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薔薇族Ⅱ(短編小説)

《 約定の日 》

 突然の静寂の合間に聞こえてきた。
その声が。
 
 止まったと思った時間が再び流れ出す。
耳のそばを吹き抜けるかすかな風。遠くで行き交う車や鳥のさえずり、そして住宅街のわずかな生活音。
 いつもと同じ、何も変わり映えのない日常の風景。
 
 奈津は歩道越しに薔薇園をちらりと見やり、歩き去る。
─ わかってるわよ。
 胸の内で呟き、二三歩足を踏み出したら、もうその会話は忘れ去っていた。

 最近意識の混濁が激しい。
水の中で目を開け、耳を澄ませて生活をしているような感覚だ。
 いや、自分でも「生活」をしている実感がない。
手足を動かして行動することが億劫で仕方がないのだ。

 家の裏手に張り巡らされた塀の勝手口から、母屋に面する庭へと入ったところで、母陽子の声が響いてきた。
「またダメだったのよ。11回目よ、たしか。東テレシナリオコンクール」
 挨拶をと、一輪だけ庭の隅に咲いている赤い薔薇の前にしゃがみ込む。
陽子の愚痴がイヤでも耳に入ってくる。
 
 勝手に落とすな。発表はまだこれからよ。

 小ぶりだが、形よく育ってくれた八重咲の薔薇を見つめながら奈津は毒づいた。
 テラス戸を少しだけ開けているから、声が風に乗って届くのだ。
相変わらず配慮も何もあったものじゃない。
「もう諦めたら? とも言えないしねえ…。定職にも就かないで、いつまでも夢なんか見て」
 奈津の母がもう一人の娘にこぼしている。
奈津の妹だ。甲高い、幼児がはしゃぐ声に混じってハキハキした声が聞こえてきた。
「私がお姉ちゃんに話すわよ」
 
 わたしはごめんよ。
 
 奈津はさっと腰を上げ庭を出て、母屋の隣に建つ離れへと引き上げた。
小さな造りの平屋に奈津は一人で生活をしていた。

 パソコンデスクの前に座り、そこに活けた一輪挿しの薔薇を眺めた。
昨日、花屋で買った白薔薇だ。
 薔薇はいつも水曜日の朝に買うことにしている。
市場が開く日だからだ。
 
 行きつけのその花屋はどこよりも開店が早く、その日に仕入れた新鮮な花をいつも店先へ鮮やかに溢れんばかりに飾り付ける。
 それを眺めるのが楽しくて、毎週水曜日にその花屋へ足を運ぶのだが、その日は薔薇を買わずに素通りしようとしたら呼び止められたのだ。

( 待って もうそんなに日にちがないのよ )

奈津は足を止めた。
─ なんのこと?

( わすれたの? 誕生日まで7日もないのよ )

─ ああ、そうだった。
 夏至。
太陽の誕生日。1年で一番昼が長い日。古代の太陽信仰の象徴でもある日。
すべてが一新され、浄化され、新しく生まれ変わり、また再生する始まりの日。
 
 どうして忘れていたんだろう。
毎年生まれ変わりを信じて、願って、大切にしてきた行事だったはずなのに。
ここしばらく頭の中が、もやがかかっているようにすっきり晴れない。
 奈津は靄の中から聞こえてくる声に促されるように白い薔薇を買った。

「お姉ちゃん、入るわよ」
 妹の侑里が返事を待たずに入ってきた。
戸口に背を向けたまま振り返らない奈津へ、構わず侑里は話しかける。
「脚本コンクール残念だったわね。いつも最終まで残ってるのに」
 その先を超えられないのよね、と後半は心の中でとどめたようだった。

 侑里は部屋の中を見回しながら続けた。
「お姉ちゃんさ、リアルな今どきの子を書いた方がいいんじゃない? 幻想モノってさ、一般受けはなかなか難しいじゃん。好きな人ははまるんだろうけど、私みたいなフツーの人間にはちょっとね」
 水の中にいる奈津には、侑里の言葉は届かない。
遠くで響くただの意味をなさない音でしかないのだ。

 奈津は白薔薇を見つめ続けていた。
─ また蟻だ。
 茎を這っている。
ずっと見ているのに、気がついたらいつのまにか一匹小さくて黒いのが現れて、じりじりと下から這い上がっているのだ。
 奈津はそっと摘まんで、デスクの上にある窓から蟻を外へ逃がした。

