恋愛SF小説『ミッドナイト・ブルー ハニー編』6
ハニー編6 26章 シヴァ
船室の重い扉が開いた時、俺は奥の寝室で横になっていた。ひとしきり運動し、シャワーを浴びた後、不貞腐れて、目を閉じていたのだ。
船室の空気が動いたことに気づいても、期待はするまいと頑固に思った。部屋にアンドロイド兵士が踏み込んできた時も、じっとしたまま、いよいよ処刑かと思っただけだ。
何か期待すると、その後が辛い。もう何十回も、救出される夢を見た後だ。
「目標を発見しました。無事のようです」
表情のない灰色の顔の兵士が誰かに通信した時は、何のことかと思った。誰かが、俺を捜していた? ショーティが? それとも、とうとう明確な幻覚を見るようになったのか。
じきに通路から軽い足音がして、現れたのは、赤毛をくるくる巻いて、優美なショートにした若い女だった。見慣れた戦闘服、腰に差した銃。
「ああ、シヴァ、よかった。無事ですね」
俺は上半身裸のまま、起き上がった。
「カーラなのか!?」
「お待たせして、すみません」
色白の頬が薔薇色に紅潮して、声が弾んでいる。こいつが本当にマックスなら、ほぼ完璧な化け方だ。
「これで、ハニーさまに連絡できます。よかった、本当に」
ちょっと待て。なぜだ。
「どうやって、ここがわかった」
カーラは笑顔で両手を広げた。本物の女のように。
「転移反応をたどったからですわ。あなたの持ち出した予備艦隊の残りは、丸々、他の組織に転売されていたんです。あなたは、無人と思われていた艦内に置き去りにされていたんですよ。艦隊はちゃんと買い戻しましたから、もう安心です」
そんなことなら、ショーティにもできたはずだ。
起き上がった俺は裸の腕を伸ばして、カーラの肩を壁に押しつけた。よく鍛えた女だが、それでも俺よりはるかに軽量だ。カーラは驚いた風をして、緑の目で俺を見上げる。
「何ですか?」
「なぜ、おまえなんだ」
「何がですか?」
本当だろうか。こいつがマックスだなんて。俺の考えすぎかもしれない。だが、今は誰も信用できない。俺が無人艦に置き去りになっていたなら、俺を捕獲したのは誰だったというんだ?
「俺はそれなりに、航跡を偽装していたぞ。そんなに簡単に、追跡できてたまるか」
カーラの目が泳いだ。言い訳を考えている。
「あなたが動いたのは、〝リリス〟のためですよね……彼女たちは無事です。中央に帰還して、バカンスに入っています」
俺の腕から力が抜けた。そうであって欲しいと願っていたが。
「あなたが戦闘の現場に到着するより早く、救助に来た人がいるようですよ。〝リリス〟には、しっかりした後援者がいるようですね」
シレールが、俺より早かったのか。だが、こいつは、俺がその後援者の一人だと、なぜ知った。
俺が肩を押さえたままでいると、カーラはにっこりと笑顔を作る。
「ショーティから、伝言です。余計な真似をするな、と警告を受けたそうです」
「警告?」
この場合、こいつの言うショーティとは、ただの警備犬のことではないだろう。
「〝リリス〟の世話は、現在のグリフィンがしているから、あなたが手を出す必要はないと」
何だって。
「あなたを捕獲して放置していたのは、二代目グリフィンの嫌がらせのようですよ」
嫌がらせ!?
