【エッセイ】秋夜に貴方を思い出す
今日から急に夜が寒くなった。鋭い寒さが胸に刺さり、心身を冷やす。
秋は豊穣の季節なのに、先人が秋を物憂げに詠む気持ちがよくわかる。
私が人生で一番季節に敏感だったのは、自然に囲まれて生きている今じゃなくて、京都で暮らしていた高校時代だったろう。
コンクリート打ちっぱなしの教室で過ごした三年間。仏教課の授業は6時間目や7時間目だった。
放課後。
まだ4時間目や5時間目と同じ空で授業を受ける時季もある。阿育王も龍樹も天親も竺法護も仏図澄も道安も鳩摩羅什も、まだ教科書の中にいた。
季節により灰色の壁がオレンジ色に染まる。先生の伽陀の声明も西陽に照らされて目に映る。あの子の茶色がかった髪の輪郭が、黄金の線でなぞったように光っていた時、私は世にこんなに美しいものがあるのかと思った。
すっかり日が暮れるのが早くなって、窓の外は真っ暗で、室内灯だけ煌々とする冬。報恩講の次第を学び、白い息を吐きながら仲間と帰路につく。各々の防寒具。服装に縛りがある高校生にとって、マフラーひとつがオシャレの見せ所だった。寮にて夕事勤行の後、あたたかな夕餉をいただく。仏間ではストーブが香り、仏教談義に花を咲かした。
私の仏道の始発駅は、青くて淡くてほろ苦い。
「放課後」という、一種の魔法や幻のような、今はなき時間帯。大人になって好きなときに好きな場所へどこへでも行けるが、あの頃のように、些細なことにワクワクドキドキしていた気持ちも、何かを本気で欲しがったり、成し遂げたいと思っていた燃える思いも、今や失ってしまった。
片想いと友情と信心と諸々の事象。そこに日の入り時刻や気温や服装は、欠かすことの出来ない舞台装置だった。
私が人生で一番季節に敏感だったのは高校三年間。
それ以来、ある程度許容された有り余る自由とか、24hのコンビニやコインランドリーとか、年中あふれるのスマホの中のコンテンツを貪り、私が私を鈍らせてきた。
最近、月を愛でたり、草花を好むのは、あの美しい三年間への憧れか。
秋は物憂げ。この感傷さえ、愛おしい。
「寒くとも 袂に入れよ 西の風」。この寒風さえ愛おしい。
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