後年の3連符を畳みかける形式のヒット歌謡曲・ポップスにも相通じる、巧みな作歌である。

一方、この歌は啄木研究者の間で古くから研究の対象とされている。「美国」という駅は、啄木の時代も含め日本の鉄道の歴史上全く存在していない。「美国」は小樽から40kmあまり、余市から23kmほど西北にある積丹半島の町である。啄木の時代は美国郡美国村、現在は積丹郡積丹町大字美国町である。過去も現在も鉄道は敷設されていない。そもそも積丹町は後志(啄木の時代は小樽支庁)にあり、石狩ではない。以上の事実から「石川啄木の謎」のひとつとされた。

美唄?それとも?

「美國といへる停車場」とはどこか。
最初に考証を公に発表した啄木研究者は岩城之徳氏(1923-1995)である。岩見沢で暮らした経験を持つ岩城氏は、函館本線美唄駅と比定した。1950年代に上梓した著書に記し、1980年代に出版された「啄木歌集全歌評釈」に改めて収載している。

美国という地名は石狩地方にはなく、後志地方にあるが、明治四十年(引用注:1907年)当時はもとより現在に至るまで駅はない。したがって、この歌は第一句の『石狩の』から考えて啄木が釧路赴任の途中に通った美唄駅か美瑛駅と考えたい。

岩城之徳「啄木歌集全歌評釈」より

美瑛は上川支庁なので除外できるから、消去法で美唄ということだろう。美瑛は別の理由で除外可能と考えられるが、詳しくは後述する。

さらに岩城氏は「啄木の記憶違い」と考証して、いくつかの啄木歌集にその旨の解説を載せている。

この説が現在に至るまで一応の定説となっていて、近年美唄駅前に歌碑まで建立されたらしい。私は1996年に美唄駅を訪れたが、その時見た駅は古く武骨な駅舎と蒸気機関車の煤が染みて黒ずんだホームを持ち、人まばらな、いかにも炭鉱町の夢の跡といった感だった。その後広く明るい橋上駅舎に改築されて駅前が整備され、その記念として建てられたという。「赤き布片」は「赤ゲット」と呼ばれる赤色の毛布で、1870年代に英国から大量に輸入され、北国に暮らす人たちの防寒着の材料として重宝されたという解説までつけられていると聞く。

他方、この見解に疑義を唱える説もある。

・この歌は「一握の砂」で、1907年9月の札幌での生活を詠む歌群から、その後の小樽暮らしを詠む歌群へ移る間に配置されている。

・啄木は1907年9月から年末にかけて小樽-札幌間を幾度か往復しているが、美唄は釧路の新聞社に赴任するため鉄道に乗車した1908年1月20日の一度しか通っていない。

の2点を根拠としている。この見解を取る人たちは、函館本線琴似駅(札幌市西区)ではないかと推定している。「ことに」と「びくに」の発音が類似している、札幌-小樽間の石狩地方にあり条件に適うと判断している。琴似駅は今でこそ立派な高架駅だが、1980年代初めまで木造の古い駅舎が使われていた。1979年にこの件の取材で下車した経験を持つ旅行ライター原口隆行氏は「70年前(啄木の時代)もさもありなん」という感触を得たという。

ただし、原口氏による以下の論考はいかがだろうか。

啄木がこの間(引用注:小樽から釧路への旅)のことを詠んだ歌には「雪」という言葉が頻繁に出てくるのだ。とすれば、「赤き布片」を「柵に乾」すというのはありえないことのように思える。もしあったとしても、この歌のどこかに雪とか白という言葉を用いたほうがより赤が強調されて効果的ではなかろうか?この歌はどう考えても冬の歌ではない。

「旅と鉄道」第31号(1979年)より

失礼ながら、啄木の観察眼や作歌技術を過小評価しているように思える。後述するが、真っ白な雪に覆われている水墨画のような世界だからこそ、また通常では布地を外干しするなど思いもつかない冬だからこそ、柵にかけられた赤い毛布がひときわ印象的だったと考えるほうが理にかなうと思う。

啄木が育った岩手県岩手郡渋民村の宝徳寺で生まれた啄木研究者の遊座昭吾氏(1927-2017)も琴似説を取っている。

札幌・小樽間は何度も行き来した。一つの小駅のとある光景が印象に残った。駅の名は琴似。啄木はのちにそれを美国とかんちがいして歌に詠んだ。(小樽・札幌間で石狩に入るのは軽川・琴似・札幌の三駅だけ)