「それにさ、仕事も休みがちだっていうじゃない。母さんも心配してたわよ。創作活動がそんなに辛いんならもうほどほどにして、違うことに目を向けた方がいいんじゃないかって」

 またいる。
今度は2匹。
奈津は急いで蟻を摘まみ上げた。

「派遣社員だった? 正職の道もあるんだからもっと交渉してみたら? キャリアあるんだからさ…ねえ、聞いてるの?」
 さっきから花の茎を触っては、窓の外へ手を振りかざしている姉の姿に侑里は眉をひそめた。
「ねえ、何してるの?」
 近寄って手元を覗き込んだ。

 摘まめば摘まむほど、どんどん蟻の数が増え、茎を黒く埋め尽くしていく。
 払いのけながら、嫌な予感がして薔薇の花弁を押し広げてみた。

「蟻が…蟻がたかっている!」
 奈津は悲鳴を上げた。
 まだ開ききっていないたわわな花弁の中に、真っ黒な塊りが蠢いていた。
奈津は花弁の中に指を入れて蟻を掻き出そうと半狂乱になった。

「蟻なんていないじゃない!」
 手元を覗き込んできた侑里が、そんな姉の手を掴み必死に止めた。
「お姉ちゃん、どうしちゃったのよ! 蟻なんていないじゃない! しっかりしてよ!」
 外まで響く大声を聞きつけた母陽子が駆けつけた頃、デスクの足元には白薔薇の残骸が散っていた。


 誕生日まであと2日。
目覚めと同時に頭を占めていたのはそのカウントのみだった。
 ベッドから抜け出して、機械的に服を着て廊下を出る。
そのまま外へ出ようとしたところ、玄関脇にある小さな居間から母陽子が飛び出してきた。
「どこへ行くの? こんな時間に。まだ夜明け前じゃない」
 険のある表情で噛みつくように引き留めてきた。
 母屋にいるはずなのに、なぜここに?
虚ろな頭で奈津はぼんやりと考え、そして思考をやめた。
どうでもいい。

「昨日もおとといもこの時刻に出てたわよね? 小手丸の散歩かと思ってたら、連れて行っていないから変だと思ってたのよ。この間からあんた変よ。ご飯も全然食べないし、か…」
 陽子は言い淀んだ。
「顔色もよくない…」
 陽子は怯えたような目で奈津の顔を凝視している。

 母の後ろにある壁掛けの鏡に自分の顔が映っていた。
 これ、わたしの顔?
青白い…いや、ごくごく薄い緑色がかった半透明の白い顔。
なんだろう、これ。見たことがある。
そうか、あれだ。皮をむいたアロエのようだ。
わたしってこんな顔だっけ?
奈津は朦朧と考えを巡らせた。

「あの家に行くつもりなの? そうなんでしょ。昨日も家の周りをうろついてたよね」
 奈津は陽子の顔を見下ろした。
 ついてきたのか?

「あの家に一体何の用があるの? ひょっとしてお金でも借りてるの? ミドリノっていったわよね。人が住んでるのかどうかもわからないような家よ。あそこの家の人と何かあるの? 正直に言いなさい!」
 奈津には母が錯乱しているように見える。
この人こそ何を言っているのだ?

「あんな雑木林みたいな、庭を手入れもしていない家…。あんた、妙なことに巻き込まれているんじゃあ…」
「雑木林?」
 くぐもった奈津の声に、陽子はひやりとして口をつぐんだ。
何、この声…。

「あんなに見事に造り上げられた薔薇の庭園を雑木林?」
 奈津の気配がひゅっと変わって、陽子はうすら寒い怖さを感じてしまった。
「ば、薔薇の庭園? あんた一体何を言ってるの?」
「お母さんこそ、悪口にも程がない?」
「雑木林は雑木林よ! ご近所の人皆言ってるわよ! 薔薇どころかタンポポ1本だって咲いているところ見たことないわよ!」
 たまらず陽子は金切り声を上げた。
「あんたやっぱりどこかおかしいわよ! 侑里も呼ぶから今日病院へ行こう」
「わたしはどこもおかしくない」
「コンクールにずっと落選してるのに諦めないから…ストレスでまいっちゃってるのよ。ね、今回がいい潮時よ。もっと違う方へ目を向けて…」
「まだ落ちてない! 発表は明日よ!!」
 怒りで目の前の景色が大きく揺らいだ。

