NovelJamを終える前に 〜1万字の意味と、キャラクターという名の球体〜

 久しぶりの更新がマリ日記でないことについては、関係各位、楽しみにされている読者諸君(どれくらいいるのかはまったく不明だけれど)に大変申し訳なく思っている。だが、「これはいまのうちに書いておかなければ後悔するぞ」という気持ちが、行きつけの銭湯で茹っているあいだにふつふつと湧き上がってきた。その勢いに任せて、明日の元気を犠牲にしながら書いている。

はじめに(という名のエクスキューズ)

 NovelJamという刺激から未だ醒めることができない。それはグランプリの発表を今週末に控えているからでもあるし、諸般の企画がまだまだ進行しているからでもあろう(いままさにやらなければならないのがマリ日記であるはずなのに。重ね重ね申し訳ない)。

 もう一つ、夢から醒めない理由があるとしたら、それはNovelJamという荒療治的なアウトプットの機会が、自分にとって大きな意味を持ちそうだ、という感覚があるからだ。創作に対する一つの指針が確固たるものになった気がする。それはNovelJamで自分がアウトプットをしただけでなく、同じ場で生まれたたくさんの作品たちという貴重なベンチマークがあってこそでもある。

 だからこそ、次から述べることは、NovelJamの感想の一つでもあるし、自分の備忘録でもある。わざわざNovelJamの名を借りることで他の参加者に見てもらう必要があるかと言われれば、100%イエスではない。だけどせっかくあのハードな3日を共にしたんだから、こんな話のひとつやふたつ、してみてもいいんじゃなかろうか。もっとフラットな参戦記は、また別に記すつもりだ。

 ただ、有り体に言えばこれは自分語りである。それも、周りと比較した上で「俺はこうだけどな〜(ヘラヘラ)」という、あまり好かれないであろうタイプの。

 それを言えるのは、グランプリ発表前の今しかないと踏んだ。グランプリの発表後ではもっと旗色が悪くなる。何の賞にも引っかからずにこんな不遜なことを言っても負け惜しみだし、逆に何かしら賜ってから言うのは完全に嫌味だ。

 まとめると、

・NJの終わりを目の前にしての感想と、自分にとっての小説の書き方に対する心構えや気づきが一致したのでこういうタイトルにしました
・全作品読んだ上で感じたことではありますが、他作品をこき下ろす意図がないということは言わせてください

ということである。(冗長な文章を書く癖は抜けないんだなあ りきを)

 では、以下本題。

1. 「1万字以内で書く」って、結構大事なことなんじゃない?

 NovelJam(以下、NJ)の全作品を読んだ。マリ日記で触れる形で全作品の感想を述べたかったこともあるし、NRF(読書会)のこともある。NRFには可能な限り参加して、読者目線と(僭越ながら)筆者・編集の目線を合わせて感想を直接申し上げた。いいところを探しながら読む、というのは、僻み症の私にとっていい訓練だった。

 ところで、NRFでよく出てきた感想にこんなものがあった。

「1万字に収めるにはもったいない設定だった」

 実にその通りだし、私自身も何度も口にした記憶がある。NJで生まれた作品の多くは、私には到底思いつかないような、キャラクターや世界を設定していた。

 白状すると、私は「当日のお題だけで面白い小説を書く」ことには一切自信がなかった。だから実は、あらかじめ話の枠組みだけは決めた上でNJに臨んでいた。箱は作っておいて、お題を料理して中身を埋めよう、というのが私の作戦だった。結局、「家」というお題だけでは到底膨らまず、編集・波野氏とのブレストなくしてセンコロを書き上げることはできなかったのだが。

 それゆえ、私はあの場で「家」というお題を見事に料理し、感想戦で「1万字に収めるにはもったいない」と言わしめるまでに世界を広げた著者諸氏にはまぎれもない敬意を抱いている。きっと自分にはできないことだろう。手ぶらで臨んでいたら、私なぞ箸にも棒にもかからない話しか書けず、いまごろ筆を執る自信すら失っていたかもしれない。