遊座昭吾・近藤典彦「石川啄木入門」(1992年)より

ここでも「啄木のかんちがい」として扱われている。

「美国停車場の謎」について初めて知ったとき、私は美唄説とは違う見解を取りたいと直感した。地元の人には失礼だが、「美唄」は他のアイヌ語由来の地名ほどには魅力を感じられなかった。一方、琴似説もそのまま確定とするにはまだ距離があるように思えた。美唄でも琴似でも、そのまま歌に詠んでしまえるからである。

石狩の美唄といへる停車場の…
石狩の琴似といへる停車場の…

いずれもごく自然な流れである。私はまず「軽川」(現・手稲)ではないかと考えた。琴似説の条件を満たし、かつ「かるがわ」はそのままでは歌にできない音を持つ言葉だからである。啄木は自分の乗った汽車が軽川駅に停車した際、駅舎脇の柵に赤ゲットが無造作に干されている光景を見た。後年東京で歌を作る際にこの記憶を思い出し、「石狩の軽川?歌にするのは無理かな。」と思いつつ3音の詩的な言葉はないかと考えて、小樽の新聞記者時代に「美国」という地名があると知ったことを思い出して歌がひらめいた、と推定した。

まさに素人考えの際たるものだが、当時はインターネットの黎明期にあたっていて、図書館で本を探す方法しかなかった。ネットで何でも検索できる時代を迎えて、二十数年の時を経て再びこの問題に取り組んでみようと思い立った。

新たな検証ツール

石川啄木の美唄通過は1908年1月20日と明確に記録されているので、この日および前後の日の気象状況や日の出日の入り時刻と列車運転時刻が調べられたら、啄木が見たおおよその車窓風景が推定できる。すなわち美唄説の妥当性が科学的に検証できる。岩城氏や遊座氏が検証した時代にはまだなかったアプローチだろう。私個人の好みも排して、今一度冷静に考えてみたい。

Webでは以下の資料が閲覧できる。

・気象庁 過去の気象データ検索
・デジタル台風:100年天気図データベース
・MAPLOGS.COM 日の出日の入り時間

列車の時刻表は太田幸夫・著「石川啄木入門 啄木と鉄道」(1998年)に添付された資料(1907年9月1日改定ダイヤ)を用いて、当日啄木が書いた日記や後日「釧路新聞」に執筆した記事と照合した。

小樽から釧路まで 啄木が見た車窓

1908年1月19日

日記には「雪」と記されている。気象庁のデータベースを参照したところ、小樽については何ら記録されていない。札幌で観測された降水量と気温が記録されている。降水量から雪が降っていたと推定される。14時現在の天気図を参照すると朝鮮半島から日本海にかけて低気圧が3個東進していて、冬型が緩んだ形になっている。北海道日本海側は比較的風が弱い中、雪が降り続いていたのであろう。

啄木は中央小樽駅(現・小樽駅)9時00分発の落合行き列車(※)に乗る予定で駅に赴いた。1歳を迎えたばかりの長女・京子(1906-1930)をおぶった妻・節子(1886-1913)が見送りのため同行していた。

子を負ひて
雪の吹き入る停車場に
われ見送りし妻の眉かな

「一握の砂」より

今も小樽駅前に解説板があるこの一首は、天気図からも情景が思い浮かべられる。

(※)現在の根室本線、滝川-富良野間は1913年11月10日開通で、この時点ではまだできていない。当時は旭川~現在の富良野線経由が道東への唯一のルートだった。

中央小樽から札幌まで啄木と同行する予定の「釧路新聞」社長・白石義郎(1861-1915)の到着が遅れたこともあり、啄木は予定していた列車に乗車できなかった。節子と京子はそのまま帰宅。啄木は次の11時40分発岩見沢行きに乗車した。この時間帯雪がやや強まり、東寄りの風が吹き出していたとみられる。

列車は中央小樽を定刻に発車。啄木はストーブで暖められた車内から朝里・張碓・銭函の海岸風景を眺めた。13時20分札幌到着。時刻表では13時08分着となっていて、この時点で10分程度遅延していた。白石社長はここで下車、以降啄木のひとり旅となる。

札幌より彼方は自分の未だ嘗て足を入れた事のない所である。

「釧路新聞」掲載記事より

ゆえに美唄の通過は啄木の生涯でただ一度のみである。
列車は15時16分ごろ上幌向を発車、16時前後に岩見沢に到着した。時刻表では14時35分着と記されているので、90分程度延着したとみられる。

