Linne
ヒトの心の中には感情や記憶を司る存在が何人もいる。廃墟の街で青年とともに放浪する少女もまたその一人。今にも崩落しそうな不安定な世界で、耐え難い苦痛の中で、少女は青空を探し続けている。これから先、存在が終了するまでずっと。
くだらない人生だったなんて 振り返るにはまだ早いか 幸か不幸か 死に損ないの 呼吸は未だ続いている 夕日がさっきから急かすんだ いい加減決めてしまえよって だけど選べない 僕には選べない 未来を殺すかどうかなんて 僕がなくしたのは 死ねない理由 僕がなくしたのは 生きてくための理由 落っことしてなくして泣いている 愚か者がここに独りぼっちだ 輝いた日々も今は昔 今じゃまるで燃えさしのタバコ 酸いも甘いも なんて言えるほど ちゃんと生きた覚えもない 朝日がずっと脅すんだ
塔がぐらぐら揺れている。 上空から小さな十字架がいくつも落ちてきて、砕けたり地面に突き刺さったりしている。 「これは……まずいな」 男は立ち上がって上空を見回している。 「まずい」 お面の少年が復唱する。 「ああ、これは罪の清算じゃない。精神の崩落だ」 わたしはといえば、足をぷらぷらさせながら、呑気に二人のやり取りを見ている。 なぜなら、わたしは知っていたから。 再び自己の終了を願う彼の気持ちを。 外界からすべての制約を無視して、この最奥にいるわたしに直接語りか
終りが来るなんて、きっと去年の私には想像もつかなかっただろうな。 カーテンを締め切った部屋。 机の上にはスリープにならないように設定したPCと幾枚かの手紙。それから連絡をして欲しい人のリスト、各種暗証番号。 生きていればなんとかなるっていうけどさ、生きているからつらいことだって山程あるんじゃないかな。 どこかの誰かの正論に反論するくらいは、まだ頭は働く。 私はたぶん、流れ星のようにきれいに消えることはできない。 じっとりした場所で徐々に腐り落ちていくに違いない。 あ
メリーランド州ボルティモアにある研究所の一室で、私は本を読んでいた。図書室から持ってきた小説で、私の好きな作家が最期に書いた物語だ。 部屋には壁に沿うように机とベッド、棚とクローゼットが設られていて、それらが鏡合わせのように反対側の壁にも並んでいる。つまりは相部屋。 もう一人の住人はいつも通りどこかをほっつき歩いて、また研究スタッフに叱られているのだろう。そういうことにはもう慣れている。 入口のドアの上、天井近くに掛かったアナログの時計に目を遣る。午後10時。いつも通り
合鍵を使ってドアを開ける。ぎい、と少し軋む音がしてからゆっくりとドアが開いた。部屋の中に明かりはない。土曜日の午前11時。 「チサ?いるの?」 部屋の主の名を呼ぶ。今週一度も大学に姿を見せなかった彼女。LINEの既読すら付けなかった彼女。 1DKの廊下を進み、リビング兼寝室のドアを開ける。締め切られたカーテン、散乱したペットボトルと使い捨てトレー。 「チサ?」 ベッドの布団の膨らんでいるところに向かって声を掛ける。薄暗い部屋の中で布団がもぞもぞと動き、顔がのぞいた。
真っ暗な部屋の中で、スマホの画面だけが煌々と光を放つ。きっと他の人が見たら、私の顔だけがベッドにぼんやり浮かんでいるように見えただろう。 開いているのはいつもと同じタイムライン。相互フォローしている学校の友人たちとか、私の好きなアーティストとかアイドルとかの投稿が流れている。いつもと同じ、言葉で編まれた時間線。 そこは私が私のために編集した世界ではあるが、それを構築する言葉を私が制御することはできない。ただの文字だけであっても、その先には私ではない他者がいる。 /*ほら
「そうか。君は独りで闘い続けてここまで来たんだな」 一通りこれまでのいきさつを話し終わって、少しの沈黙の後、男が言った。わたしは頷く代わりに焚き火に目を落とした。 赤々と燃える炎は安心感を与えてくれる。多くのものが無機質に作られているこの世界で、有機的な命を感じさせてくれるものだった。 「聞いてもいい?」 男に問う 「何かな」 「あなたを構成するものはなに?記憶の一部だと言っていたけど」 「ああ、その話か」 男は足元にあった木を炎の中に放り込んだ。 「この塔
わたしははじめ、ただ己に与えられた役目と機能に従って動作していた。彼の精神に大きな異変が起きたとき、それに対処して彼の精神機能を平常に戻し、外界での活動に及ぼす影響を可能な限り小さくする。それがわたしというパーツに与えられた機能だった。 そのはずだった。 そのはずだったのに、気がつけばわたしはその役割を大きく超え、彼という存在を守りたい一心で行動していた。 理由はとても簡単だ。彼がそう望んだから。 わたしが物語の主人公になることを彼が望んだから。もっと言えば、彼は空想の