「誰かが自力であなたを発見するまで、手出しするなとショーティは通告されていました。だから、わたしが間近に来るまで、ショーティも我慢していたんです」
本格的に、膝から力が抜けそうになった。グリフィンの嫌がらせ、だと。それに、ショーティは自分で助けに来るのではなく、なぜこの女を使っている。
「ショーティが、おまえに教えたのか。自分の正体を」
赤毛の女が、仕方なしのように微笑んだ。
「ええ。わたしが独力であなたを発見した時にね。犬から進化した超越体というのは、驚きでしたけど」
ショーティめ。これまで、俺とハニーしか知らなかったことを、よくも。
いや、最高幹部会にもリザードにも知られているから、もう、たいした秘密ではないというのか。
「だからあなたはいつも、身近に犬の姿のショーティを置いていたんですね。大丈夫、秘密は守ります。ルーンにも言わないことにしますから」
俺は、ほっそりした白い首に手をかけていた。力は込めていないが、いつでも締め上げられる態勢で。
「おまえ、元は男だったな。正体はマックス。そうだろう」
断定すると、カーラの顔から一瞬、表情が消えた。
やはりだ。何という執念か。
「よくも、女に化けたもんだ。全て、ハニーのためか」
カーラはあきらめたように、うっすら笑った。冷めた笑いだ。地獄の深淵を覗いたような気がして、ぞっとする。
「我ながら、よくやったと思っていますよ。女の肉体に慣れるのに、かなり苦労はしましたけどね。今ではもう、自然に振る舞えます」
室温より十度くらいは、冷たい声だった。俺なら、絶対無理だ。女になるなんて。自分で自分がおぞましくて、とても耐えられないだろう。
「ハニーは何も疑わず、ひたすらカーラからの連絡を待っていますよ。カーラがマックスだったと知ったら、どうなるでしょう? 恐怖のあまり、誰も信じられなくなるかもしれない。あなたのことすらも」
俺はカーラを突き飛ばし、飛び下がった。拳を構えて立つ。ここで殴り殺してやろうか、こいつ。女はとても殺せないが、元が男なら構うまい。
「この、ストーカー野郎が」
カーラはいったん床に崩れそうになったが、バランスを取り戻してしっかりと立つ。そして、俺を見上げた。真剣な顔で。
「言わせてもらいますが、わたしは自分なりに、ハニーを愛していましたよ。大学で初めて見かけた頃から、ずっと」
開き直りやがった。
「辺境で地位を築こうとしたのも、ハニーを守るためでした。ハニーも、市民社会では幸せではなかったから。それを、他の男に奪われたとわかった時は、気が狂いそうになった」
それを、愛らしい女の顔で言う。険しい自嘲の笑みを浮かべながら。
「なのに、はるばる取り戻しに来たら、ハニーはあなたと笑っていた。あんな笑顔は、わたしの時には……マックスの時には、見たことがない」
自分の身を示す手付きをしてから、緑の目で俺を見上げてくる。
「わたしがしたことは……女の肉体に乗り換えた苦労は、まったくの無駄だった。ピエロと同じだ。自分が愛されていなかったと思い知るために、この姿になったんだ」
そこで肩を落とし、深く息をつく。
「ここへ来たのは、ハニーに頼まれたからですよ。あなたの行方が知れなくなって、ハニーが泣き暮らしていたから」
そうか。やはり。
「ショーティがなぜハニーを助けてやらないのかも、その時はわからなかった。ついでに言うと、わたしがカーラとして《ヴィーナス・タウン》に入り込んだことは、ショーティのお膳立てですよ」
何だと。
「ショーティは、あなたたちの睦まじい姿を間近で見れば、わたしがあきらめると思っていた。その通りになりましたよ。すっかりあきらめがつくまで、何年もかかりましたが」
俺の拳が下がった。
あいつめ。知っていて、マックスを俺の元へ送り込んできたというのか。マックスもまた、あいつの駒の一つになっていたというわけか。
もはや、怒る気力も奪われた。人間など全て、超越体の駒に過ぎない。
「それじゃ……これからも、そのなりで、ハニーの側近でいるつもりなのか」
カーラは堅い顔になり、ふいと横を向いた。俺を見ないままで言う。
「あなたがわたしに我慢できないなら、出ていくしかないでしょうね」
そうだ。出て行け。俺が正体を知った以上は。
いや、待て。それも不安だ。いっそ、ここで殺してしまえ。後腐れなく。
だが、それをハニーにどう説明する? こいつを殺してから、カーラの正体がマックスだったと話して、信じてもらえるか?
それで逆に、ハニーがマックスの行動に感動してしまったらどうする? こいつを殺した俺を、やりすぎだと責めることになったら?