みぞれ降る
石狩の野の汽車に読みし
ツルゲエネフの物語かな

「一握の砂」より

この歌はおそらく19日午後、札幌を出て岩見沢に着くまでの体験を詠ったものだろう。
札幌の降水量は午後減少している。気温は-9℃くらいなので正確な意味における「みぞれ」ではなく、微風に乗って小雪が舞っていたとみられるが、啄木はあえて文学的に「みぞれ」と綴ったのだろう。

当日は姉・トラ(1878-1945)とその夫で当時岩見沢駅長を務めていた山本千三郎(1870-1945)が暮らす官舎に宿泊した。札幌で働いているはずの妹・光子がなぜか来ていて、啄木と交替するかのように帰っていった。(岩見沢17時05分発中央小樽行きとみられる。)

1908年1月20日

日記には「曇天」と記されているが、実際は雲間から時折薄日が差す天候で、グレーからシルバーの空だったのではないかとみられる。20日14時現在の天気図を参照すると、低気圧が発達しつつ関東地方を進んでいるように見える。南岸低気圧といってよいのだろうか。東京など本州の主要都市は曇りや雨で、夜遅くにかけて風雨が強まったとみられる。

一方北海道は高圧帯で等圧線も広く、終日風ほとんどなく穏やかな天候だったと考えられる。札幌・旭川とも降水は確認されていない。

啄木は岩見沢10時10分発の旭川行きに乗車した。この列車は岩見沢始発だが何らかの事情で発車が遅れたのか、日記には「十時半岩見沢発」と記されている。

この時代光珠内(1952年開業)は存在していない。美唄は岩見沢から2つ目の駅である。時刻表では10時47分発となっているが、11時10分~15分あたりに停車したとみられる。
美唄鉄道(1914年開通)や南美唄支線(1931年開通)はまだできていない。広い原野のただ中に小さな集落と駅がポツンと置かれていたのだろう。

美唄説を取るならば、地上は一面深い雪に覆われ、空は雲に覆われているモノクロームの世界の中で、駅舎脇の柵に干してある毛布の赤がひときわ鮮やかに目に入ったという光景が想像される。確かに詩心を刺激するには十分だろう。

電力を用いた洗濯乾燥機などもちろん存在せず、給湯器もなく、水がしばしば凍結していたであろうこの時代「布を干す」とは現代とは全く異なる意味合いだったはずである。降雪時はもちろん、降っていなくとも雪が積もったままの状態で布を表に出したらたちまち濡れてしまう。雪が止んだ日は柵を拭いた上で布を広げ、少しでも湿気を取ろうとしていたのだろうか。

美唄が「美国停車場」の有力候補であることは確かであるが、この後についても考察してみよう。

啄木は砂川(時刻表では11時27分着、当日は11時50分前後)で昼食を取り、空知の屯田兵村建屋の様子や江部乙の先で乗り合わせた人から雪に埋もれる石狩川を教えてもらったエピソードを「釧路新聞」の記事で書いている。

このあたりは線路がほぼ一直線に続く。当時は単線非電化だったが、現代の列車からでも往時の雰囲気はうかがえる。滝川、江部乙、妹背牛などこの地域の「そのままでは歌にできない駅」もまた候補として挙げられうる。

この日の旭川における日没は16時23分であったが、14時過ぎにはもう日が傾き始める趣を呈していたのだろう。一方天気図から、午後は晴れ間が次第に広がっていったとみられる。

日は西の空から、雲間を赤く染めて、はかない夕の光をなげかける。

「釧路新聞」掲載記事より

うす紅く雪に流れて
入日影
曠野(あらの)の汽車の窓を照せり

「一握の砂」より

この歌は神居古潭から伊納あたりを通った際、晴れ間が出てなおかつ夕暮れが近づいてきた様を描写している一首と思われる。

旭川で下車した啄木が駅前の旅館に行くと、帳場の時計が午後3時15分を示していたと記録されている。定刻13時58分着に対して当日は15時05分前後到着で、70分程度遅延したとみられる。

この後の当日旭川発の釧路線列車は16時20分発落合行きしかなく、旭川で宿泊せざるを得ない。札幌での所用を済ませた白石社長と旅館で合流した。

1908年1月21日

現在の富良野線の草創期、十勝線・釧路線時代の記録はほとんど残されていない。富良野線自体、1980年代に沿線観光地が脚光を浴びるまでは地味なローカル線扱いで、地元新聞社や旅行業界、鉄道愛好者にもあまり注目されていなかった。石川啄木の日記や短歌は、現在の富良野線についてほぼ初めて乗客の立場から観察した記録という一面を持つ。