 しかし、である。敢えてそこに言いたいことがなければ、今日わざわざ寝る間も惜しんでこんな長ったらしい文を書こうとは思わないのだ。

 私がNJを受けて感じたのはこうだ──膨らませるだけ膨らませた設定を1万字で魅せきれないくらいなら、1万字で魅せることに注力するべきではなかったか。もっと言えば、「1万字という枠を軽視すべきでない」という考えは、NJの結果だけに限ったことではない。今後小説を書いていくなら、1万字で魅せる技術は必須になると、私は感じている。

 私は、自分の筆力では「全力で書いたらちょうど1万字に届かないくらいに収まりました」となることを薄々感じていた。そもそもSF作家やライトノベル作家のような発想力や瞬発は持ち合わせていないし、頭の中がいつもうるさくって文章を打ち込むのが遅い。

 だからこその戦略だ。どうせ1万字しか書けないなら、最初から1万字に収まるような箱を作った。あとは適度な起伏をつけてやる。それならなんとか戦えると割り切った。

 素晴らしい設定やプロットを即座に書ける才能がある人なら、それは存分に発揮すべきだ。だが、そういう人が、1万字というレギュレーションを「足枷」だと思ってしまったなら、それはあまりにもったいない

 NJ作品を1冊読むのにかかる時間、ひいては1万字弱の文章を読み切るのにかかる時間はおおよそ15分程度か。読書という営みがスキマ時間に行われるものになった今、これはちょうどいい分量ではないか。

 であれば、1万字前後で完結しようがしまいが、1万字で魅せることができなければ、読者に十分な読書体験を届けられないのではないか

 あるいは、こう言うこともできる。どんな長編も、最初の1万字のうちに読者を掴みきれなければ、それ以上の時間を割いてもらえるかはわからない

 1万字を5節連ねれば5万字、10節連ねれば10万字だ。中長編を書くにしても、1万字は読者にとっても著者にとってもわかりやすいチェックポイントとなるはずだと、私は思う。移動時間や休憩時間、寝る前といった15分に読まれ、やむを得ず一度閉じても「また読みたい」と思わせるためには、1万字というチェックポイントごとの完成度を高めることが重要なのではないだろうか。

 ゆえに私は考えた、「1万字で魅せる」訓練は必要だ、と。

 掌編と呼ばれるものがだいたい5000字だとして、そこには少なくともストーリー上の起伏が1つはあるはずだ。だから掌編が小説として成り立つのである。であれば、1万字前後で1〜2つの山場を作れるはずだ。逆に多すぎてもいけない。話がとっ散らかり、息切れしてしまう。

(ここでいう山場とは、ストーリーのグラフ化 https://www.technologyreview.jp/s/2859/data-mining-reveals-the-six-basic-emotional-arcs-of-storytelling/ を意識した言い方だ。ストーリーは細かな上昇と下降、ポジティブな展開とネガティブな展開を繰り返しながら、全体としてもまた上昇・下降、ネガポジの変化を見せる。ここでいう「細かな」変化もまた、ここにある類型と同じようであるべきだと考えている) 

 身も蓋もないことを言えば、NJにおける1万字という上限には、当日審査の合理化という役割が大きいだろう。当日審査員もまた極限状態だ。藤谷治先生が言った通り、アマチュアが短い時間で書いた文章を、審査員もまた短い時間で目を通して、優劣を判断しなければならないのだから。

 だが、実際の読書体験も審査員と大きな違いはない。15分程度の時間、1万字程度の分量でストーリーの良し悪しが判断されてしまうのであれば、それにコミットしていく必要がある。

