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裁いている。判断している。

私は瞬間瞬間、裁いている。
私は常に、判断している。


それに気づいてがっかりする。
もう裁きたくない、判断したくないと思う。
裁く心、判断できると思っている心を取り去ってくださいと
赦しをする。
それでもなお、私はいつも裁き、判断している。
がっかりして、自分を裁く。


自分を裁いていることに気づいて、
あ、違う、と気づく。


赦しをしてるのに、裁くことや判断することが止まない。
それは私の赦しが足りないのか、赦しの仕方が違うのかと考える。
この考え方こそ、私が判断していることだ。
私が赦しをすることで、手放していくという、自力の考え方だ。

赦しをしてるのにーーー
という自力。


いつ裁かなくなるか、判断しなくなるかは聖霊が知っている。
私は知らなくていいことだ。
必ず裁かなくなるし、判断もすべて聖霊に明け渡す。
それを信頼しているだけでいいんだ。

彼に必要なのは、どうすればそれに近づけるかを学ぶことだけであり、その方向に進もうという意欲をもつことだけである。それが彼に学ぶことのできるレッスンだと神の声が言うのなら、自分はそれを学べると、彼はただ信頼すればよい。
M-14.4.5-6

奇跡講座 中央アート出版


快適なところにいて、[心頭滅却すれば火もまた涼し]を思ってもわかるような気がするだけ。
暑いところに出れば、暑さに気分が揺らぐ。
凍えるところに出れば、寒さに心身が固くなる。
失えば立ち直るとは思えない悲しみに沈み、
理不尽さを受ければふつふつとした怒りが湧く。

経験するからその感情に気づく。
体験するからその思考のくせに気づく。
今まで何を信じてきたのかを知ることができる。
どれだけ心が抵抗していたのかを知ることができる。

心のブレや間違いに気づくなら、
それを聖霊に持っていけばいい。
聖霊は私が気づいた分、間違いを訂正し、取り去ってくれる。


それでも苦しくなったり嫌な気分になることは体験したくないなと思う。
やなことはやだ。

でもその苦しさや嫌だと思うことをどう見るのかを学ぶには、やっぱりそんな出来事が起きないとわからない。
いままでのように見たくなるところを、キリストのビジョンで見たらどう見えるかとイエスに聞く。
微かにビジョンが垣間見える気がする。
きっとこうして学んでいくんだろうな。


今日も裁いた。
朝から判断していた。

気づいた分、赦しをしよう。
そしてイエスに聞こう。


最後の一歩はみんなで行くんだ。
だれも先にいくことはなく、
だれも遅れることはない。
みんなでひとつなんだから。

焦ることも、卑下することも必要ない。
それぞれが、それぞれの場所で、
今順調に神への道を歩いている。


だから今、真に謙遜になって坐り、神があなたにさせようとすることならあなたにはできると悟りなさい。傲慢にも、あなたには神ご自身のカリキュラムを習得できないなどと言ってはならない。神の言葉はそうは言っていない。神の意志は行われる。
M-14.5.10-13

奇跡講座 中央アート出版

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