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読んだ本 闇を泳ぐ

闇を泳ぐ 木村敬一 ミライカナイ

 水泳にハマって、水の中での自分の身体の感覚や動かし方にフォーカスするようになり、パラ競泳に興味が湧いてきた。以前パラリンピックの競泳競技をテレビで見た時に、身体の特性に合わせた、使い方があり、おもしろいなぁと興味深くみていたことを思い出した。「目の見えない状態で泳ぐってどういう世界なんだろう・・?」という興味から、この本が目に入った。
 スポーツ選手の自伝に対しては、「自身の精神論、成功哲学をドヤ顔で語る」本という勝手なイメージをもっていて、全く読もうと思ってこなかった。さらに、「障害者スポーツ」になると、「努力の素晴らしさ、愛や希望」に溢れた、「愛は地球を救う的な涙を誘う」本のように仕立て上げられているんじゃないかと思っていた・・。が、めっちゃ面白い本だった。
私は、「目の見えない人にとっての競技の世界、泳ぐとはどういう感覚なのか」 について知りたくて、著書の言葉に触れてみようと思った。「目の見えない人は世界をどう見ているのか」(伊藤亜紗・光文社新書)が、「障害者」と「社会」との間に無自覚にある捉え方を示し、そして、新しい捉え方を提示している。

主体が周囲の事物にどのような意味を与え、それがどのような環世界を作り出しているのか。本書は、そうした「意味」を切り口として、見えない人と関わっていこうとするものです。それは、探求の方法であると同時に、見えない人と見える人の関わり方の提案でもあります。というのは、見える人が見えない人に対してとる態度は、一般的にはどうしても「情報」ベースになりがちだからです。そこに「意味」ベースの関わりも追加していきたい、という意図が本書にはあります。「情報」ベースの関わりとは何か。乱暴に図式化してしまえば、それは福祉的な関係です。見える人が見えない人に必要な情報を与え、サポートしてあげる。見える人が見えない人を助けるという関係がこの福祉的な発想の根本にはあります。

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」P35より

 目の見える人の世界の方が圧倒的に情報量が多く、目の見えない人は、情報量が少ない、だからその差を埋めるべきである。「情報の過多」で捉えるのが「情報ベース」。福祉的な視点は情報の差に目を向け、情報に差があれば、それはよくないことと評価し、その差をなくそうとする発想になる。
 「情報ベース」の捉え方以外に、「意味ベース」という新しい捉え方をしようとしている。目の見えない人の世界の認識の仕方と、目が見える人のそれは違う。世界にあるものの「意味」も異なってくるというのが「意味ベース」の関わりということ。
「意味ベース」とは具体的にどういうことなのか?

例えば、本の中で紹介されていたエピソード。
著者は、グルメ情報を仕入れ、牛タンを食べに行こう!とした。
電話で確認すると、「駅前のロータリーを抜けたところにある、マクドナルドが入ったビルの6階」と分かった。マクドナルドのの場所は知っているから、楽勝なはず。
お店に入る、肉の匂いもする、間違いない。
牛タン定食を頼むと、お店の人は、「夜は定食をやっていない」
「単品で牛タンをご注文いただき、ライスをつけて定食にできますよ」という。よくわからない・・。
「牛タン定食のお店は向かいのお店」と言われた時に、お店は、「牛タン定食のお店」ではなく、「焼肉屋」に入っていたということだった!

目の見えない人にとって、目当ての牛タン屋に入るために必要な印は、「マクドナルド」。マクドナルドさえわかれば、お店に行けるはずが、そうではなかったというお話。ここで、福祉の視点からこのエピソードを捉えると、「もっと視覚障害者が好きなようにお店に行ける世界にするべきである!」と発想するところだが、〝まぁちょっと待て〟というのが、「意味ベース」の捉え方である。まざまな情報(風景や音や匂いや触覚)の中で人は生きているが、目の見えない人が取り出す情報の意味づけは違うということにまずは、眼を向ける。そこから、新しい対話や理解や発見が生まれるのでは?という視点だ。

私が、障害者の表現活動やスポーツについての自伝やルポに、「障害があるにもかかわらず、こんなに頑張っているというメッセージ臭」を感じるようになったのは、世の中に溢れている「情報ベース」の関わり方、意図で、編集された多くのメディアに触れてきたからだと思う。ある1人のパラ競泳選手はどのように世界を感知しているのか。私は、この本を、その感覚世界を著者と会話しながら知るようなスタンスで読んでいた。パラ競泳の中でも、身体障害の色々なクラスの人にとってはどうなんだろう?とか、どのように技術を習得するのかといったことに更に興味が湧いた。

視覚に障害がある時の泳げるようになるプロセスにも興味が沸いた。「基本的にもともと目が見えていた選手の方が早く泳げるし・・」というくだりが出てきて、そうなの?!「見える」ということがどう運動機能に関係するんだろうか。

 視覚障害×青眼者との違いだけでなく、さらに、海外と日本の文化の違いもあると知った。競泳の視覚障害者のクラスでは、ターンやゴールタッチの時に、プールサイドから柔らかい棒で頭や背中をたたいてもらう。それで、壁が迫っていることを知らせてもらう。それを「タッピング」という。著者は、日本では練習の時に慣れた人にタッピングしてもらっていたのが、練習拠点を移したアメリカでは、試合のたびに、そこらへんの近所のおじいちゃん的な人がタッピングしていたり、また、練習の時には必ずいなかったりすることに戸惑う。プールのスタート地点とターン地点の両方にホースを設置して、スプリンクラーのような強めの水飛沫を上から浴びるのを合図にしており、息継ぎをするタイミングで大量に水を飲む・・・恐ろしすぎる・・!!視覚障害の水泳や国ごとにも違う文化性の違いが面白ろくて、これって研究している人っているのかなぁ、もっと知りたいなぁと思った。


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