 その意識が当日あったかどうかはともかく、あの日の審査結果を分けたのは、「1万字にコミットできたかどうか」だけだろう。私の付け焼き刃では本来太刀打ちできないはずの、魅力的な人物、プロット、世界が、NJにはあふれていたのだ。その結果がひっくりかえった要因を敢えて私が考えるとしたら、そこしかない。

 だからこそ、である。それだけの力がある著者が揃っていたのだから、「1万字じゃなあ」と諦めてしまうのはあまりにももったいなかった。

 こま切れな読書体験をいかに濃密にしてやれるか。そのために「1万字」というチェックポイントごとに丁寧にブラッシュアップする。これはNJに限らず、これからのすべての作品で意識すべきことなのかもしれないと、私は真剣に考えている。

 たとえば脚本家養成校の『シナリオ・センター』では、お題に合わせてペラ20枚(400字)の脚本を書く、というのが課題になっている。ペラ1枚が約1分の映像になるから、20枚あれば20分前後。30分枠のドラマやアニメなら、駆け足でやれば半分、長めにカメラを回せばちょうど1話に足りるか。この分量の中でしっかりドラマを描けば、1時間以上のドラマや映画だろうが連続シリーズだろうが面白いホンを書けるようになる、という理屈だ。

 これはNJの1万字というレギュレーションと非常に似ている。「ここまでに一山作らないと読者/視聴者は離脱するだろう」という区切りに対する感覚が養われるだろう。したがって、1万字前後のストーリーを積み重ねる訓練は、素晴らしい人物や世界の設定を、素晴らしいままに伝えることを実現するための武器として返ってくるはずだ。

 すっかり私の方がとっ散らかってしまったが、要はタイトルの通りだ。

1万字で書く訓練って、実は結構大事なんじゃない?

と、いうことである。

2. キャラクターは球体だ

 さて、これだけ語ってもまだ2つめのサブタイトルに追いつかなかった。ようやく回収だ。

 ところで繰り返すが、これはあくまで西河理貴自身が自身のために書くメモだと思っていただきたい。それこそNJが初めての実績らしい実績で、舞い上がっているだけの駆け出しが、ようやく気づいた創作論の切れ端を、いつか自分が忘れてしまわないように書き記しておくものだ。ただ、もしも誰かがたまたま目にしたときに、その人にとって参考になるようなら幸いだと思って、人目に触れる場所にメモしておくだけのことである。

 で、キャラクターは球体なのである。これを敢えていま言うのは、先述の通り「1万字で魅せる訓練」と密接に関わる考えだと思っているからだ。

 とにもかくにも、ストーリーとはキャラクターの言動である。仮に人でなかったとしても、意思を持って動く存在があってはじめてストーリーは動く。人の動きにストーリーが着いてくる、と言っても過言ではないだろう。

 だから、ストーリーの大前提は「どういうキャラクターがいて」「そのキャラクターをどう表すか」、たったそれだけだ。説明的な文章を挟むタイミングについて、いつになっても侃侃諤諤の議論が交わされるのはひとえにそれが理由だ──説明でストーリーが動くことはない。だが、説明の必要な世界もある。このあたりもまだまだ細かい話ができそうだが、現状まとまっていないので、ここではキャラクターの表し方に絞ろう。

 キャラクターの設定は密であれば密であるほどいい、と私は考えている。名前や性別はもちろん、顔立ち、身体つき、性格、年齢、生い立ち、友人関係、家族、仕事、専攻、部活動、そしていま現在どういう状況にあるのか、などなど。

このあたりは巷の教則本的なやつのキャラクターシートでも参考にすればいいと思うし、本によっては「キャラクターの履歴書を書いてみろ」とも言っている。一理ある。所感としては、マーケティング用語でいうところのペルソナに倣うのもありだ。リアルな人物造形のためには、ぱっと見では使うかどうかわからない設定もつけておくに越したことはない。