「どちらにしても、本当のことは言わない方がいい。ハニーが疑心暗鬼に陥るだろうから。そのうち、あなたのことすら、マックスの変装だと疑うかもしれない。マックスは完全に、過去の存在にしておくべきですよ」
それはわかる。
今の俺も、誰が超越体の人形で、誰が敵の手先なのか、ちょくちょく疑っている。疑いすぎると疲れるし、自縄自縛で何もできなくなるから、努力して棚上げにしているだけだ。
俺は引き下がり、どさりとベッドに腰を落とした。
「俺をここに閉じ込めておいたのは……今のグリフィンなんだな」
俺の後釜に指名された奴。どこのどんな奴だか、俺は何も知らない。ただ、俺より〝リリス〟を案じる誰かだと、ショーティは言う。そんな物好き、本当にいるのか。
「ショーティからは、そう聞いたわ。何でも向こうは、気分を害しているみたい。〝リリス〟については、自分がちゃんと周到な援護をしているのに、引退させられたロートルが、のこのこ、ぶち壊しに出てきたと」
ロートルか。俺が。
つい、苦笑が出た。確かに、もう若者ではないが。不思議だ。俺はずっと、体制に反逆する若手のつもりでいた。ずいぶん長いこと。
だが、マックスやハニーは、俺よりはるかに若い。新しいグリフィンも、俺よりずっと若いのかもしれない。もうとっくに、主役の世代は移っているのだ。肉体が若いと、つい、それを忘れてしまう。
「それでも、ショーティがあなたの庇護者であることは知っているから、グリフィンも、あなたを傷つけはしなかったはずよ。ただ閉じ込めておいただけ、でしょう?」
俺が〝リリス〟を守ろうとしたことも、余計な空回りか。俺より若くて有能なグリフィンに、俺はどこかで嫉妬していたのか。小僧が失敗したら、また俺の出番だと思いたかったのか。
グラマーな赤毛の女は、壁によりかかって俺を眺めている。緑の目には、冷静な覚悟が見えた。
「殺したければ、殺せばいい。今のこの肉体では、あなたに勝てないもの」
そんなことをしても、無駄だ。この平静さを見れば、明らかだ。
「ただし、ここにいるカーラは、マックスの一部にすぎない。マックス本体はとうに超越化して、進化しているから」
いま、何と言った!?
「マックスが、超越体になってる!?」
「超越化を助けたのは、ショーティよ」
あの野郎。そんなことまで。マックスが人類の脅威になったら、どうするつもりなんだ。
自分はいつまでも、マックスより先行できるつもりか。元が犬なんだから、人間の天才には敵わないかもしれないだろう。
「いつか、あなたやショーティがハニーを守りきれない事態が起きたら、助けられるのはマックスだけかもしれない。だから、マックスを敵にするなと、警告するわ」
俺に警告だと。マックスの一部であるこいつが、図々しく。
「今の彼は、ハニーのクローンを育てて、それで満足しているの。ハニーによく似た、小さな女の子よ。だから、もう二度と、マックス本体がハニーにちょっかいを出す心配はないわ」
俺は息を呑んだ。
「ハニーの、クローンだと」
「それが、マックスの選択よ。彼はカーラの体験を取り入れて、穏健になった。わたしが女の肉体に乗り換えてから悟ったことを、マックスは自分の経験にしたのよ」
***
帰り道は、ひたすら気まずい沈黙の時間だった。俺はカーラにどう向き合えばいいのかわからず、向こうも、自分からは俺に話しかけない。
それなのに、同じ船にいる。奴から目を離すくらいなら、見張れる位置に置いておいた方がましだからだ。
カーラがマックスの一部だと。
マックス本体が超越体になり、進化し続けているだと。
そして、ハニーのクローンを育てているだと。
どうして世の中は、年々、複雑怪奇になっていくんだ。肉体だけ若くても、俺はもう、時代遅れの老人なのか。
くそ。
俺がいつまでもショーティに頼っているから、こんなことになる。自分自身は、たいして成長していない。
だから、ショーティにも置いていかれた。あいつはもう、犬でもなく、人間でもなく、何か得体の知れない存在になっている。
あくまでも人間でいたいと思うのは、俺の甘えなのか。それでは、進化していく連中に利用され、捨てられるだけなのか。
「おい、ショーティ」
船室で一人になってから、宙に呼びかけた。
「いるんだろ。おまえ、今のグリフィンに遠慮して、俺を差し出したのか」
通話画面が明るくなり、見慣れた犬の姿が浮かんだ。
「仕方なかった。向こうは怒っていたからね。少なくとも、怒るふりをしていた。きみに思い知らせる必要がある、と言われたよ。もう二度と、余計な真似をしないようにと」
その結果、一定期間の幽閉ということになったのか。俺がどれほど苦しもうと、そいつには、ちょっとした警告でしかない。
「そいつも超越体なのか」
「わたしにはわからない」
かっとした。重大事だぞ。
「すっとぼけて、済ませるつもりか!? 都合のいい時だけ、親友面しやがって!!」
