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何者にもなれなかった全ての人へ

いきなりですが、あなたは何者かになろうと無理してがんばったことはありますか?

私には、あります。

どう生きるか分からなくなった

今年で32歳になり、結婚して子どもも生まれて父となったわたしは、この歳になって自分がどう生きたいのか分からなくなりました。何者にもなりきれない自分を許せずに絶望して鬱になり、自分の存在価値が分からなくなるほど自己否定に陥りました。

20代の頃のわたしは何者かになろうと奮闘しては挫折するのを繰り返していました。それでも自分の好きなように生きてきた方だと思います。

新卒で入った会社をたったの5ヶ月でやめて、東京の雑居ビルでシェアハウスならぬシェアビルしたり、京都から沖縄まで無一文で旅したり、中国を半年かけて徒歩横断したり、インド放浪したり、モバイルハウスを作ったりしました。純粋にやってみたい!と思いついたことをやってきた反面、いつもどこかで何者かにならなきゃいけないという強迫観念に悩まされてました。

自分を縛る檻(社会の常識や固定概念)から自由になろうと色々もがいてみたけど、そもそも自分の根底にへばりついた“思い込み”(何者かにならなきゃいけない)に惑わされて自由になるどころか結果的に自分を縛りつけていました。
どうやら自由への道は、外的要因ではなく自分の心の奥底にある不安や恐れと対峙することだと悟りました。

何者でもないわたしの履歴

大学生のとき就活で自己分析をせざるを得なくなるまで自分とちゃんと向き合わずに人生をごまかして生きてきました。

幼少期の早い時期から大人の目を気にして取り繕って空気を読むようになり、小学生のときには別に勉強が好きでもないのに流行りの中学受験のために塾へ通いはじめ、親に褒められたいがために自分では一切勉強せずカンニングしてテストの点をごまかして全国模試で確か14位を取ったこともあります。もちろん、受験本番ではカンニングが通用するはずもなく見事受験した中学校には全部落ちてしまうも親に本当の自分を打ち明けることはできませんでした。

補欠で合格した中高一貫の全寮制の学校に入れたもののたいした努力もせずただレールにのって進学する先に待ち受けている大学受験とその後サラリーマンになるありきたりな普通の人生が嫌で、日本の高校を中退しアメリカに単身留学させてもらうも、勉強嫌いは変わらず誤魔化しごまかしで大学卒業までこぎつけるのでやっとでした。

ところが、大学3年のとき一年後に卒業を控えていよいよ自分で考えて決めないともうこの先に人生のレールがないところまで追い詰められてようやく自分はどう生きたいのかと真剣に自問自答するようになりました。

就活のために人生はじめての自己分析は思いのほか楽しいもので、自分とはなにか、この世界とはなにか、と今までのように誰かに教えられたものではなく自分の頭で考えて自分なりに物事を再定義していくと今まで見えていた世界がガラッと音を立てるほど大きく見える世界が変わりました。それから自分の思考をできるかぎり解放して、自分という存在から宇宙の果てまで思いを馳せるとある真実にたどり着きました。

この世界はすべてがどこかでつながっている
という全体意識が自分の中に目覚めます。

この意識が目覚めてから、それまで特に興味がなかった色んなことに関心が芽生えて、これまで無駄に生きて過ごしてきた分をとり返そうと自分の人生をかけて成し遂げたいことはなんだろうかと考えました。いま地球規模で起きている様々な問題(地球温暖化、環境破壊、貧困、経済格差など…)の根源はなんだろうかという問いに対して、それは人間の生き方(人間集合体の社会システム)であるいう結論に至りました。そして、まずは一番身近な人間である自分の生き方をアップデートしていこうと心に決め、生きる実験家と名乗るようになります。

しかし、自分の生き方を模索するようになって、ある程度の体験と経験を積んで何者かになりかけた私は「何者かになることを目指す生き方」に限界を感じて、長年抱えてきた思い込みと執着を手放すことにしました。

何者かになろうとする呪縛

鬱になり絶望して自分がどう生きたいか分からなくなるほど追いつめられてまで、なぜこれほど何者かになろうと執着したのか。それは、自分に自信がもてなかったからだと思います。長いこと人生をごまかして生きてきてしまった自分に対して罪悪感を感じて、いつも心のどこかで優れた他者と自分を比較しては劣等感を抱き、自分の価値を測る尺度を外に委ねて何者かになれれば誰かに認められて承認されることで自分の自信のなさを払拭しようとしてました。

何者かになろうとする呪縛は、学校や社会はたまた親から譲り受けた長年のすり込みが心の奥深くで業となって自分を苦しめてました。学校では成績で常に比べられ、社会ではどれだけいい会社に入って、どれだけ多くお金を稼げるかで人間の存在価値を測られているような気になります。

ありのままのオンリーワンでいることより、競争の中で勝ちとるナンバーワンこそが優れていて価値あると教育を通して叩きこまれます。やっとの思いで一流企業に就職できたとき母親に言われた一言は今でも忘れられません。「わたしが勤めてる会社の方があなたの会社より給料がいいわ」キャリアウーマンでナンバーワン主義の母親が悪気なく放ったこの一言で、自分を殺してあなたに認められようとここまでやってきたけどもうこれ以上自分を偽るのは無理だと諦めるきっかけになりました。

子どもなら誰しも親から愛されたい、認められたいと思う生き物だと思いますが、わたしの場合は親から認められることはなくても、レールを外れて好き勝手に生きる自分を許してくれてどう生きようが愛されていることはとても幸運なことだと感謝してます。

何者でもない自分を許す

わたしは何者にもなれなかった。でも言い方を変えれば、それは何者かになろうとする生き方をやめたのだと言えます。長年の思い込みと執着から自由になりはじめた証拠だと思います。

ほんとはすべて許されている。好きなことして生きようが、好きなことなかろうが、やりたいことはやっていいし、やりたくないことはやらなくてもいい。
そうだ、ありのままの自分をさらけ出して生きてもいいんだ。そもそもどう生きようが自由で、すべては最初から許されていたんだと気づいたとき、やっと何者でもない自分を許せました。これまで何者かになるために培ってきたアイデンティティーを手放して、何者にもなりきれなかった自分を許せるようになるには一年近くかかりました。

長年の思い込みのパターンに気づき、自分を苦しめていた何者かになろうとする生き方をやめて、ありのままの自分を生きるのはシンプルではありますが簡単なことではありません。何者でもない無垢な自分との対話ははじまったばかりです。

好きなことをして生きてもいいし、好きじゃないことをしないで生きてもいい。それほど好きなことがなくて、やりたいことが見つからず何もしないのは飽きたので、いまは嫌じゃないことからはじめてみてます。どう生きようが、すべては許されている。あとは自分次第なのだと今はそう思います。

人生は他の誰でもないわたし自身の道だから。


生きる実験はつづく