わたしと少年の視界いっぱいに「塔」がそびえ立つ。 ついに目の前まで来た。 少年と顔を見合わせる。 言葉はない。 わたしが頷くと、少年は眼の前にあった小さな十字架に触れた。 その途端、周囲の十字架が一斉に動き出した。石のこすれる音があたりに響き渡る。十字架たちは元の配置から組み変わり、入れ替わり、やがてわたしの身長よりも少し高いくらいの入口を作った。 少年は何も言わず、十字架でできたアーチをくぐり、「塔」の中へ入っていく。わたしもそれに続いた。 中は暗闇だった。 いや、
一日の中で朝起きた瞬間が一番憂鬱だった。 どうしようもない現実のどうしようもなさを突きつけられるから。 また変えられない事実の変えられなさを知らしめられるから。 現実とは有刺鉄線でできた檻のようだ。 私のベッドも毛布も本当は全部有刺鉄線でできていて、寝ている間だけ体に突き刺さる痛みを忘れているだけなんじゃないかって思ったりする。 閉じ込められている。それとも私が閉じこもっているのだろうか。わからない。少なくともそう感じように現実が変化してしまった原因が自分にあることだけは
光の犬たちはわたしたちから離れていき、そこら中をのびのびと走り回っている。わたしと少年はそれを見つめていた。 「ねえ、お願いしてもいいかな」 少年はじっとこちらを見ている。 「彼に言葉を届けたい。わたしの力じゃここからは届かない。だから伝言をお願いできるかな」 頷く少年。 「いい?いくよ」 わたしは彼へのメッセージを口にする。大丈夫。わたしも、わたしたちパーツ全員も現実に向き合う。だから大丈夫。そんな言葉。 「受け取った」 少年はそのままの姿勢で右手で空を指さ
わたしと少年は「塔」に向かって歩いていた。 お腹のあたりに感じる重さ、違和感が強くなってくる。 ふと何かの気配を感じて振り返ると、犬の形をした光が2つ、こちらを見ている。思わず立ち止る。少年もそれに気づいたのか、振り返って立ち止まった。 二頭の光の犬は「おすわり」のポーズのまま、わたしと少年をじっと見ている。大きな犬と、それより少し小さな犬。 「あれは…」 「喪ったもの。大きなもの」 「そっか。そうだったね」 わたしたちは多くのものを喪ってきた。眼の前の犬たちもそ
ふと気がつくと、わたしと少年は再び霧の草原にいた。 枯れたチューリップは、わたしの手の中で黒い塵になって消えていった。 お面の少年はそれを見届けると、無言で歩き出す。 わたしもそれに続いた。 爆撃を受けたようにクレーターだらけだ。そこに緑の草が生い茂っている。まるで遠い昔に戦争があった場所のようにも見える。 しばらく歩いていると、眼前に巨大ななにかの影が現れた。 山の上に巨大な十字架が斜めに突き刺さっている。 「あれは…」 「塔。罪が折り重なって生まれた。命が始まっ
お面の少年と二人、霧の立ち込める草原を歩いている。 今まで気づかなかったが、わたしたちが最初にこの空間に入ったときにいたようなクレーターが大小いくつもある。中には水が溜まっているものもあるようだった。 「もうすぐ」 十字架のひとつが近づいてきた。 「っ…!」 頭が痛い。 十字架が視界に入るたび、頭痛がひどくなる。 少年は歩みを止めない。 わたしも頭を押さえながら続く。 「ここ」 最初の十字架の前に着いた。 視界が歪むくらいの頭痛がするが、十字架だけは異様にはっき
「どうしてわたしを選んだの?どうしてここに連れてきたの?」 少年に問う。 「お姉ちゃんは『ある』を『ない』にしたい人だったから」 「ある」を「ない」に。少年の謎掛けのような言葉は、ここに至った今のわたしになら理解できる。 わたしは彼の精神を守るために生み出されたパーツであると同時に、彼の願望を強く反映したパーソナリティと姿をしている。憧れとは自己否定からくるものだと、誰かが言っていたのを思い出す。彼の願いとは現状の否定だ。こんな姿は受け容れられない、こんなあり方は受け
「こっち」 隣を歩いていたお面の少年がわたしの手を取る。 モノクロの地平線の向こう、かすかに光が見えた。 少年はそちらにわたしを連れて行こうとしているようだった。 「…わかった」 死んだらどうなるか。少年のその言葉から出自はなんとなく推測できる。 体に空いた穴も、不気味なお面で隠した顔も、なんとなく理解できる。 それでも確証がなかったわたしは、ひとまずは少年の行きたい方向に向かうことにした。 徐々に大きくなっていく光を指さして、少年が言った。 「あそこ」 少年の声