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たまたま読んだ本029 「ひとくち哲学」 134のよく生きるヒント人生の悩み。代わりに悩んで答えを出す。哲学は楽しい?


ひとくち哲学


哲学と聞くと、自分には関係ない。小難しい言い回しや理屈にうんざりする。と、敬遠するのはよく分かる。どうしてこんな言い回しをするのか。何をぐちゃぐちゃと理屈をこねているのか、どうでもよいことをどうしてそんなに真剣に考えるのか?などなど、哲学に関してあまりいいイメージはないようだ。

同書は、哲学を分かりよく体系的に説明したいわゆる哲学の入門書ではない。古今東西、いわゆる哲学者の言葉を、10のテーマに分けて134の状況というか考え方を紹介している。人間として生きる人生の悩みや生き方など、哲学者が悩み抜いた結果、出した答えが詰まっている。

もともと哲学の英語「フィロソフィー」の語源は古典ギリシア語に由来し、意味は「知を愛する」である。当然、自然科学も含まれていたのだが、19世紀以降急速に発展し哲学から離れ、現在は主に美学、倫理学、認識論の3つで語られる。
著者も哲学は共感できるものでなくてはならない。実践的で、読んでわかりやすい、身近な存在でなければならない。そして何よりも、楽しくあるべきなのだと言ってるように、同書では、小難しい内容も含まれるが、概ね人生を生きる上でヒントになる考え方や言葉が数多く紹介されており、いわゆる哲学敬遠者にも「なるほど」と思える参考になる内容が多い。

その例を紹介すると、まず、魔法の指輪
そう、はめると持ち主が見えなくなる指輪。指輪物語という小説や映画にもあった、プラトンがキュゲスの指輪と呼んでいるモノと同じだが意味は違う。人は見られていると正しい行いをする。私たちをまっとうたらしめるものはただ一つ、他者が下す判断なのだ。正義は常に執行され、透明性がなければならない。国家機密、企業の言い込れ、政治家かいう聞こえのいい嘘は、本人が知っている以上に、もうすでに誰かに知られている?

優秀さとは単発の行動ではなく、習慣である
優しくなりたければ、人に優しくする行為を積み重ねるだけだ 。寛大な心をもちたければ、寛大な人のまねをする。行動すれば、自分もそうなる。アリストテレスはこう説いた。「人は繰り返し行う行動によってつくられる」
天才は、努力の結果だといわれている。  

自分の外の世界に思いやり
真の満足は、貪欲で気まぐれな自分の欲望しか眼中にない自己を否定し、自分以外の誰かや何かのために生きられるかどうかにかかっている。コントはこう利他主義を説く。
利他主義は人のためならず、回りまわって自分のためになる。

自分のしたことで誰かを責める
実存主義のサルトルは、これを自己欺瞞という。おおいに怒り、思い悩み、悪態をつけるはいい、ただし怒りをぶつける先は自分自身だけ。この瞬間を選んだのはあなたなのだから。あなたがこの人生を選んだのだから。
人のせいにする人間は、すでに皆に知られていることを知るべし。

死を思って生きる
ハイデガーは、今日のあなたの選択は後にも先にも一度きりだ。だからこそ、それだけ価値あるものにしなければならないのだ。という。
死ぬほど努力して、初めて得られるものがある。

あまりにもひどい状況
自分ではお手上げなくらいに悲惨だったりすると、もう笑って受け人れるしかない、するとすべてがいとおしく思えてくる。アルベール・カミュはこれを不条理と呼んだ。不条理は、それを認め受け人れれは、上等じゃないかと率直にほがらかに笑い飛ばせば、あらためて人生を肯定し幸せに生きることさえできる。
不条理が続く不条理にも笑い飛ばす能力がいる。

わが身に起きたことを愛すべきなのだ
楽しいこと、うれしいことと同様、つらいこと、苦しいことにもあてはまる。そうしたすべてが唯一無二の人としての経験なのだから、すべてを愛さなければならない。過ちや失敗にも、それを乗り越えてきたのだから誇りをもつべきだ。過ちや大敗とともにそれがあるゆえに、われわれは存在しているのだから。ニーチェは、あなたの人生を明確に前向きに肯定する概念なのだ。運命を愛すべし。と説く。
運命を愛すことはよし、だがいつも最大限の努力なしには愛せない。

高尚な力につかまれた状態
ほかの誰でもない、自分にとって正しいと感じる行動をとらずにいられない気持ちになる。ただそうしなければならないからするだけで、誰にも、身近な大切な人にも、理解してもらおうとは思わない。こうしてまったくの一人の個人として、強い信念に突き動かされた行動をとることを、キルケゴールはもっとも深遠で偉大な人間の生きかたととらえた。それは自分自身のみが知っていて、抽象論では決して理解も検証もできないのだ。
誰も理解しえない独りよがりの行動は時には迷惑である。

