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主従関係4 --やってる事は同じ

 こんばんは、乙訓野添です。今夜4本目です。ガンガン行きます。

 さて、SMの中に恋愛ベースと主従ベースがある事をこれまで解説し、かつ主従と恋愛が、結構軋轢を生じてる事もお話ししました。
 では、恋愛の人と主従の人で、やっているSMの内容が違うのか。結論から先にいうと、ぱっと見は見分けがつきません。確かに、ちょこっとだけ手首を縛るだけのソフトなのから、おっぱいに鉄串を刺したりする様なハードなのまで、恋愛も主従も、どっちも似たり寄ったりな事をしています。つまり、見た目には見分けがつきにくいのです。
 例えばSM誌の緊縛グラビアを見て、それの女性を縛ったが、彼氏なのかご主人様なのか、それを言い当てれる人は、まずいないと思います。答えは縄師が縛っているのですが、解釈は読者に委ねられています。投稿もののSM動画も、そこに写ってる男女が、彼氏彼女なのか主従なのか、キャプションの付け方でどうとにでも見れます。どっちも奴隷とか飼い主とか書いてますしね。
 つまり、見た目には同じ様にしか見えませんし、実際、やってる事に差はないのです。ただ、カレイとヒラメは、よく見れば顔の位置が左右逆です。そうした違いは、恋愛と主従ではあります。顕著なのがセックスの有無で、恋愛の方では大抵はセックス有りなのですが、主従の場合はなしの人も多いし拒否の人もいます。無論、SMはしてもセックスはしない、という人は昔からいるのですが、そういう人は、もしかしたら主従の人だったのかもしれません。
 もう一つに、恋愛の場合は、だいたいSMするのですが(しなかったらSMにならないし)、主従の場合は、加虐被虐がないというケースもあります。つまり、支配と従属ですから、必ずしも暴力的・変態的性行為が必要ではない、という訳です。その意味では、確かに「生き方」なのかもしれません。

 してみると、恋愛をベースとするSMも、主従をベースとするSMも、はたまたセックスパートナーとしてのSMも、全部SMという訳です。緊縛が美を追求する方向にSMから独立しつつある様に、主従関係といった精神分野がSMから分化しつつあるのでは、と考えた事もあったのですが、そんな事はない。SMプレイをしている限り、同じ円錐に当てる光の位置が違うだけなのです。分化してるとしたら、せいぜい、SMしない主従関係がそうでしょうが、それはSM関係なしに昔から存在していたと思います。

 こんな事をわざわざ書いたのは、それだけ主従やっている人たちが、特殊なプレイをやっているのかと思っていたのですが、そうではなかった事が分かって、ある意味、理解を進める取り掛かり口が分かったからでした。
 それと同時に、見分けが付きにくいが故に、アプローチの仕方がわからなかったり、間違えたりして、困ったり悲しい思いをしてきた事を、初めて理解したからでした。人と人との繋がりですから、そこに感情や思いがあるのは当然です。しかし、塩だと思って舐めてるのに、それが実はハイミーだったら、違和感しかないでしょう。ハイミーにはハイミーの使い方がある、という訳です。

 また、見方を変えれば、恋愛の場合、相手への思いやりから、無理な事はさせれません。しかし、主従の場合、無理をさせるするのが基本ですから、故にハードな人も多い。ハード路線を目指したい人は、主従狙いも方法の一つかもしれません。主従の人から言わせると邪道かもしれませんが、SMしたい人にとっては、恋愛か主従かは、二つの登山道くらいの違いでしかないからです。

 今回のnoteはここまで。最後の段は批判が多いと思いますが、そこまで大層なもんか?というのがこのシリーズの本旨ですので、ご容赦願いたいです。


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