ぶっ飛び話とお爺さん

今日はお休み。
朝から調べ物ついでに旧約聖書が気になってYouTube見まくっていたら、秋山先生にたどり着き、
大正生命主義というものを知る。


そこで思い出した話を書いておこうかなあ。


昔、仕事で関わった操体法のおじいさま先生の施術を
受けながら、精神性と体の話になり、

その先生が沖ヨガの沖先生の元にいた
時のエピソードをきいた。

稽古が嫌で嫌で
何度も道場から逃げ出したらしい。

その度に何度も兄弟子たちが呼び戻し
つれ帰られたと。

そんな青年期を過ごしながら
あるきっかけで操体法の先生に出会ったそうだ。

その時雷に落ちたようにこれだ!と思ったそうで
(私も20年前そうだった )


そして自分はヨガではなく操体法の道に行きたい!と
沖先生に伝えたところ

そうかそうかとじっくり話を聞いてくれて
中医学の学校からまず出ろと。
三年分の学費も出してくれたそうだ。

しかもそのまま道場に住まわせてもらい、
操体法の先生のところまで一緒に挨拶に行ってくれたと。

体をあちこち整えてくれながら当時のことを
話してくれる先生の声がもはや音霊。

話す先生の声に聞き入ってしまい、
私は詐術を受けている場合じゃなくなってしまった。

そこからも淡々とぶっ飛んだ話が続くのだが
量が膨大で書けないのと、書いていいものかと
迷うのとで、端折ることにしようと思うのだけど


ある時バイクで事故にあい、
顔半分が変形するほどの傷を負ったそう。

その顔を鏡で見た時、なぜだか笑えてきてしまい
自分のこんなえぐれた顔でも生きているんだということに感動したそうな。

そしてそのボロボロの体を治してくれたのが
当時の操体法の先生だったらしい。


今も沖先生のところでの学びが糧になっていることと、操体法を学んだこの地で生涯恩返しをしていると言ってたな。


ある時、これは沖先生のもとで稽古されていた頃の
エピソードだと思うのだけれど

夜に散歩へ出て、その道にある神社で休憩をしながらぼーっと気持ちよく空を見ていたら、
あれよあれよと全てと自分が一つになって、

たまらない私服感に包まれていったそうだ。


そこから人と自分の境目が消えて、
生き物全てが友達のような感覚で
今も生きているとおっしゃっていた。


その先生は体を触りながらその人に必要な話をする人で、私の前に受けた人たちにもそれぞれのその人に必要な時間があったそうだ。


ほぼほぼ 先生は聞き役に徹するみたいだけど。

でも私にはこんなどマニアックな話を(他にも沢山 、衝撃話が(笑) )聞かせてくれて、
ずっと印象に残ってる。

あの時の私も、その先生の話す世界観が
分かったし、私のこの体験の先にあるものを
先生が私との会話で察してくれて

分かるでしょ?
うん、あなたなら分かるよね。と
大切な話をたくさんしてくださったんだと思う。

(この先生を紹介してくれた仕事仲間は
一度もそんな話聞いたことない!って言ってたよ)


通いたいけれど、遠すぎて場所が不便すぎてかなわん。
先生元気かなあ。


その先生が何度もおっしゃっていた。

何があっても大丈夫。死にかけたことも何度もあるけど、大丈夫大丈夫。
と。 

だいじょーぶ
だいじょーぶ。

この大丈夫の重さ、
半端ない人生の方だからこその言霊、音霊だったなあ。

私はその言葉を頭ではなく
全細胞で受け取ったから、先生が言葉にしなかった
あらゆることも、私の中に染み込んできて

先生の存在すべてから醸し出される
そのものを《受け取りました》と思った。

共感としての分かる。とはおこがましくて言えないけれど

言葉じゃないものでの通じ合ったものだけは

分かる。としか表現のしようがないのだな。

私はこんな人と、どこからともなく縁が繋がるので
毎回ふつーーにうんうん、へー!って聞いているのだけど

なんでこんな面白い人たち(ジャンルが多様すぎて
その人の人生の規模もそれぞれすぎて、意味がわからない )ばかりに出会うことになるんだろうと、

自分自身を一番に面白がっている。

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