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主従関係5 --その本質

 おはようございます、乙訓野添です。エンジン掛けっぱなしで、車中泊中です。

 これまでSMの世界(最近は界隈という)で言われている「主従関係」というものを、様々考察してきました。その結果、分かったのは、

主従と言うのは、言い換えだった

 と言う事でした。要するに、やってる事や付き合い方、はたまた付き合い始めの馴れ初めなと、昔と大差ない。何ら特別な事してる訳でも、特殊な世界観でもない。昔からやってるし、昔もそんな人いたい、何ならSMでなくてもそんな人いるでしょう、と言う結論になりました。

 言葉の言い換えが起こるのは、その言葉の本質が生々しく、憚りあるからです。かつ、それが一般的に使われる様な頻発する事態になって、その生々しさを糊塗する必要から生まれます。
 撤退を転進、全滅を玉砕と言い換える。売春を援助交際やパパ活と言い換える。それと同じ様に、S男をご主人様、M女を従者と、それぞれ言い換えたのです。なので「主従関係」と言うのは歴史用語からの借用以上に意味は、大してないなと言うのが、自分の感想です。
 確かに、ご主人様と従者や奴隷、飼い主とペットや家畜、所有者と所有物、様々な呼び方がありますが、それは二人の嗜好するプレイに関係する呼び方であって、いわばロールプレイをしてるに過ぎません。しかし、ロールプレイを志向しない人の間でも、「主さん」「従者さん」と言う言葉が使われるほどに、「主従関係」と言う言葉は、一般化しているのです。

 こうした関係は、結局のところは、双方の気持ちが合致して成立します。有り体に申せば、恋愛関係ですし、不倫関係です。つまり、SMと言えども、思い遣りと信頼関係はあるし、危険行為を行う以上、それはより必要性が高い。
 また、社会的に支障の出る行為には制限があり、特に配偶者のある相手との関係は、時間的肉体的に制約が多い。これは別にSMに限ったことかではなくて、ノーマルな嗜好でも同じです。
 つまり、浮世離れした関係、行為をしていても、片足は現世に着けて置かねばならないのです。

 特に従者の人が、主さんへの想いの強さのあまり、全人生をかけた様な、「主従は生き方」とか「主の為に命を捨てる」と言った事を言う傾向にありますが、歳若い人にありがちな情熱で、歳を重ねた人は、そうした事はあまり言いません。つまり、そうした感情は、「主従関係」を表象するものではありません。SM以外でも見られる傾向です。

 ただ、「従者」や「奴隷」と言う言葉だけが先行するのか、一方的な従属や搾取を、強制されるのが「主従関係」と思う人も、特に未経験や若い人に多く、また主の事を好きになり過ぎて失う恐れから、強制に応じてしまう人も多いです。そうした事例が、「主従関係」を特異なものに見せかける原因になっていました。
 こうした「恋の奴隷」「恋は盲目」と言う状態は、SMでなくても多々見かけられる事なので、特殊な事ではありません。ただ、SMの場合は、暴力を嗜好とするので、肉体的精神的ダメージが大きい傾向なあります。はっきり申し上げて、「酷い奴が居るなぁ」と感じました。そして、非モテな人ほど沼ってしまうと抜け出せないのだな、と。

 主の要求を拒否するのは、従者や奴隷として失格なのか、答えはノーです。自由恋愛下における性分化の中での「配役」に過ぎないからです。
 主の為に全てを投げ打つのは、美徳なのか。それは本人がそう思ってる分には良いが、強制するのはノーでしょう。
 「その人の為に」という想いを、良いように利用されて、本当に「奴隷」に成り下がらない様にしてほしいものです。

 今回のnoteはここまで。大分本質に迫れました。あと一回くらい続きます。



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