蛹だとか隠花植物だとか

最近、中野信子さんの著書を色々と読んでいる。

彼女は才媛であり、生命というものを科学的に掌握「できた」側の人間だ。

長い時間と、知見を以て、このような文章が生まれたのだなと思うと、彼女の科学に費やした時間や、向き合った時間に、敬服する。

わたしも研究とは名ばかりの、子供がやるような自由研究の延長線上の科学実験を行ったことがあるが、研究とは楽しいものなのだ。

自分でテーマを選定し、科学的な手法で考察を重ね、結論へ導いていくこの一連の流れが、結局自分の脳内と向き合うことになり、そこには孤独がつきまとうのですが、その世界との分離感が非常に共感できました。

研究とは、自分にしか中身が見えない箱をひたすらに凝視していくようなものがあります。

そんなことを言っていた中野信子さんですが、自分のことを社会的に観て生産性がない「蛹」だとか「隠花植物」のようだと、形容される瞬間があると文章に記述していたのが、記憶に残りました。

蛹とか、コケ類や藻類などの隠花植物とは、生産性という点ではミツバチだとかキノコだとか、果物だとか、野菜などには劣りますし、人間の介在しない自然界という観点においても、蛹は蝶になるために自分のことしか考えてないような存在だし、隠花植物は、受粉という概念がないので花を咲かさず、ひっそりと漂い、増殖をするような、どことなく日陰者のイメージがありますね。

彼女ほどの人間でも、自分をネガティブに捉え、自然界にいる存在と自分をリンクさせたりするということで

そのような彼女の人間らしさに触れられるのが、一部の熱狂的なファンがいる所以でしょう。

いつでも元気で快活で、思い悩んだりしないというのは、やはりどことなく歪で、人間として、不自然な感じがしてしまいます。

わたしは、周りから好かれるような人気者より、どことなく歪な形をしている人のほうが好きなのかもしれない。

そして、そのようなものに、憧れている自分がいるのだと思う。

わたしは、突き抜けた「個性」というものには恵まれていない分、余計に彼らが輝いて見える。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?