「辺境がいかに複雑な力関係で動いているか、きみには想像もつかないだろう。何か解明したと思っても、すぐにまた疑惑が湧いてくる。真実は、幾重にも隠されているんだ」
「……文句があるなら、俺自身が超越化してみろってことだな」
「まあ、極論だが、そうなる」
ふん。
「しかし、そいつがいつか、失敗する時が来るかもしれないだろう」
そうなった時、誰が彼女たちを守るのだ。だが、ショーティはあっさりと言う。
「その時は、きみにももう、どうしようもないだろう」
なるようになる、あきらめろ、ということか。
悔しいが、今回のことは、もう済んだことだ。俺としても、ハニーの元へ戻れるのなら、他の全てを水に流して構わない。
俺が行方不明の間、ハニーは希望と絶望の間を行き来して、ほとんど幽霊のようにやつれていたそうだ。ルーンが必死で防壁にならなければ、部下たちにも異変が知れ渡っていたことだろう。
人を愛するというのは、恐ろしいことだ。
誰も愛さなければ、心は冷たく、寂しい。
愛すれば、失うことが恐ろしい。失う苦しみに耐えるくらいなら、いっそ、死んだ方が楽だと思ってしまうほどに。
だが、それでも生きていれば、また誰かを愛せる。俺個人としてはもう二度と、別離の苦しみを味わいたくないが。
***
《アヴァロン》に帰り着く寸前に、ハニーが船で出迎えに来た。船同士が接続すると、エアロックが開くのを待ちかねて、泣き笑いで俺の腕に飛び込んでくる。
「ああ、シヴァ。もう、あなたったら」
泣くのと話すのと笑うのを一緒にしようとして、息を乱している。
薄緑の衣装で美しく装ってはいるが、白い顔には、隠せないやつれが残っていた。ずいぶん泣かせたらしい。それでもまだ泣き足りないとばかり、俺の胸にしがみつき、しゃくりあげる。このぶんでは、俺がトイレに行くと言っても、ついてきそうだ。
「悪かった。すまなかった」
ハニーの肩や背中を撫で、髪や頬にキスをした。俺が中途半端に、従姉妹たちのことを心配したからだ。
「ああ、カーラ、ありがとう」
ハニーは泣き笑いで俺から離れると、側にいたカーラにしがみついた。
「よく、この人を助けてくれたわ。本当にありがとう」
「どういたしまして。仕事ですから」
この、すかしたストーカー野郎。よくも、ハニーの側近なんかに納まってくれたな。女の肉体に乗り換えてまで。その執念には、こっちがひるんでしまいそうだ。
とりあえず、ハニーには適当な話を作って伝えた。〝リリス〟と敵対した連中に捕獲されたが、カーラが大活躍して取り戻してくれたのだと。つまりカーラも今では、俺がグリフィンだったことを知っている、というわけだ。
カーラの正体は……やはり言わないことにする。言ってしまえば、ハニーが恐慌をきたすだろう。
その代わり、俺がカーラを監視する。毎日、油断せず。もしも怪しいそぶりをしたら、その時こそ、ぶち殺す。
だが……
マックス本体が超越化しているのなら、そのごく一部を抹殺して、何の役に立つというのだ。それよりも、マックス本体を警戒するための手掛かりとして、近くに置いておく方がいい。
「わかってるわ。あなたは〝リリス〟を放っておけないのよね。でも、今度からは、わたしも一緒に行かせて。もう、離れて待つのはいや。絶対に、わたしから離れないで」
ハニーは俺にすがりつき、何度も泣いた。目が溶けるほど。悪かった。もう、俺一人の命ではないと、知っていたはずなのに。
久しぶりの《ヴィーナス・タウン》は、天国に思えた。買い物を楽しむ女客たち。優雅に接待する従業員。ホールでのパーティや音楽会。最高幹部会に庇護された、女たちの楽園。
だが、そこにはカーラがいる。誰が見ても、完璧な女ぶりで。
ハニーから聞く限り、マックスは自信過剰の高慢な男だったが、今のカーラを見て、高慢だと言う者はいないだろう。
態度は穏やかで、理知的だ。部下に対しても公正で、思いやりがあり、誰からも慕われ、尊敬されている。
これはもう演技などではなく、進化だと思うしかない。女の肉体に乗り換えたからか。ハニーが俺といて、幸せなのを見たからか。
ショーティは無論、最初から全て知っていた。今の俺なら理解して受け入れられると判断したから、カーラに捜索に来させたのだ。
つまり、カーラを介して、俺とマックスが和解し、共存できるように。それはショーティが、現在のマックスを、望ましい存在だと認めているからだ。こうして世界には、超越体の同盟が出来ていくわけか。
夜になり、センタービルに戻ると、暗い寝室で俺と手足をからめたまま、ハニーは深い眠りに落ちた。安心して、ぐっすり眠ってくれればいい。明日には、もっと顔色がよくなっているように。
だが、カーラはどうしている? あいつは、ハニーを見守っているだけで満足できるのか? あいつこそ、発狂しそうな地獄に耐えているのではないか?
