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疲れたと感じるなら、
私は私を罰しているのだろう。

苦しいと感じるなら、
私は私を裁いているのだろう。


彼の声が大きすぎるし何を言ってるかわからないと言って、
彼を無視するなら、
私は私を無視しているのだろう。

彼女が私を思い通りにコントロールしようとすると思えるなら、
私は私を自由に解放されてはならないと信じているのだろう。


私は神に対して決して許されない罪を犯してしまったのだから、
私は罰せられ、裁かれ、自由を奪われなければならないと
信じているのだろう。


何度も赦しをし、罪悪感を取り去ってもらうよう聖霊に願う。
何度も赦しをし、罪を犯したと信じている誤った心を直してもらえるよう聖霊に願う。


それでもまだまだ誤った心の投影が、さまざまな形で知覚される。
それは未だ気づいていないことがあるから。
未だ認めていないことがあるから。


私が神に、イエスに、聖霊に怒っている。
私は自分が神よりもうまくできると信じている。
私は世界をよく知っていると思っている。

赦しすら、私がうまくやれると思っている。
その赦しをした結果はこうなるだろうと、自分で勝手に決めている。
だから自分が望む結果が顕れないと、赦しがうまくできてないのかと苦しくなる。



何度繰り返してきたのだろう。
何度も繰り返さなければ、私はこれを認めることができなかっただろう。
そして何度も繰り返さなければ、もうこれを繰り返すことはやめようと、真の決断はできないのだろう。


大丈夫だ。
いまどのようであっても、大丈夫だ。
みんなみんな、すべての人が大丈夫だ。
どんなふうに見えたとしても、みんな大丈夫だ。

だってどの人もひとりの例外もなく聖霊が導いているんだから。
聖霊はひとりひとりがその時受け取れるように導いている。
現に私がこうして導かれてきた。

幻想世界にいる私には、私がうまくやれてるとは思えない。
静まってキリストの声を聞くことができないと感じている。
裁くことをやめることもできない。
まだまだ恐れがあると感じる。

ただそれらに気づいたとき、聖霊に赦しをする。
私がこうであろうと思っている形で。
そして心のうちに祈る。
キリストの声に耳を澄ませ、心眼で見たい。
彼らを私とひとつの霊として見たい。
彼らと共に神とひとつであるところへ帰りたい。


あとはイエスを聖霊を信頼して、ここに在る。


今日私は多少の疲れと苦しさを感じている。
赦しをしたようなしてないような。
裁く思いに気づいた。恐れの心に気づいた。
自我の誘惑を感じ、聖霊に従うならどうするかを問うた。
問うたのに自我に流されることを選んだりもした。

それでも少し、”ねばならない”が減った気がする。

心が楽だ。

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