 決めつけ…そして全否定。
いつもそうだ。ずっと小さな頃から今の今まで。
この人は自分の想像の世界にいつもケチをつけ、それを語ることは悪いことだ、危険なことだと戒めてきた。
 
 それでも自分の中で出口を探して溢れだしそうな塊りを何とかしたくて、脚本の世界を目指そうとした。
 シナリオコンクールに十年間応募し続けて、これまで一度も作品を褒めてくれたこともなければ応援してくれたこともなかった。
 母はいつも妹の侑里ばかりを可愛がり、全肯定で育ててきた。
 
 陽子は一瞬しまったという表情をしたが、すぐに取り繕った。
どうせ今回も落ちてるだろうとその目は語っていた。
奈津は部屋に駆け戻り、ベッドの中に頭から潜り込んだ。

 許さない、許さない、許さない…。
わたしを全否定するヤツ、絶対に許さない…。

 午後になって、母に呼ばれて隣町の自宅からやってきた侑里がうるさく廊下で騒いでいたが、奈津はドアに鍵をかけて拒絶した。

「なっちゃん、今日ねえ、電波障害でネットの接続トラブル起きてるみたいよ」
 翌日の朝、陽子がドア越しに室内へ声をかけた。
返答はない。
「なんでも、太陽フレアだかの影響らしいわよ。ほら、あんた今日発表だって言ってたじゃない。だからお母さん、さっきHP覗いてみようと思ってね…」
 物音ひとつしないので、ドアノブに手をかけた。
鍵はかかっておらず、すんなりドアが開いた。
もぬけの殻。
窓が開いている。
陽子はすぐさま、次女に電話をするために母屋へと駆け出した。


 自分の名前を叫んでいる。
母の切羽詰まった声。
小さな子供か、犬猫を探すかのように。
「あんた…たのよ」
 薔薇園から少し離れた支流の土手の茂みに奈津は身を潜めていた。
せめて薔薇園の近くにいたかった。

 雨が降り出した。
しとしと細かい小雨が、あっという間に辺り一帯を垂れ幕のように覆い隠した。
何の雨支度もしていないのだろう。陽子はいったん家へと引き上げたようだった。
忍び込むタイミングは今しかない。
陽子たちに薔薇園周辺を見張られて、今日一日近寄ることすらできなかったのだ。
 奈津は薔薇の垣根を掻き分けて、鬱蒼と生い茂る庭園内へと踏み込み身を隠した。
すでに陽が翳り、最後の日が終わろうとしていた。

 足を踏み入れた庭園は以前とは様変わりをしていた。
 あれはちょうど一年前、当時も夏至の日だった。
家の主人にお願いをして庭に入れてもらえた。それが三回目の訪問だった。
 今、奈津の目に映るものは庭園どころか、森そのものになりつつある。

 なりつつある・・・・・・
おかしな事態だ。だが、奈津にはその異常さがわからない。
小さな庭園の横に建っているはずの洒落た洋風の家屋すらどこにも見当たらないことに、気づきもしない。
 いや。まだうっすらと家の輪郭が、茂みや木々の奥に消えたり現れたりと、かろうじて確認できる。
 庭園自体も、今までのこじんまりとしたガーデンから森にと拡張したりと不安定だった。

 霧のような小雨が降りしきる中、奈津は石畳の細い道を進んだ。
様々な薔薇の群生が、見渡す限りの空間すべてを埋め尽くし、咲き乱れている。
まるで広場に集い、ひしめき合う群衆のようだった。
なのに、とても静か。
 ひっそりと静まり返り、一切の物音も声も失われたかのようなとてつもない静寂に、奈津は不安を抱いた。

 今までとは様相が違う。
これまでは眺めていると薔薇たちが薔薇の精となり、彼らの世界を垣間見せてくれた。
しかし今、奈津の目には物言わぬ普通の植物の光景が広がるのみ。
 
 自分は異物として扉を閉ざされたのだろうか。
拒絶されたのだろうか。
受け入れてもらえていない ─ 。
 奈津はここでも言いようのない孤立を感じた。

「…お願い。あなた方までわたしを拒絶しないで。わたしを受け入れて…。お願いよ…」
 奈津は重たそうにこうべを愛らしく傾けた白桃色のオールドローズの前にくずおれるように膝をつき、懇願した。
 ああ、わたし、同じこと前にも言ったような気がする。
感情が干上がっていて、涙も出てこない。
 でも、もっと違うことを言ったような気がする。
なんだったか。
思い出せない…。

