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やっちゃば一代記 実録(16)大木健二伝

やっちゃばの風雲児 大木健二の伝記
 パセリ
健二の主な受け持ちは銀座二丁目のスエヒロと、六丁目にあった松本楼(現在は日比谷公園内で開業)だが、松本楼は周囲を黒塀で囲み、庶民には敷居の高い和食の老舗で、なにかにつけ杓子定規で、健二の肌には馴染まなかった。スエヒロが関西気質でそのままの開放的な得意先だけに、松本楼での仕事はどうにも窮屈に感じてならないのだ。代々幕府の金庫番だったといわれ、主人の小坂梅吉は後に代議士になるほどの家柄である。松本楼が日比谷に移転するときの解体工事で、残土から小判が見つかり、残土を捨てた江東区の埋め立てに人が殺到したという騒ぎがあった。そんな騒ぎを知るにつけ、健二は「小判が埋もれているくらいの家だから格式も高いだろう」と手前勝手に納得するのだった。
 和食の店はとかく伝統や格式を重宝がり、新しい野菜には関心を持ちたがらないだが、この松本楼への野菜納めを通して健二はひらめいた。和食に西洋野菜を使ってもらおうというものだ。
 青果問屋の築地移転で魚問屋と野菜問屋は隣り合わせになった。
健二にしてみれば水を得たような魚のようなものである。
このときから大根やニンジンを積んだリヤカーにパセリを加え、つま問屋に刺身のつまとしてパセリを勧め歩いたのである。
「毎度、持倉です。刺身用にパセリを使ってみてくださいよ。刺身は足が早くて食あたりでも起こしたら問題!。パセリは食中毒の予防にもなるし、魚の臭みが取れる。色もきれいな緑で、手は掛からないし安い!」
 刺身のつまといえば、マグロやカツオなどの赤身の魚には大根が、タイ、ブリなどの白身にはニンジンがもてはやされ、ちょっと高級な刺身には「ぼうふう」が利用されていて、パセリの出る幕はなかったのだ。
健二は築地市場の内外に三十軒はあったつま問屋へセールスに明け暮れた。最初はどこのつま問屋も「パセリを刺身のつまにするなんてお門違い。」「いったいどこの店がつかっているんだ?。」とはなから相手にしない。
いつもは軽口を叩きあう仲でも、こと商売となると、算盤づくである。今日明日の日銭商売の多い市場では「今売れているか!」か「これまで売れてきたか!」かが商品選択の物差しだった。が、ダメだしされるとかえって闘争心がわいてくる健二は、これと思ったつま問屋の作業場に入り込み、大根、ニンジンのカツラ剥きをして搦め手から売り込んだ。
 そうこうするうちに一日数十把という注文が来るようになった。
「カツラ剥きまで手伝わせたことだし、あんたの熱意には負けた。ちょっと置いてみるかな。」一度使われると、評判が評判を呼び、多い日には五十箱は売れるよいになった。せいぜい二、三箱の売れ口が数十倍になったのだ。一軒で一把もあれば十分に間に合う量だったことからすると、築地界隈のつま問屋のほとんどがパセリを受け入れたことになる。パセリの普及とともに、健二のパセリの買いの噂は東京中に広まっていった。
 ☆ご存知の方も多くいらっしゃると思いますが・・・少し前はスーパーの刺身にパセリが付いていましたね、これは健二が築地で広めたことで、日本中に広まりました。健二本人からパセリ産地にパセリ御殿ができた話を何度も聞いたことがあります。

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