誰も教えてくれなかったおしゃれのルール(アーカイブ)ファッションにおける客観的な視点

ファッションに限らずとも、客観的な視点を身につけることは重要です。

すべての自分の表現、言葉、作品において、出来得る限り客観的でいれば、問題は最小限に抑えられます。


ファッションにおいて、多くの人にとっての客観的視点とは、鏡の中の自分の像でしょう。小さいものでは手鏡の、化粧室で上半身の、自宅やショップで全身が映る鏡、そしてイレギュラーなものとして、街で通り過ぎざまに映るウィンドウ。そのどれもに自分の姿を見ることができます。

しかし、客観的な視点とは、それでは足りないものです。
必要なのはもっと遠く、もしくは高くから見る視点。たとえて言うならば、芝居の演出家や、映画の監督の視点です。

芝居の場合なら、劇場の一番後ろの席から、映画であるなら、映画館のスクリーンが全体を見渡せる席から見ることで、彼らは舞台上やスクリーンの中の役者とは一段違うところから全体を見ます。そして、それができなければ、演出家や映画監督は務まりません。


その視点は、観客の視点よりも、より遠く、高いものです。観客と言えども、やはり近すぎます。近ければ近いほど、全体を見ることはできず、その結果、導き出される意見はばらばらです。


もし私たちが、自分の服装について、ごく近くの人たちに意見を聞いたなら、すべて違うことを言われるでしょう。

ある人からよく見えるところは、違う人にとってはよく見えないかもしれないし、それぞれが、細部のみを見ているかもしれません。他人であるからといって、それが客観的な視点とは限らないのです。


分かりやすいのは映画監督の視点なので、映画を例にして説明します。

映画には、全体のテーマ、そしてストーリーがまずあります。それを表現するためにキャストが決まり、各シーンのセットやロケ地が決定されます。主人公は顔、上半身、全身、頭上から、足元から、俯瞰的に、群衆の一部としてなど、さまざまな視点から撮影されます。

監督が留意しなければならないのは、背景、照明、シーンの登場人物、季節、時間、場所です。それをすべて考慮した上で、登場人物の衣装もメイクも決まります。

同時に、その登場人物を引きで見るのか、寄って見るのかによっても、衣装、メイク、髪形が変わってくるでしょう。テーマを表現するためには、それらすべてが調和していなければなりません。どこかひとつ飛びぬけても、どこかひとつ抜けていてもだめです。


これと同じことが、ファッションにおける客観的な視点にも要求されます。

いわゆる「痛い」スタイルとは、この何かが抜け落ちている視点の持ち主であることが露呈した結果です。その人は、何かについて全く見ることができない人物であるということです。

これはよく言われるTPOでも足りません。見るべきものは、Time、 Place、 Occasionでは足りません。なぜならそこには最も大切な意図が抜けています。(ちなみに私はTPOという言葉は使いません。足りないので)


客観的な視点は、自分がどう見せたいかという意図を表現するためにこそ、必要なものです。

映画だったらテーマです。この場所、この時間、このメンバー、この照明、このお店、この季節、この劇場で、目の前にある1杯のコーヒーを前にして、何を最も意図するのか。

恋愛映画なのか、ファンタジーなのかによっても違うでしょう。一番重要なのは、何を一番表現したいかです。

それがもし、「おしゃれでモードな好きな私」だったら、適度に流行を取り入れた、モードの服を選べばいいし、「流行には左右されない、オーセンティックな私」だったら、余り目立たないけれど、上質な本物だけを身につけたらいい。逆に、ライブハウスで新人バンドのライブを見に行く、「新しい音楽を楽しむ好奇心に満ちたおしゃれな私」だったら、ダメージ・ジーンズにスタッズのついたブーツでもはけばいいのです。


映画監督のような客観的な視点、そこに込めた意図。この2つがあれば、誰が何と思おうと、気にすることはありません。

観客はすべて違う意見を持ちます。そしてこの人生の物語の主人公は自分です。


どんなに気をつけても、すべての人を満足させるのは不可能です。受け取った相手がどう思うか、感じるか、コントロールすることはできません。相手は不満に思うかもしれないし、不謹慎に感じるかもしれない。しかし、それはこちらの手から離れたところの問題です。

ファッションの表現は自由です。それで誰かが傷つくことは、ほとんどありません。(もちろん宗教的な理由でルールがある国はあります。それは守らなくてはなりません)


主人公には、そのシーンで一番映えるような衣装を着せてあげましょう。映画監督の視点で、シーンをチェックしましょう。誰かが何か言ったところで、それを気にする必要も、ましてや反論する必要もありません。

なぜなら、この世界でその視点を提供できるのは、すべての自分の行動を把握している神様以外には、主人公である自分自身しかいないからです。

2015・01・19


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