 そして完全に陽が落ち、その夜がやってきた。
いつのまにか小雨もやんでいた。
 そしてまったくの無音。
物質世界で音がないということはあり得ないはずなのに。
なのに、陽が落ちてからぴんと張り詰めた空気が辺り一帯を支配し始めた。

 無数の何かが息を凝らし、じっと自分に集中している。
おかしなことだが奈津はそう感じた。
 肌が泡立つ。
大勢の何かの視線が自分に集まっている。つぶさに観察されている。
まるで品定めをされているかのように。
 こんな風に感じることは初めてだった。
今まではもっと友好的な空気だったのに。

 何がいけないのだろう。わたしは何か間違えたか?

 奈津は必死に考えた。
それとも何か忘れている?

( 契約したじゃないの )

 頭上から囁かれたような気がした。
はっとして上を振り仰いだが、静止画のように白桃色のオールドローズが夜露に濡れてこうべを垂れているだけだった。
 
 自分の頭の中に垂れ込めるもやがいっそう濃くなった気がした。
また警報機が小さく鳴っている。
三年前に鳴り始めた自分への警告。
それとも予兆?
自分は一体何を望んでいるのか?
忘れているわけではない。恐れて逃げていたのかもしれない。
 そう、その望みを口にした記憶がある。
口にしてはいけなかったであろう、その望みを。

 思考が定まらず、時は刻々と流れ、刻まれる。
やがて空が白んできた。
闇から藍色へと移り、みるみるうちに薄く色彩が淡く明るくなっていく。
 その変化に呼応するように、奈津がいる場所も動き出した。

 どこからか鼻歌が流れてきた。
ひそひそと数人が集まって話をしている。
さわさわと布や葉がこすれる音も聞こえてくる。
大勢の生き物の気配が辺りに満ちてきた。
 
 奈津は恐怖を覚え、目を閉じたまま開けられなかった。
今まで怖いと感じたことはなかったのに、今は違う。
本能的に、これまでとは体験しつつある世界がまるで違うもの、異質なものであることを感じ取ったのだった。
だからこそ覚悟が決まらなかったのだ。

「 約定の日 」

 今度ははっきりとその声が轟いた。
奈津は目を開けてしまった。
 そこはもはや森となっていた。

 そして陽が登り始める。完全に闇が消え、もうすぐ貌を出す陽の光を反射して水色とオレンジの空が広がっていた。
 夏至が来た。
薔薇の精たちは浮足立っている。

( 誕生日 誕生日 そしてここにまた新しい命が誕生する )

─ 待って、わたしはまだ決められない。

 奈津は震えた。もうすっかり思い出している。
自分が何を願って約束したのかを。

( 約束したでしょう? この夏至の日に )

 そう。わたしは願った。

「愛する薔薇たちよ。薔薇そのものになれたらどんなにいいだろうか。わたしもあなた方になりたい。わたしの願いが叶うのならどんなことでもするわ」
 一年前の夏至の日に、わたしはこの薔薇の前で懇願した。
そして今、わたしはもう一度同じことを呟いている。
口が勝手に動いている。本心なのか、それとも言わされているのか…?

 その時。
 夜から朝へと移ろうぼやけた境目に、うつつの世界から母陽子の声が切り裂くように飛んできた。
「奈津! あんた賞を取ったのよ! ついに取ったのよ! シナリオ大賞を! だから戻ってきて!」
 奈津のぼやけた意識が一気に現実に引き戻された。
膜がかかったような虚ろな目に力が戻り、輝き出す。

 最初の一条の光が差し込んだ。
ついに太陽が貌を出した。
奈津は目を剝き、口を大きく歪ませた。
「今じゃない、今じゃない!!」
 赤い太陽が瞬く間に奈津のいる場所を薙ぎ払うように照らし出し、奈津の体はなくなった。
 絶叫を上げる奈津の声は誰にも届かない。
願いには続きがあったのだ。

「コンクールで賞を取ったら何でもする」

 薔薇たちは一斉にさわさわと揺れ、祝福した。
 黒い礼服を着た森の番人が石畳をゆったりと踏みしめ、やってくる。
やがて、白桃色のドレスを纏ったレディの足元に蹲る低木の前で足を止めた。
 生まれたばかりの野茨のいばら
小さな白い花弁や小ぶりな葉が怯えて震えているのか、朝風にそよいでいる。
番人の綠野はそっと微笑した。

「 完了 」



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