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誰も教えてくれなかったおしゃれのルール(アーカイブ)着崩し

着崩しにおいて、「崩し」とは何を崩すのでしょうか。

それは全体のバランスです。

全体のバランスをわざと崩した状態を着崩しと呼び、それはおしゃれの1つの方法とされています。


外しのテクニックも、全体を100パーセント同じにしないという方法も、すべて着崩しの中に入ります。

ですから、着崩しのテクニックとしては、ジャケットの袖をまくるというのも、外したアイテムを投入するというのも、たとえば、パンツの丈や袖丈をアンバランスにするというのも、すべて、それは着崩したということになります。

なぜこれほどまでにバランスを崩す方法を選ぶのでしょうか。理由は、おしゃれとは、常に完璧を嫌がるものだからです。


たとえば、コレクションで発表されるスタイルは100パーセント完璧です。そのブランドの表現したいことを、一ミリの誤差もなくあらわしています。

しかし、ショーが終わり、モデルではなく、街を歩く人が、そのショーのスタイルそのままであらわれたら、それは少しおしゃれから遠のくのです。


たとえば、ハイブランドの広告用のスチール写真も完璧です。イメージにふさわしいモデルの選抜、メイク、照明、小道具、セット、またはロケーションまで、そのブランドのそのシーズンに言いたいことを余すことなく伝えています。

しかし、これもコレクションのスタイルと同じように、同じままのスタイルで街を歩いたとしても、注目されるのはその人ではなく、服やバッグになるのです。


最近は少々状況が変わってきてはいますが、基本的に、ショーや広告用スチールのモデルは、その人となりを表現しません。それはあくまで服を目立たせるため選ばれたマネキンです。

その人自身が服より先に出てはいけません。ですから、ショーや広告スチールにおいて、服よりもそのモデルの印象が強いようでは、それは失敗です。


しかし、街へ出たならば、要求されるのは、それと全く違った要素です。

服や靴やバッグが目立ち、その人そのものが忘れ去られるようでは、意味がないのです。

それはおしゃれな服、靴、バッグであり、おしゃれな人ではありません。


おしゃれな人に見せるために、おしゃれな人たちは工夫します。それがいわば着崩しです。

完璧に提案されたスタイルを少しずつ切り崩していくことによって、より自分に近づけます。

わざとジャケットの袖をとってみたり、パンツを中途半端な丈にしてみせたり、美しいバッグにファンシーな小物をつけてみせるのはそのためです。


提案されたブランドのスタイルをそのまま身につけるのなら、それは着る人にとって、アイデンティティの喪失を意味します。なぜなら、人はもうその人自身を見ようとはしないからです。

見られるのはその服や靴やバッグの情報。製造者、製造年月日、そしてその値段がその人の持つ情報となり、その人の情報は希薄になり、瞬時に消費されていきます。もはや、それは個人ではありません。


完璧なバランスを崩すことには、もう一つ意味があります。

完璧には、それ以上という状態がありません。完璧とは、それで行き止まりということです。もう進歩はありません。これ以上、発展も進歩も発達もしないということは、実に退屈なことです。そして、行き止まったその先には、崩壊が待っています。


完璧に行きついてしまったら、人は崩壊を恐れて防御態勢に入ります。

そして、攻撃こそ最大の防御と言わんばかりに、高く壁を築き、誰かからの関心を持たれることを拒み、少しでも壁を越えて入ってこようものなら、ここぞとばかりに攻撃します。

完璧な人は、崩壊を恐れる人であり、もはや魅力のなくなった人です。魅力がないということは、つまり、おしゃれではないということです。


完璧でないとは、すなわち魅力なのです。そして、まだ未来があり、発展する可能性が残されていて、多くの人とコミュニケーション可能ということです。それは、着崩すことによって、表現できます。


誰かとコミュニケーションをとりたいのなら、そして、もっと発展したいのなら、どうぞ着崩しを取り入れてください。

壁は自分で崩されるものではなく、自分で崩すもの。完璧でないものは、永遠に進化し続け、誰にも壊すことはできないのです。

2014・12・08


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