仕事をするということ

お世辞にも、仕事が出来るタイプではない。

トロいし、物覚えも悪いし、ポンコツである。

これは生来のもので、後天的に努力でカバーしようと思うと、とてつもない要力がいる。

なのに、「努力」や「頑張ること」があまり好きではない。

正確に言えば、自分が興味を示したものに「没頭」するのは大好きだが
それはわたしに言わせてみれば「努力」や「頑張り」ではない。

これって、どうなのだろう。
人間として、かなりヤバイのではないだろうか。

焦ったところで状況は変わらない。

「わたし」というものは基本的に不変だと考えているし
「変化」が訪れるときは、とてつもない科学などでは説明できない力によって訪れると考えていて
人為的に変化を促すのは、何か無理があるというか、自然ではない心と身体の動きのように思えてしまう。

「わたし」が悪くないなら
そんな「わたし」に無理難題をふっかける方に問題があるのではないか。

先ほど「努力」や「頑張り」があまり好きではないと書いたが、これは文字通りの表現に限界がある表現で
実際はそれなりに動くし、やることはやっていると思っている。

ならばこの「世界」の方に問題がある。そう仮定したとして
何か変わるのでしょうか?

一時的な心の安らぎと、一定の自己を保つという心理的なはたらきは得られるが
別に世界を呪ったところで、なにも変わらない。

「自分が変わる」というのにも限界がある。
「他者に問題がある」という見方にも限界がある。

まあ、バランスだよね。と随分端的な結論を出して、この場を収めようと思う。

仕事は「慣れ」の要素も大きい。し、誰も「仕事」の「本質」を定義できていない以上
「仕事ができる」とか「仕事ができない」とか、あまり気にすることはないと思う。
いい人に当たればラッキーだし、明らかに人格の歪んだ人に当たってしまったらドンマイだし、という風に、評価とは人によって決まる要素が大きい。

今日は2月15日。日中の気温は20度にもなる暖かい気候だった。


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