 そうして完成したキャラクターは球の形をしている。は? 人間じゃねーのかよ。いや、ここでは球だと考えてみる。

 設定を全て使う必要はないのだ。それこそ説明的になる。説明せずに、行動で語れるならその方がいい。そのために、必要な部分を切り取ってみる。

 キャラクターを球だと考える。もっと言えば、惑星をイメージする。表面は地表の色と大気の流れが混じって模様をなしている。地殻を潜れば、マントルがあり、核があるはずだ。これをいろんな角度で切り取り、いろんな角度で眺めてみる。イメージは、教科書に見る太陽系惑星の断面図だ。

 地殻は外ヅラ。マントルは地殻に隠れて中にうずまく、感情や記憶。さらに内側にある核は、その人の信念や本性だ。これらをどこまで深く切り出す? 脇役なら、サッと地表だけさらうだけでもいいわけだ。メインを張る人物なら、真っ二つに切るなり、MRIみたいに真ん中を輪切りにするなりして、核を取り出してあげていい。それぞれちがった見せ方になるはずだ。

 球体を斜めに切り出して、その真上から眺めれば、見た目は楕円になる。真球の断面は真円であるはずなのに、見せ方によっては楕円にもなるということだ。人物描写に言い換えれば、「悪人の善な部分を見せる」のではなく、「悪人を善人に仕立て上げる」というようなことだ。前者は切り口の問題で、後者は切り口の見せ方の問題だ。

 小説、シナリオとはこういうパズルだ。すなわち──ストーリーといういくつかの箱があり、それをいくつかの球で埋めなければならない。ただし、箱は明らかに球に対して小さい。球は自由に切り分けて良い。箱を壊さず、かつなるべく箱をいっぱいに満たすように、球を切り分けた要素で埋めていく──という。箱(ストーリー)自体が球の切り分け方を指定してくれることもあれば、要素が有機的に結びついて真新しい箱(ストーリー)を生み出してくれることもある。短編なら1万字の箱を1つ2つ完成させれば良いが、もし長編が書きたかったら、その分何十個という箱に詰められるように、より大きく、より多くの球を用意する必要があるだろう。

 あくまで「キャラクターという球体」は、物語を抽象化するための方便である。キャラクターは、作者の頭の中では確実にありのままの形で動いている。「1万字で魅せる」という目的を持ってストーリーを構成するための思考法と思えばよい。

 NJの話をすれば、確かに拙作は、他作品に比べると小さく、少ない球から成り立っている。登場人物は2人だけ、それも年の近い女子大生だ。だが、それでも1万字の箱にめいっぱい詰めるために、切り落としたり詰め方を工夫したりした。たとえば2人の地元はどのあたりで、都内の芸大はだいたいどこらへんにあって、どういう授業を受けているとか。明かされていない、語り部のMAYUの本名とか、2人の名前の由来とか。決めるだけ決めて、結局使わなかった。必要なかったからだ。

 などと言うと格好がつくが、実際のところ、NJでもオチのために球を継ぎ足し継ぎ足し大きくする羽目になっている。キャラクター造形があやふやなまま書き始める悪癖に対する戒めとしても、この記事を書き切った意義がある。

 こんなところで今回は終わりにしよう。まとめとしては次の通りだ。ここでは球や惑星に例えたが、

キャラクターはそのまま人や生き物としてとらえるのではなく、切り口によって見た目が変わる幾何学的な存在だと考える

ということを、自分なりのTipsとしてここに記す。

(書き切ってから、積み木とか料理とかもっとわかりやすい例えがあった気がするなあと後悔する。「小説とは料理である」は、ググったら『なろう』に同名の文章が存在したため、宗教的理由でボツにしたが)

終わりだ終わり

 これはあくまで自分のメモであるから(何度めかのエクスキューズ)、ときたま見返して若さや睡眠不足ゆえの過ちを見かけたらこっそり直してもよいだろう。御意見・御感想、文句、自分なりの創作論など、コメントでもリプライでも自由にいただければ幸いである。

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