1908年1月21日、啄木と白石社長は旭川6時30分発の釧路行きに乗車した。この日、旭川の最低気温は-27.1℃。二人は極寒の中旅館を出て駅に向かっただろう。旭川の日の出は6時58分。発車時刻は市民薄明になった時間帯で、空は未だ明けきらず、駅ではまだランプが点いていたと想像できる。

6時現在の天気図を参照すると、前日東海・関東地方に雨を降らせた低気圧は三陸沖まで進んでいるが、北海道にはまだ影響せず、旭川はじめ道央は風穏やかでよく晴れていたとみられる。啄木はこの日の天候を記録していないが、おそらく昼間のうちは青空の下、汽車は釧路を目指して進んでいただろう。

時刻表では辺別(現・西神楽)6時50分発、美瑛7時35分発。遅れていなければ現在の千代ヶ岡(1936年開業)付近で日の出を迎えたはずである。

旭川から富良野行きの列車に乗車すると、進行右側(西側)は比較的視界が開けているが、左側(東側)は線路近くまで丘が迫り、その上に旭川空港などの施設がある。啄木の時代はもちろん原野で、線路の東側は樹木が鬱蒼と茂る丘陵地だっただろう。従って太陽の出現は実際の日の出時刻よりもいくらか遅れていたと考えられる。

程なくして枯林の中から旭日が赤々と上った。空知川の岸に添うて上る。

啄木の日記 1908年1月21日

啄木はこう記録しているが「空知川」は時間的に合わない。空知川岸の山辺、金山付近の通過は9時~10時くらいで、日は既に高くなっていたはず。辺別川か美瑛川とみられる。

近年は旭川駅構内にも啄木像が建てられて、旭川に宿泊した時の短歌として4首のプレートが添えられているらしい。私は毎年のように旭川駅を通っているが、迂闊にも気づいていなかった。その中に

水蒸気
列車の窓に花のごと凍てしを染むる
あかつきの色

「一握の砂」より

も含まれているが、この歌は旭川よりも美瑛に単独の歌碑を置くほうがふさわしいのではないか。おそらく史上初めて、現在の富良野線を題材にした詩歌として貴重な一首である。

この朝の美瑛は、もしかしたら-30℃を下回っていた可能性がある。啄木は汽車の窓からサンピラーを見たかもしれない。

この環境で赤い毛布など外に干そうものなら、たとえよく晴れていてもたちまち凍り、パリパリの固い板と化しただろう。澄んだ青空が大きく広がっているだろうから、赤い布の印象も”モノクロームに紅をさす”とは異なってくる。この理由により、前述の岩城氏による「美国停車場」推定から美瑛は除外できる。

美瑛が観光地として知られるようになったのははるかに後年、1980年代以降である。啄木の時代は開拓が端緒についた頃で、駅周辺は陸軍演習場関連の商売を営む小さな集落があるのみだったろう。

ごおと鳴る凩(こがらし)のあと
乾きたる雪舞ひ立ちて
林を包めり

「一握の砂」より

この歌も現在の根室本線区間をイメージする人が多いが、私は現在の美馬牛(1926年開業)から上富良野付近を思い起こす。風穏やかな日だから、自然の木枯らしというよりも列車の走行により起こる風や客車の軋み音に近いかもしれない。この地域のサラサラしたパウダースノーを見事に描写している。透明な空とまぶしい光の中、舞い立つ雪はキラキラと美しく輝いていたであろう。かなり温暖化した現代でも、私は現地に行くと鞄に降りてくるパウダースノーを慣れた手つきでサッサッと払っている。

啄木は言及していないが、上富良野(8時10分発)から中富良野(8時30分発)にかけて、汽車は十勝岳を見渡す真っ白な原野を走っていたはずである。現在のファーム富田の土地は、富田忠雄代表の祖父・富田徳馬が1903年に開拓を始めて間もない頃だった。年表を見ると、忠雄氏の父親は啄木の娘・京子と同じ1906年生まれという。100年先にこの地は花ざかりになると、啄木は想像だにしなかっただろう。