いや、同情なんか、するつもりはない。高慢で鈍感だったから、ハニーに嫌われたのだ。自業自得だ。
もちろん、かつての俺もそうだった。探春は今も、俺を許していないだろう。俺がグリフィンとして従姉妹たちを守り続けたと知らせても、感謝などしてくれないだろう。
仕方ないのだ。人生の最初に、知恵が足りないことは。
茜とリアンヌを経て、少しずつ、俺はましになっている。今はようやく、ハニーに愛してもらえるようになったのだ。
マックスにも、今ではそれが認識できているのだろうか。自惚れた男は、何度も失敗して、ようやく、少しはましな存在になれるのだと。
***
いつまでも、逃げてはいられないか。カーラだって、宙吊りのままでは耐えられまい。いかにふてぶてしい奴であったとしても、だ。
俺は覚悟を決め、カーラの空き時間に、警備管制室の奥にある俺の居場所に呼び出した。ここならショーティ以外、誰に話を聞かれることもない。ハニーは下のフロアで、顧客の相手をしている。
「何のお話でしょうか」
戦闘服姿で身構えている女に、席を勧めた。まず、宣言しておく。
「今は俺だけだ。本音で構わない」
それで向こうにも、通常業務のことではないと通じただろう。
「おまえがこの組織で、かけがえのない地位を占めていることは事実だ。どんな口実をつけようが、おまえを追い払ったり、粛正したりしたら、他の女たちが納得しないだろう」
目の前の女は、もはや、マックスと重ねることが難しい。
「それで?」
「俺はおまえを認める。カーラとしてだ。おまえがハニーに忠実でいてくれる限り、おまえのことも、この組織の一員として守る。それで、どうだ?」
カーラの表情は、しばらく空白だった。期待していたような感謝の笑みは、かけらもない。ようやく口を開いた時は、なぜか、しらけたような態度だ。
「それに、感謝すべきなんでしょうね。辺境の常識から言えば、わたしは、あなたに殺されても文句は言えないのだから」
男の姿なら、まだ殺し易かったがな。
「辺境に出てきてから十年も、おまえが……マックスが、ハニーを守り通したのは確かだ。それからの十年も、カーラは頼れる部下でいてくれた。だから、俺も感謝すべきなんだ。おまえに」
その愛し方が、女にとってみれば不足でも、的外れでも。
俺だって、どれだけ間違えたことか。男は女より、はるかに鈍感だ。どんなに教育されようとも、自分で痛い目を見ながら学ばない限り、本当にはわからないのだ。人生の真実が。
「ただ、おまえが辛いのなら、他都市の支店担当として、ここから離れてもらうこともできる。それとも、今まで通りの生活で平気か?」
ようやく、白い顔に苦笑が浮かんだ。
「気を遣ってもらったようで、ありがとう。当面は、今まで通りで結構よ。いつか、独立したいと思うかもしれないけれど」
「独立か」
それもいいかもしれない。元々、独力で組織を立ち上げた男だ。いつまでも、使用人の暮らしには甘んじていられないだろう。この組織の中では古参の幹部だとしても、こいつ本来の性格では、トップに立ちたいはずだ。
そこでカーラは、服のポケットから、一枚の写真を取り出した。
「マックス本体から、許可を得たものよ。あなたに渡すわ。彼からの、友好の証のようなもの」
そこには、ピンクの服を着た小さな女の子を抱き上げた、金髪の男の写真があった。マックスの顔は知っている。だが、プラチナブロンドの髪に赤いリボンを結んだ、この女の子は。
「これが、ハニーのクローンなのか」
笑っている女の子は、父親に甘えて安心しきっているように見える。ごく当たり前の、むつまじい父と娘の姿。
「彼は、そのハニーから愛情をもらって、癒されているそうよ。だから、あなたと敵対する理由は、もうないの。いずれはショーティのような、安定した超越体になるでしょう。マックスのことだから、〝連合〟の使い走りには満足せず、反逆を企てるかもしれないけれど」
俺はその写真を、胸ポケットに収めた。ハニーに見せるとしたら、どうやって説明しようか。いや、見せずに焼却するべきか。
