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【西武ライオンズ 今日の見どころ】カウントダウン「LEGEND GAME 2024」#16 伊東勤編

3月16日(土)に開催される、西武ライオンズ初のOB戦「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」まで、約1か月半となりました。

ここでは、出場が予定されているライオンズOBたちの、一味違った現役時代のエピソードや、玄人好みする記録などを紹介していきます。

伊東 勤(いとう・つとむ) 

捕手 右投げ・右打ち 1962年8月29日生まれ
ライオンズ在籍:82年~03年(選手)、2004~07年(監督)
通算成績:2379試合 6472打数 1738安打 打率.247 156本塁打 811打点
背番号:27(82~94年)、83(04~07年)

ライオンズ一筋の現役生活は22年。出場2379試合はライオンズ球団史上最多になる。日本シリーズに出場すること13回。通算70試合の出場数は王貞治(77試合)、柴田勲(73試合)に次ぐ、NPB歴代3位となる。西武ライオンズ黄金時代を代表する「扇の要」だ。

熊本工高では、のちにライオンズ入りする同級生の大津一洋とバッテリーを組む。3年夏の県大会の決勝では、八代高のエースだった秋山幸二から逆転2ラン。勝ち進んだ甲子園でもホームランを2本打ち、強打の捕手として注目される。

定時制に籍を置いていたため、卒業まではもう1年高校に通う必要があったなか、当時の根本陸夫監督は、伊東の後見人だった熊本県議を通して、所沢高の定時制に転校させる“荒業”に出る。

西武ライオンズの球団職員として採用された伊東は、選手の合宿所で生活。昼間は練習生として社業と野球の練習、夜は学業の1年間を過ごしたのちに、81年ドラフト会議で単独1位指名され、正式入団する。

大きな転機となったのが、83年読売ジャイアンツとの日本シリーズ。第3戦にサヨナラ負けをして、1勝2敗となったライオンズ首脳陣は、第4戦からプロ2年目の伊東をスタメンマスクに抜擢する。「流れを変えたかった」「リードが読まれていた」ことなどが理由と言われたが、チームはここから逆転日本一。まだ21歳だった伊東にとって、大きな経験と自信になる。

翌84年には、黒田正宏、大石友好といった先輩捕手をベンチに追いやり、113試合に出場する。シーズン規定打席に到達して、打率.283、10本塁打、20盗塁。「打てて走れる」新時代の捕手として、入団3年目に定位置をつかみ取った。

「黒田さんはライバルというより師匠。コーチから言われて納得できないことを、黒田さんに相談してアドバイスをもらったり…。僕は黒田さんに大きな影響を受けました」(ベースボールマガジン 18年7月号)

翌85年にはベストナイン、ダイヤモンドグラブを初受賞。年上の投手たちから、出したサインに首を振られなくなるまで、2~3年は掛かったというが、球界を代表するキャッチャーへと昇り詰めていく。

85年5月15日の南海ホークス戦で、死球を顔面に受けて鼻骨を骨折しながら、登録抹消することなく、わずか5日後に試合復帰。86年の日本シリーズ第6戦でも、投球が左頬を直撃して、試合中に救急車で搬送されたが、翌日の試合にはスタメン出場していた。

選手生活を送るなか、フロントは大宮龍男、中尾孝義、植田幸弘、中嶋聡などの実績あるベテラン捕手を補強。仲田秀司、垣内哲也、髙木大成、和田一浩といった新人捕手を、毎年のように獲得したのだが、伊東は生まれ持った身体の強さと「骨が折れていても、試合に出られるのは骨折ではない」とのハングリー精神で、一度奪ったポジションを明け渡さなかった。

工藤公康は「配球については、伊東さんを信じて投げていただけ。ライオンズにいたときは分からなかったけど、ホークスに移籍して自分でピッチングを組み立てるようになってから、伊東さんのスゴさが理解できた」と話している。

3シーズンに渡る1263守備機会連続無失策は、パ・リーグ捕手の最長記録。伊東みずから「誇れる」と語る通算305犠打もパ・リーグ歴代2位(NPB史上6位/23シーズン終了時点)になる。

バッティングでは、88年中日ドラゴンズとの日本シリーズ第5戦、延長11回裏に郭源治から打った、日本一を決めるサヨナラ右越えタイムリー。そして94年のシーズン開幕戦、近鉄バファローズ赤堀元之を打ち砕いた逆転サヨナラ満塁本塁打が、多くのライオンズファンの記憶に残っているだろう。

東尾修監督が退任した01年オフ、球団から次期監督の就任を要請されるが、「体力的にまだやれる。選手としてもう1度、優勝を味わいたい」と、これを固辞、総合コーチ兼任で現役を続行する。みずからの選択が正しかったことを証明するように、02年シーズンは118試合に出場、自身4年ぶりとなるベストナインに輝いた。

04年に監督就任。埼玉移転後に入団した選手のなかから誕生した、第1号監督だった。監督生活1年目にして、プレーオフから逆転進出した日本シリーズを制覇。ライオンズを12年ぶりの日本一に導いた。なお現役引退後、即就任した監督の率いるチームが日本一になるのは、NPB史上初めてのことだった。

就任4年目の07年シーズン終了後、26年ぶりのBクラス転落の引責をする形で退任。その後、韓国プロ野球の斗山ベアーズコーチ、第2回WBC侍ジャパンコーチ、千葉ロッテマリーンズ監督、中日ドラゴンズコーチを歴任する。2017年に野球殿堂入り。昨年3月、北九州市を拠点とする社会人の新設クラブチーム「ARC九州」の総監督に就任した。

監督退任時に、球団と軋轢が生じたとされ、このところライオンズと距離が空いていた感があった。それだけに今回の「LEGEND GAME」の参加が発表されたのは、ひじょうにうれしい驚きとなった。

伊東 勤 年度別成績

・主なタイトル 
 ベストナイン10回(85~88、90~92、97、98、02年)
 ゴールデングラブ賞 11回(85~88、90~92、94、95、97、98年)
 正力松太郎賞(04年)
 オールスター出場16回(84~98、02年) 

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