(Linp&Ruru)本当の自分を知り、本当の自分として生きる

私たち夫婦(Linp&Ruru)は「真の自己を知ることの大切さ、そして真の自己…

(Linp&Ruru)本当の自分を知り、本当の自分として生きる

私たち夫婦(Linp&Ruru)は「真の自己を知ることの大切さ、そして真の自己として生きることが最大の喜びである」ということを様々な学びと経験から得た気付きをここ青森県八戸の地で日々シェアしています。またこのnoteを通しても同じようにお伝えしていければと思っております。

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スピリチュアルな人生の後半期へと移行してきたあなたへ

あなたがもしこれまでの人生で多くのものを築き上げてきたにもかかわらず、それらがいとも簡単に奪われたり崩れさったりして人生に挫折や絶望をしているならこれから先のメッセージはあなたの救いとなるかもしれません。 私たちの人生には少なくとも一度は自らの意思で決定することもコントロールすることも及ばず、またそれらに対応したり改善することも一切できず私たちの理解の範疇を超え、人生の方向感覚が完全に奪われたかのような状況が訪れます。 まるで真理はあなたに本当の自由と平安を与える前に、い

    • なにもない

      この体でいる限り 知覚することはすべて幻想。 反応する感情はすべて幻想。 動き出す思考はすべて幻想。 本当の私はなんなのかを知っていること。 本当の私を心に確かに受け入れていること。 必要なのはそれだけ。 あとは、真の私が肉体のわたしを導く。 真の私は聖霊であり、メシアであり、神なのだから。 この体であるわたしが、 しなければならないことはない。 してはいけないことはない。 なにもない。 なにをしてもしなくてもかまわない。 真の私とはなんであるかを知っているこ

      • 真の幸せを望むなら

        今の思いを記録しておこう。 赦しを頑張ったら、 心眼で見れるようになるんだろうと思っていた。 イエスに助けを求めたら、 苦しさや怒りを感じなくなるのだろうと思っていた。 そのうち目に映るものに、争いや憎しみ、不満、不安など無くなるのだろうと思っていた。 でもそれは違うな・・・と思っている。 頑張ってやろう、 苦しみを感じたら、なるべく早くイエスに助けを求めよう、 そんな風に頑張ってなにかをしようとしてるのは、 ”頑張ったら私はできる”と思っている証拠だ。 ”私はで

        • 私は誰かを思い出せばいい

          そういうことか。 ”私が誰か”を知っているとが重要なんだ。 初めから聞いていたこと。 教わっていたこと。 ”私は誰か” 本当の私は誰なのか。 視覚も臭覚も味覚も聴覚も触覚も、 思考も感情も、 すべて幻想。 すべて私の狂った心の投影。 起きる出来事も失われるものも、 すべて私の誤った心の投影。 それしかない。 だけどそれは本当の私ではない。 本当の私は神が創造したままの私。 今も神とひとつである私。 すべてとひとつである私。 いつでも本当の私は誰かを、 思い

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        • [Ruru]いつでも赦し
          23本
        • [Ruru]奇跡講座 ワークブック実践記録(2)
          356本
        • [Ruru]奇跡のコース実践記録(1)
          34本
        • [Linp] 最奥の自己から愛を込めて
          27本
        • おすすめの書籍&CD/DVD紹介
          4本
        • [Seoritsu Ruru] 水が浸透するように愛を注ぐ
          26本

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          選択し続ける

          日常がだいぶ穏やかになった。 私にある問題は、ほとんどないかのように思える。 でもまだ私の心に赦しが必要である証拠がたくさん知覚される。 状況に問題があると私に話してくる人がいる。 誰かに対する不満を私に話してくる人がいる。 問題が起きる。 なにかが故障して、予定通り事が運ばない事態が起きる。 一見私には関係がないことのように思えるけれど、 全部私が信じている罪悪感の現れだ。 愛されない証拠を次々の見つけている人。 お金に苦労する証拠を次々に見つけている人。 体に次々

          幻想世界にいたいと願う心の赦し

          私はこの幻想世界を、もうちょっと楽しみたいと思っている。 分離の世界。 苦しみの世界。 罪悪感の投影であるこの世界を。 幼い頃から他人との関係をうまく築けなかった私。 ずっとなぜ私だけうまくいかないんだろうという苦しみがあった。 それがここ最近ほぼ無くなったように感じるから。 だからもうちょっとこの幻想世界を楽しみたいと思っているんだろう。 分離の見方を肯定した反応をする私がいる。 分離の見方をしても、その奥でもうひとつの見方があることに気づき、見方を選択できるように

          ただ聖霊に差し出す

          すべて聖霊に捧げる。 聖霊に持っていき、差し出す。 それだけ。 その感覚。 ああ、私は自分をどれだけ傷つけたかったんだろう。 自分を傷つけることができるチャンスを逃すまいと、 どんな小さなチャンスも逃すまいと、 どれだけ見張っていたんだろう。 そして見つけると、狂喜乱舞してここぞと自分を責め傷つけ苦しめてきたんだろう。 神に取り返しのつかない罪を犯してしまったから、 (罪を犯したと信じたから) そんな罪深き私は、 愛されるはずがないと信じた。 苦しまなければならないと