時刻表では落合を11時25分に発車した列車は狩勝峠に向かう。私はもちろん新狩勝トンネル経由の新線しか知らないが、啄木の時代は北側の新内回り旧線だった。とはいえ啄木が乗車する4ヶ月前、1907年9月に完成したというからその時点では立派な”新線”であった。

石狩十勝の国境を越えて、五分間を要する大トンネルを通ると、右の方一望幾百里、真に譬(たと)ふる辞なき大景である。

啄木の日記 1908年1月21日

この詳しい描写からも、当日は降雪なくよく晴れていたことがうかがえる。狩勝峠越えの区間は後年「雄大な絶景」として鉄道旅行愛好家の間で人気を得て、1966年の新線切り替え時は惜しむ声もあがったと聞き及ぶ。

十勝に入った列車は「午后三時半帯広町を通過」と記録されている。時刻表では帯広着15時10分だから20分程度の遅延で、前日や前々日に乗車した列車より遅れが少ない。穏やかな晴天ゆえであろう。

うたふごと駅の名呼びし
柔和なる
若き駅夫の眼をも忘れず

「一握の砂」より

十勝地方で見た光景を詠ったとおぼしきこの歌はどこの駅を舞台としているだろうか。帯広、芽室など主要な町の駅か、それとも佐念頃(現・御影)など小さな集落の駅だろうか。

21日14時・22時現在の天気図を参照すると、午後には日本海側から等圧線が縦縞に変わり、再び冬型になり始めていると読み取れる。啄木が乗車している列車は夕方以降遅れが広がり、やがて雪がちらつき始めた模様。列車は19時すぎ(定刻は18時14分)に発車した厚内から海沿いに出たはずだが既に真っ暗で、啄木は海がすぐそばにあることさえ気づいていなかっただろう。同行している白石社長とのとりとめない話も尽きる頃と想像できる。

何事も思ふことなく
日一日
汽車のひびきに心まかせぬ

「一握の砂」より

21時30分、列車は約65分遅れ(定刻は20時25分)で終点釧路駅(後の浜釧路)に到着した。小雪が舞っていただろう。降水量0.1mmが記録されている。気温は-15~-16℃くらいだろうか。

さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき

「一握の砂」より

啄木の代表作にあげる人も多いこの有名な一首はランプの灯まばらな町に小雪がちらつき、時折キラリと光る様も含めた描写だろう。長い旅路を終えた啄木は白石社長、出迎えた佐藤国司に道案内されつつ、このさいはての地で今度こそ新聞記者として生活基盤を固めつつ名をなそうと決意を新たにしただろう。

結論 ~詩人の勘~

以上、石川啄木の小樽から釧路までの旅について、天候や気温など気象条件及び日の出・日の入り時間を加味した考察を試みた。これをふまえて「美国停車場」の謎に戻る。
私は次のように考えたい。

・美唄は「美国停車場」の有力候補には違いないが、歌碑を建てるほどの確定的事項とまでは言い切れない。空知地方の他の駅であったかもしれない。

・札幌-小樽間の駅を詠んだ可能性も排除できない。その場合、琴似以外の「そのままでは歌にできない名前の駅」も候補にあがる。

いずれの場合も、啄木は詩人として天才的な勘を持ってこの歌を詠んだと思われる。識者は口を揃えて「啄木の勘違い・記憶違い」と決めつけているが、啄木ほどの天才が勘違いをそのまま歌集に載せるだろうか。「一握の砂」は歌そのものに緻密な推敲を重ね、歌の配置にまで工夫を凝らして編纂されている。啄木は承知の上で、あえて「美国」としたのではないだろうか。一面真っ白な雪景色の中汽車が止まり、ふと外を見たら駅舎脇の柵に真っ赤な毛布がかかっていた。啄木はその光景に北国ならではの”美”を感じて”後志の美国と同じく、ここもまた美しき国”と考えたのだろう。

私は改築後の美唄駅に下車していないので歌碑の説明は知るよしもないが、個人ブログに掲載された写真によれば「美唄の誤りと推測されている」と掲示されている模様。
そうではなく、

「啄木はその優れた詩才をもって、美唄をあえて”美国”と表現した」

とすれば、より優れた啄木顕彰となるだろう。

<参考資料>
「石川啄木入門 啄木と鉄道」(太田幸夫・著、1998年)
「国鉄全線各駅停車 北海道690駅」(小学館、1983年)
「啄木秀歌」(遊座昭吾・著、八重岳書房、1988年)
雑誌「旅と鉄道」31号(鉄道ジャーナル社、1979年)

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