「おまえたち、どっちも執念深いな」
マックス本体も、カーラも。
「だって、ハニーは運命の相手だと思ったから」
カーラの笑みが深くなった。何かを突き抜け、手放したように。
「でも、あなたには負けたわ。負けを認めましょう。わたしには、立ち直るのに時間が必要だけど。そのために、長い寿命が得られるのだから」
カーラは椅子から立ち上がり、
「それじゃ」
と言い残して、去っていった。腰を揺らし、一本のライン上をたどるような、優雅な女の歩み方で。
***
しばらくは、平穏な日々だった。カーラが石を投じるまでは。
ハニーが午後のひととき、各部署の幹部級の女たちを集め、お茶とおしゃべりの集まりを主催していた時だ。
こういう時間に、色々な提案が出される。新しいイベント、新しい商品。誰かがちょっとした思いつきを投げ、それが会話の中で雪だるまのように転がって、大きな事業になったりする。
湖の上にクルーザーを出して、花火見物の夕涼みパーティを開くとか。森の中でキャンプをして焚火とバーベキュー、あるいは鍋料理を楽しむとか。
「子供がいたら、ねえ。そういう行事を喜ぶでしょうね。大人だけでも、楽しいことは楽しいけど」
女たちの一人がふと漏らすと、それはすぐに波紋を広げた。
「市民社会との違いは、そこよね。風景に、子供がいないんだもの」
「仕方ないわ。子供を育てられる世界じゃないんだもの。娼館一つとっても、子供に説明できないわ」
辺境では、手の届かない贅沢品――それが人間の子供なのだ。不老の技術も身体強化の技術も、奴隷としてのバイオロイドも買えるが、本物の子供は育成に時間がかかる。いや……育てる情熱が必要なのだ。
それを思うと、故郷の一族は偉かったのかもしれない。俺のようなひねくれた少年でも、大人になるまで見捨てずに育ててくれた。
今では、紅泉が可愛がっていたダイナが成長して総帥になり、シレールを夫にして(堅苦しい彼が二人も妻を持つとは、驚きだが)自分たちの子供たちを育てている。戻れない故郷ではあるが、ショーティが時折り、情報をもたらしてくれるのだ。
「ねえ、こういうのはどうかしら……辺境にも、子供を欲しいと思う女は、潜在的にかなりいるでしょう。ただ、安心して子育てできる環境が得られないだけ。だから、それを商品にするんです」
カーラがそう言った時、最奥の部屋でモニター越しに聞いていた俺は、首をひねった。
子育て環境を売る?
組織中枢でも、俺の存在を知る女は、ハニーとルーンとカーラ三人だけだから、こういう集まりに顔は出せない。
「少なくとも五年か十年、長期滞在できる、子育て村のようなものを作ったらどうかしら。母と子が、そこでゆったり暮らせるような場所。そこから先は、寄宿学校で子供を預かれば、女たちは安心して仕事に復帰できます。その寄宿学校も、わたしたちで作って運営すればいいのよ」
驚いた。おまえは本物の女ではないくせに、何を言う。それとも、女ではないから発想できたのか?
女たちはしばらく唖然とし、それから熱狂した。
「それ、いいわね!!」
「絶対、需要があるわ!!」
「それだったら、わたしだって子供が欲しいもの!!」
「ハニーさま、事業計画を作りましょう!!」
女たちは、辺境にまともな男が少ないことについては、もうあきらめをつけている。だが、この興奮を見れば、子供が欲しい本能には、それぞれ苦しめられていたらしい。
精子なら買える。自分好みの、優秀な精子を人工的に作ることもできる。足りなかったのは、そこから先だ。
大組織に所属している女ならともかく、中小組織では、子育てに配慮するような余裕はない。大組織の中がどうなっているのかは、俺もよく知らないが。
「ちょっと待って。それはかなり……影響が大きいわ」
ハニーは慎重にブレーキをかけた。それはそうだ。
もし、辺境の女たちがそれぞれ二人、三人と子供を育てていったら、今後数十年で、母親の愛情を受けた若者たちが、何十万人も誕生することになる。いや、何百万人かもしれない。
