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【超短編小説】 何度でも呼んで。

「なあ、あやか」

彼氏に呼ばれた。だが、私はそんな名前じゃない。
何?とも聞かず、黙って彼氏を見つめた。少しすると、彼氏ははっとした顔をした。自分の間違いに気づいたようだ。

「ごめん」

驚き顔のまま、彼氏は私を見つめている。
まあ、付き合って半年も経ってないし、元カノとはそれなりに長く付き合ってたって言ってたし。彼にとっては、先生をお母さんと呼び間違えるようなものなんだろう。きっと。

「疲れてる? 今度、温泉でも行く? 体休めに」

思ったよりぶっきらぼうな言い方になってしまった。
心がチクッとしたのは、気のせいではなかったようだ。

「ほんと、ごめん」

そんな私の心情を察したか、彼は私に向き直って再度謝罪した。
許そうと思う。思っている。
私は深呼吸して、自分を落ち着かせた。でないと、また彼に謝らせてしまう。それは、本意じゃない。

「いいよ、一度くらい」

私は目を閉じて、今の失敗に頭を抱えた。これは、許してない。
黙りこんだ私に、黙りこんだままの彼。
気まずい沈黙は、しばらく続いた。
私は彼を見ることができず、そっぽを向いたままだ。まるで、怒っているみたいに。

「ありが、とう」

沈黙に囁かれた彼の言葉に、全身から力が抜けた。彼を見れば、私の顔色をうかがっておどおどとしていた。
もしかして、気づいてくれたのだろうか。
心が傷んだ。けど、許したい。
そんな私の本意に、気づいてくれたのだろうか。
「言わせてしまってごめん」と言いそうになって、急いで口をつぐんだ。
言いたいことは、そんなことじゃない。

「どう、いたしまして」

許したい。でも、傷付かなかった訳じゃない。けど、私はそんなことで、この関係にヒビを入れたくない。
まだ付き合って数ヶ月。
名前は、もう間違うことのないように、これから何度でも何度でも、私の名前を呼んでください。


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