アイデンティティと自己意識を形成
私たちはほかの人々やものとのかかわりの中でしか自分をとらえられないとへーゲルは考えた。一人の人であるためには、人として認識される必要がある。人は誰も抽象概念の中で生きているわけではない。人とのかかわりあいがなければ、私たちの存在は意味をなさない。子、友、同国人、人間などから分離した自分は存在しない。人は関係によって定義される。私たちはみな同じ船に乗っているのだ。
核家族、孤独の時代を生きる現代日本、利用されるだけの関係は早く見限るべきかも。

自らそのようになる
人は自己のアイデンティティ(自分が自分をどう見るか)と社会に向けたアイデンティティ(自分をどう見られたいか)の両方を形成するのだ.ボーヴォワールはこの考察を女性のありかたにもあてはめた。それが有名な一節「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」だ。
社会がどれほどまでに「女性像」のステレオタイプをつくりあげているのかを知って初めて、自分たち自身がいかにそれを享受、あるいは投影しているのかがわかる。みんなかそれそれの役割をみごとに演じているのだ。
ステレオタイプに合わせようとするのは時には楽だが、結局は縛られる。

人種を超えた人間の普遍的な不安
ファノンは、白人と黒人が同等である前堤には立っていない。自己実現に関しては階層があるのだ。白人もどうすれば本当の自分になれるかと悩むかもしれない。一方黒人はそんなことで思い悩める身分になりたいと願う。人種による差別が存住する社会では、黒人であることは実存にかかわる不安を抱く能力さえ否定されるのだ。
優越者には、差別される対象を理解できるようで体感的には不可能かも。

完全でないからこその美
完全ではないもの、はかないものに目をとめ、そこに価値を見いだすのがわび・さびの心だが、そうしたものに心を寄せて共感し、自分自身もはかなさの一部であるととらえることも含まれる。厳密には物自体がわび・さびなのではなく、物体が私たちからその美意識を引き出すといえはいいだろうか。
森羅万象はいずれ色あせ、傷を受け、枯れ、衰えゆくのであり、わび・さびはそれをあらゆるものに見出す精神なのだ、
永遠に続くものも、完成されたものも、完璧なものも存在しない。
万物は滅びゆく。滅びゆくものに美や哀れが呼び起こされるはなぜか。

間、空白のもつ意味
間(ま)は切り離されたもの同士のあいだに配した空間で、間があってこそ両者は存在でき、成り立つ。デザインの世界なら、二つの形のあいだに挟んだ空白を指す。間がよしとされるのは、空白や沈黙そのものに大きな力があることを理解しているからこそ。会話というものは、自分はいったん黙って相手の話に耳をけるのが一番だ。聞いたことを受け止め、じっくり考える時間をとれればさらにいい。
デザイン、文章、対話、スピーチなど、すべてに間が重要な働きをする。間はこころの余裕だ。

社会と人間関係
人はほかの人とともに生きるからこそ人間なのだ。アリストテレス。
人は一人で生きていけない社会的動物だった。

純愛
純愛とは盲目の愛ではなく、むしろ鋭く本質を見抜いているものだ。見かけに惑わされず、その奥を見抜いている。流浪する二つの魂 がともに受容しあい、交わることなのだ。プラトン。
心が通じる関係になれば、見かけに左右されずに魂は触れ合う。

親が子に与える愛情
人間は初めから「自分が存在できるのはほとんどが他の人のおかげ」であると学び、人とのかかわりを避けてまったくの一人で生きたり、他者の痛みや喜びに一切関心を払わずに生きたりすることはできないと知る。人は人生でまず、困ったら人が助けてくれるのだと学ぶ。だからこそ私たちは自然に周囲に順応するし、思いやりや倫理観、優しさはみなこうして愛情に支えられた幼少時の体験から芽生える。
 愛情が愛情を形成し、人の優しさが心優しい人をつくる。のびのびとして幸福な、道徳観を備え調和のとれた人間には、親の心くばりが欠かせない。ソフィ ー ・ド・コンドルセ
好きだと思えば徐々に好きになり、嫌いだと思えば徐々に嫌いになる。

人のよい部分に目を向ける
マードックは説く。期待と愛情をもって相手に「注意を向けえる」のだ。
よいところに注目する。過ちなどおかさない、生まれながら内面に善を備えた人なのだと思って接する。その人ができることに目を向けるのだ。
関心を持てば、態度に出る。関心が好意をもたらすのかもしれない。

二重意識
デュボイスは、生まれ育った場所に居場所がなく、自国なのに疎外される。多数派である白人から審利を下され、存在を定義される。その結果「(黒人は)常に他の目を通して自己を見る」感覚を抱いているという。
差別する多数者は、差別される少数者の感覚に思いはせる余裕が必要かも。

