「発達障害」という言葉のイメージ

またまた久しぶりのnoteの更新。
今回は最近、自分が今まで以上に色んなことをオープンにできるようになって、自然体の自分で話せるようになって。
なんだったら、その経験を活かすことができるようになって。
色んな人と話してる時、なんだか誤解されてる?と思うことを書いてみた。

発達障害についての本や情報が増えてきて、それは悪いことではないけれど
私が怖いのはADHDだと診断されたからって、教科書に書いたような同じ特性を持っていると誤解されること。

発達障害の診断や線引きを難しくさせてるのは同じ診断であっても、その特性は千差万別、十人十色であるということ。
だから、専門家のドクターでも意見は分かれる。

向き合って欲しいのはADHDという障害ではなく、それを前提にその子がどんな特性を持っているのかということ。

そして、最近、また誤解されてるのかな?と思うのは
「発達障害があるんです」
と言うと
「えっ?話してても、普通なのに?」
と言われること。

もしかして
発達障害=コミュニケーションが成立しない
と思われてるのかな?と感じる。

確かに、自閉症をテーマにした漫画で
「光とともに…」の主人公の光くんみたいになかなか、会話のキャッチボールが成立しない時がある。

私も、何かに没頭し過ぎてる時に話しかけれても気付かなかったり。
中断するように促されると、無視してしまったり。
そんな風に会話のキャッチボールが成立しない時もある。
でも、いつもじゃない。

だからと言って、日常生活に支障がないわけではない。

何かに没頭し過ぎている時、中断されるように促されると無視してしまうというのは
そもそも、自分に話しかけられてることに気付いてない時もあるけど
「そろそろ、ごはんの時間だよ」と言われても
「あ、そう」しか返事をしない。
私に話しかけられてることは分かってるし、ごはんを食べないとマズイことも分かってる。
家族も、ごはんを食べない事を心配して、何回も声をかけてくる。
どうしてそうなるのかというのをうまく説明できないけど
今、目の前にあることを納得のいくまでやりたいのにしつこく、名前を呼ばれると
「うるさい!」と怒鳴ってしまう。
全部、分かってるのに手を止めることができない。

そういうところが、日常生活に支障が出てくる。
なのに、日常生活では必要のない事なのに、なかなかできない事がポンと出来てしまって、自分も周りも、驚くことがある。

そういう時、なんだかなぁ…と思う。
それが、現実的に仕事にできて、お金を稼ぐことに繋がっていけばいいけど、必ずしも、そうではない。

例えば、音楽を一度、聞いただけで覚えてしまい、楽器で弾けるようになるとか。
一度、読んだ本を暗記していて、音読できるとか。
そういうのは本当に特殊能力だし、ごく一部に過ぎない。
しかも、それを現実的に仕事に役立て、お金を稼ぐことに繋げていくのは簡単じゃない。

家族や色んな人のサポートを受けながら、本人も並々ならぬ努力の結果、行き着くことだ。

だからこそ
「発達障害は個性であって、障害ではない」
という風潮はちょっと、怖い。

現実的に一般就労が難しい以上は公的支援が必要になるけど
「発達障害は個性であって、障害ではない」
という世論が強くなれば、国はその世論に後押しされる形で発達障害の位置づけを変えるはずだ。

やっと、発達障害は公的支援が必要だということを国も認識して、受けられる公的支援も増えてきたのに、これでは元の木阿弥だ。

個人的にはコミュニケーションが成立しようと、しまいと暮らしてゆけないのなら、それは個性ではなく、障害だと思う。

発達障害に対しての理解を求めるのは大事だけど
発達障害=コミュニケーションが成立しない
というのはあくまで、個人差があるということを知ってもらうことも、大事だと思う。

そして、個人的には
「発達障害は個性であって、障害ではない」
というのも、ちょっと違うと思っている。

きっと「障害」という言葉が持つネガティブなイメージがそうさせるのだろうけど
一般就労が難しく、日常生活に支障があり、公的な支援を必要とするならば
遠慮なく、「障害」という言葉で定義しておくことはとても大事なことだと思う。

日本でも、ヒトラーのように障害者は生きている意味がないと言われた時代もあった。
でも、今はもう違う。
隠す必要はないけど、隠したければ無理にオープンにする必要もない。

私も、自分で気持ちの整理がつくまでは隠していたし、隠し通すつもりだった。
だから、隠したければ無理にオープンにする必要はない。
自分が、オープンにできたからって他の人もそうだとは限らない。

ただ、公的支援がいちいち、世論に流されて、年度が変わる度に制度が変わるのでは本当に生活できなくなってしまう。

一般の人達から、発達障害という言葉で、誤解が生まれるのは仕方がない。
誤解かどうかということも、個人的な感じ方に過ぎないから、違うと言われたら、そうかと頷くだけだけど。
ただ、世間の誤解から生まれた世論に後押しされ、流されて。
公的支援がコロコロと変わるのはやめて欲しい。

とても、難しいことだけれど
公的支援というこは個人の自由を尊重し、柔軟性を保ちつつ、公平性も保っていて欲しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?