それだけの数がいれば、辺境の文化が激変するだろう。
同じ学校で育ったマザコンの若者たちが互いに連携し、力をつけたら、あちこちの組織を作り変えていくことになるのではないか。おそらくは、母親たちの望む通りに。
それはつまり、辺境が市民社会のように平和になるということだが、逆に言えば、ルール破りが許されない、自由度の少ない社会になるということだ。
おそらく、娼館は廃止される。人体実験も許されない。危険な兵器の製造も許されない。新たな試みには、かなりの制限が課せられる。
いま辺境を支配している連中は、そんなことを望んではいないはずだ。ありとあらゆる試みが自由だからこそ、進歩も速いのだから。
〝連合〟はきっと、女たちの子育てを危険視するはずだ。下手をしたら、《ヴィーナス・タウン》が潰される。
「そんなことが可能かどうか、少し考えさせて。たぶん、最高幹部会に相談することになるわ」
ハニーはそう言い、女たちを解散させた。俺も、無理な望みだろうと思う。
奴らはあくまでも、何でもありの無法地帯を維持していたいはず。そのためには、辺境が男中心の世界である方がいい。男は馬鹿で、地位や権力をちらつかせれば、いくらでも操れるからだ。
奴らがリアンヌをお払い箱にしたのも、アマゾネス軍団に力を持たせておきたくなかったからだろう。
子供を抱えた女は真剣で、良識的で、しかも女同士が団結しやすい。だからこそ、市民社会は女たちの望むように進化した。
今は最高幹部会が《ヴィーナス・タウン》を後援しているとはいえ、それはあくまでも、少数派の女たちを快適に過ごさせるためだ。市民社会から、もう少し女を呼び込みたいとしても、女を辺境の多数派にしようとは思うまい。
それともいつか、その変革を認める時が来るのだろうか。そのいつかとは、ハニーとその周囲の女たちがもたらすのだろうか。
ハニーは早速、自分の庇護者である二人の大幹部、リュクスとメリュジーヌに面会を申し込んだ。二人とも、最高幹部会の重鎮だ。過去、ハニーが商売上の大きな決断をする時には、必ずこの二人に相談してきている。
二人からは、じかに会うとの返答が来た。それは、この計画を重大なものと受け止めた証拠だ。
一週間後、《アヴァロン》のセンタービルの一室で開かれた会合には、俺とショーティも参加した。
ハニーを一人で、危険かもしれない場に送り出せない。リュクスたちが何か決断したら、ショーティにも止められないと、承知してはいるが。
ただし、ソファ席で女幹部たちと相対しているのは、薄紫のドレス姿のハニー一人で、俺とショーティは片隅の席に追いやられている。あくまでも、ハニーの添え物という扱いだ。
「あなたの提案は、確かに有望だわ」
背の高い金髪の女が、口を開いた。青い目に合わせた青いドレスを着て、どこか、故郷の一族の前総帥を思わせる威厳がある。
「できるものなら、その計画を進めてほしいところよ。けれど、わたしたちの予定表では……それは、別の改革者にさせたいの」
ハニーはわずかに眉を曇らせたが、静かに尋ねた。
「もう、その方から、計画が提出されているのですか?」
リュクスの斜め横にいる、ふわふわのプラチナブロンドの女が、ゆったり答えた。
「いいえ、そちらはまだ、準備段階に過ぎないの。うまくいくかどうかは、未知数よ。人材の育成には、不確定要素が多いわ」
硬質な美貌のリュクスに比べ、こちらは妖艶タイプだ。白いドレスに薔薇色のストールを巻いて、華麗な姿だが、どちらの女にしても、恐ろしすぎて男を萎えさせる。
「けれど、あなたの《ヴィーナス・タウン》とそちらの子育て村、この二つは別の流れにしておきたいの。どちらかが失敗しても、どちらかは残るようにね」
保険をかけている、というわけか。
「わたしたちも、辺境がこのままでいいとは思っていないわ。年月はかかるけれど、いずれは辺境にも、市民社会の良識が浸透するでしょう」
おい。良識を重んじているとは知らなかったぞ。俺を裸で檻に入れ、相棒の命を盾に脅迫してきたのは、おまえたちじゃなかったか?