          ただ認めていく

          疲れたと感じるなら、 私は私を罰しているのだろう。 苦しいと感じるなら、 私は私を裁いているのだろう。 彼の声が大きすぎるし何を言ってるかわからないと言って、 彼を無視するなら、 私は私を無視しているのだろう。 彼女が私を思い通りにコントロールしようとすると思えるなら、 私は私を自由に解放されてはならないと信じているのだろう。 私は神に対して決して許されない罪を犯してしまったのだから、 私は罰せられ、裁かれ、自由を奪われなければならないと 信じているのだろう。 何度

          疲れきったときに気づいたこと

          しばらくnoteを書かなかった。 2週間、あっという間に過ぎていったな。 この2週間、いろんなことがあった。 いや、取り立ててなにもなかった。 どっちにしろnoteに書きたいものが湧いてこなかった。 だけど。 この2週間。 とてもとても、とても大事な2週間だった。 とてもとても、とても大事なことに気づかせてもらった。 なにもなかったと思えるのは、 そこに起きていることに私が気づいてなかったからだ。 気づきたくなかったんだろうな。 毎日毎日、何度も何度も起きているのに、

          退行してるように感じる時

          退行してる? そんな風に感じる知覚が溢れた数日間。 敵対しているように見える人の態度が柔和になったり、 拒絶してるように感じる人が受け入れているように見えたり、 コントロールしてくる人がコントロールしなくなったように見えたり、 赦しを続けてきて、聖霊が私の罪悪感を取り除いてくれていて、 だいぶ罪悪感が薄くなってきたのかなと思えていた。 もう少ししたら心眼で見るということを体感できるんじゃないか。。。 そんな淡い期待まで持ったりして。 言葉によらなくても心が真理を向い

          狂ったままで愛を意志する

          私は変わらない。 この世界にいる私はこの体を持ち、 思考、感情を持つ。 原初の罪の意識を持ち、罪悪感を持っている。 この世界にいる以上、それは変わらない。 感情や思考は自我のもの。 この体も自我もの。 だけど私の心は変わってきた。 抵抗していた私の心は、聖霊によってその抵抗を少しずつ手放してきた。 真実を知りたくないと頑なだった心は、聖霊によって少しずつ真実を聞き受け入れたいと思えるようになってきた。 神を恐れ、イエスや聖霊を拒否していた心は、 聖霊によって恐れを手放し愛

          祈り

          イエス。 キリスト・イエスよ。 私は真実を求め、転がり、落ち、崩れ、砕かれながら、 こうしてここまで来ました。 すべての経験が私が真実を受け入れるために必要なことでした。 すべての出来事が私が本当の自由を知るのに必要なことでした。 経験しなくていいことはひとつもなく、 起きなくてよかったことなどひとつもありません。 真実は私がこれまで重ねてきた数々の人生で得た法則とは真逆でした。 そして私は決してそれを知りたくなかったのだと知りました。 聖霊はどんなときも私を見放さず

          散らかってる私

          友人が病気になった。 手術が必要な病気とのこと。 どのようにこのことを受け取ったらいいかと思っていたら、 Linpが病気になった。 薬を買いに行ったり良さそうな食事を考えていたら、 今度はLinpからうつって、私が病気になった。 病気になったので病院に行くと、 待っているときに私は椅子に座っていられず床に蹲った。 気持ち悪さと冷や汗で、急遽救急外来にストレッチゃーで運ばれた。 自分が気持ち悪くなると、もうなにも考えられない。 どのようにこれを見るかとか、 どのように祈るかと

          命は失われると信じていることに気づかされる

          今年はトンボがたくさんいるように感じる。 しかも道路で休んでいるトンボが多いように感じる。 車道にはあまりいないように思うけど、 歩道にはたくさんいる。 なんで?? 今までは庭の柵の先端や草花の先端に止まっているのをよく見かけていたけれど、コンクリートの上で休んでいるのはあまり目にしなかったように思う。 もちろん今年も柵の上、草花の先端にも止まっている。 数が多いから止まりきれなくてってこと?? 「どうして地面に張り付いてるの?」 「地面だって暑いだろうにー」 「踏

          命は失われると信じていることに気づかされる

          キリストのビジョンで見たい

          一日の始まりと終わりに1分間程度座り、 真の自分を思い出す。 喜びと平安に満ちている真の私。 神の愛に安らいでいる真の私。 一日の間、ほんの少しのイライラや怒りの影を感じたら、 それをどう受け取ったらいいか、 どう反応したらいいかを、 静まってイエス、聖霊に聞く。 怒りは私と相手の誤りを強化し、真実から遠ざけてしまう。 それは望まないから、これをしっかりやりたいと思っている。 でもできない!! 一日の始めと終わりの1分間、横になってやろうとする。 すると知らぬ間に寝て

          犠牲

          行きたいときに、好きなお店に行きたい。 好きなお店で食べてみたいものを食べたい。 飲んでみたいものを飲みたい。 家では暑さ、寒さに耐えるのではなく、 快適に過ごしたい。 腰や足が痛くないようにソファに座りたい。 眠る部屋、作業する部屋、友人と過ごす部屋は別々にしたい。 誰かを気にせずシャワーを浴びたい。 冷たいものを冷たく、温かいものを温かく食べたい。 眠りたい時に眠りたい。 起きたい時に起きたい。 会いたいと言われればいつでも会えるようでありたい。 いつでも友人を家に迎