人と人との結びつきを築くふるまい
儒教では世界には(天地万物を含む世界、世俗的な世界ともに)秩序があるととらえ、人が充足感を得るためにはそれを認めるのみならす、実現し維持するための実践が必要であると説く。この秩序が人と人とのあらゆる関係を築く。この人間同士の関係に対してなされる、よき行いをつかさどるのが礼だ。孔子。
人が人としての礼をかく行為は、本人以外、皆分かっているようだ。

差異だけでなく、共通項にこそ目を向ける
ーつめは、すべての人は自分以外の人間に対して道義的責任をもつこと。道義的に無関係な人間は一人もいない。言い換えれば、われわれはみな、たとえ遠く離れていたりわずかであったりしても、互いになんらかの義務を有する。
二つめは、違いは大切であること。人間であることにおいて多様性は重要だ。私たちが抱く文化の感覚は精神面で重要だが、それは「文化そのものが重要たからではなく、人間が重要であり、人間にとって文化が重要だから」だ。
「人は自分らしく生きていい、ただしその過程において他を侮辱したり搾取したりしなければ」だ。共通し重なり合う部分のあるアイデンテイティにもっと目を向ければ、他者の気持ちを理解し思いやるために必要な連帯と協調をつくり出せるはずだ。これこそがコスモポリタンたる意義たとアッピアはいう。
人は、いや国家はなぜ戦争を起こすのか?誰が人の殺害を許容するのか?
そして誰が、どのような責任を取るのか?死んだ者は生き返らない。

信仰
フロイトからすれば、信仰する人々の多くが人生の無慈悲に対するなぐさめとして宗教をとらえている事実は揺るがない。
人間だけにある宗教。人が作り出した心のよりどころが、人を縛り教唆扇動する。

神の存在に賭ける
神がいる方に賭ければいいではないか。 どちらにしてもその方が得だろう。信仰をもっていると現実の世界でも思恵があるとパスカルが考えていた点だ。生きている幸福感が得られたり、居場所があると思えたりすることを指す。「本物になるまでそのふりをすればいい」。礼拝にあずかったり祈りを唱えたりして、自分は信仰をもっているんだというふりをしていれば、いずれそれがあたりまえになり信仰か身につくという。
パスカルの時代には宗教2世の問題はなかったようだ。

苦しさに意味を見出す
オ一ストリアの精神医字者で心理学者であり、アウシュヴィッツの強制収容所を生き延びたヴィクトール・フランクルは「夜と霧」で、人がなぜ耐え抜くことができるのかについて思索を深めた。
人間は意味を見いだせばどんな苦しみも耐えられる、とフランクルは説ぐ。もうこれ以上は無理だと思う地点に達するのは、この先へ進む理由が見い出せなくなったときだ。ニーチェの言を借りれば「なぜ生きるかを知っている者は、ほぼどんな『どう生きるか』にも耐えられる」のだ。逆境をはね返す不屈の力が人を偉大にする。
人間が生きる意味は、逆境でこそ、その真価が問われる。

ゲームに勝つための兵法
第一の教えに、どんな状況にも確実に通じる戦略は存在せず、戦術は置かれた状況に即して応用せねばならない。
第二は作戦を首尾よく進めるための計略について、計画はゆめゆめ外に漏らさず、敵の目を常にくらますこど。
第三に、戦闘はしない方がいい、人生と同じく、戦いでも、強引な手法や暴力の行使は最終的かつもっとも効果的でない手段だ。「孫子」は説く。「最高の兵法は戦わずして敵を屈服させることである」。
今やフェイクニュースなどITを駆使した心理戦に大衆が躍る脅威の時代だ。

哲学には、遠い過去から続く先人たちの苦悩の結果が凝縮されている。生きることに悩んだりしたときや判断できないことに直面したときなどに、哲学の素養がある人とない人ではその対応に違いが出るであろう。まずは手ごろな同書と勧めたいが、決して安易な内容ばかりではないので心して臨むほうがよいだろう。

ひとくち哲学 134の「よく生きるヒント」

出版社:早川書房
発売日:2023年3月23日
頁 数:368頁
定 価:2,805円(税込)

著者プロフィール
ジョニー・トムソン, Jonny Thomson
イギリス・オックスフォードで哲学を教える。学生との対話と、哲学書を読むことへのややマゾヒスティックな執着から生まれた人気のインスタグラムアカウントMini Philosophyを持つことでも知られる。哲学以外にも、生命の起源、言語学、発達心理学、タイムパラドックス、精神分析、古典小説や詩の分析など幅広いテーマについて執筆を行っている。『ひとくち哲学―134の「よく生きるヒント」』が初の著書

翻訳
石垣賀子[イシガキノリコ]
翻訳者。静岡県生まれ。立命館大学産業社会学部、ウィスコンシン大学(英語言語学専攻)卒業
訳書にランディン、ポール&クリステンセン『フイッシュ!〔アップデート版〕」(共訳)、フォスリエン&ダフィー「のびのひ働く技術」、マルティネス「サルたちの狂宴 上・下」(以上早川書房刊)ほか。

トップ写真:陽を受ける山茶花

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