「そのためには、多方面からの影響が必要だわ。ハニー、あなたがいかに優秀でも、あなたの影響だけでは弱いのよ。あちこちで、別々の改革が始まる方がいいの。いつか、その流れが合流する時までね」
ハニーは考え、確認する。
「改革の役割分担をせよ、ということですか。いずれ誰かがしてくれることなら、わたしはそれを待てますが……お目当ての人物が失敗したら、次はわたしに機会を下さいますか?」
今度はリュクスが答えた。
「その時は、また相談しましょう。わたしたちは、あなたを〝こちら側〟の人材だと考えています。今日はちょうどいい機会だから、腹を割った話をしようと思うの。辺境の現状について、そして未来についてね」
ハニーはけげんな顔をした。
「わたしはシヴァやショーティに守られてきただけで、自分自身には何の力もありません。未来の話なら、彼らも一緒に」
そして、心配げに、俺たちの方を窺う。妖女たちは、笑って軽く手を振った。
「彼らはあなたのおまけよ。《ヴィーナス・タウン》はあなたの事業だわ。あなたが推進してきたのだし、部下たちはあなたを信頼して従っている」
その通りだ。ハニーは紅泉や探春と比較しても、遜色ないほど素晴らしい女だと思う。戦士ではないが、理想を持ち、人を率いる力がある。そう、指導者なのだ。
「今はあなた自身が、辺境の重要人物なのよ。だから、わたしたちに近い立場でものを考えてほしいの」
ハニーは戸惑ったようだ。しかし、ここはリュクスたちの言うことが正しい。
《ヴィーナス・タウン》はもはや、ただのファッション・ビルではない。辺境の女たちの灯台のような存在になっている。ハニーが何か発信すれば、ただちに全宇宙に広まるだろう。
俺に問いかける視線を投げてきたハニーに、黙って頷き返した。俺は番犬でいい。それは、名誉ある立場だと思っている。
それを見て取り、リュクスが説明を続けた。
「わたしたちはこれまで、大組織の実態を外部に隠してきたわ。意図的に、慎重にね。辺境の人口約三十億のうち、およそ半分が六つの大組織に所属しているけれど、どこも自分たちの星系を厳重に確保しているから、部外者がそこに侵入することはない。交流があるとしても同格の大組織同士のことだから、外部に内実が知られることは、ほとんどなかったのよ」
俺はやや、興味をそそられた。いったい、どんな実態を隠してきたというのだ。
市民社会の映画や小説では、大組織は常に邪悪な独裁帝国として描かれてきた。バイオロイドを奴隷として使い捨て、人間たちには過酷な競争を強いて、負けた者は洗脳されたり、処分されたりする。
だが、もしも、そうではないというのなら?
「大組織は、停滞しているの」
ああ!?
「長年、辺境に君臨してきたおかげで、安心しきって、たるんでいるのよ」
「確かに、資源も技術もあるわ。でも、大きな飛躍はもう生まれないでしょう。不自由のない生活からは、覇気というものが失われるの」
意外な言葉を聞いた。図体ばかり大きくて、役立たずの組織だというのか。
俺の故郷の一族は、六大組織に準じる老舗組織だと思うが、堅実で勤勉だった。そこからしても、大組織は、それを上回る厳しさで運営されているのだろうと思っていたのに。
だが、リュクスもメリュジーヌも、苦い真実を認める顔だ。
「それは近いうち、あなたの目で見てもらいます。シヴァを連れていって構わないから、ゆっくり現場を見て回るといいわ。辺境の未来は、たるんだ大組織ではなく、先鋭的な中小組織にかかっているのよ」
ハニーは集中し、真剣な顔で聞いている。
「地位を築いた組織は、やがて硬直化したり、怠惰になったりしていくの。それは、どう工夫しても止められなかった。人は成功すると、そこに安住してしまうの。だから常に、清新な人材が必要なのよ。あなたのようにね」
とメリュジーヌ。
「あなたに期待をかけてはいるけれど、改革は、少しずつ進めるしかないの。まだ多くの男たちは、男の優位を疑っていない。そして、それを失うつもりもない」
ああ、そうだろうよ。
「だからあなたたちは、彼らが、たかが女の洋服屋、と思っているうちに、少しずつ根を張るしかないの。いま、商売として子育て環境を提供することは、やりすぎになるわ。もう少し、待ってちょうだい」
「はい、それはわかりました……」
ハニーは用心深い態度でいたが、次の言葉で驚いて顔を上げた。
「ただし、あなたが部下の女たちに、そのような福利厚生を提供することは止めません。あくまでも、組織内の制度に留め、外部に宣伝しないのならばね」
「ありがとうございます!!」
ハニーは顔を輝かせたし、俺もほっとした。それだけでも、組織内の士気が違ってくるだろう。伴侶が得られなくても、子供がいれば、それだけで幸せになれる女は多い。
そもそも、女を何十年も満足させられる男など、どれほどいるか。
「本当はね、わたしたちも、それを願っているのよ。女たちが、辺境で自由に子供を育てられたら、大きな地殻変動が起きるわ。ただ、わたしたちは二人しかいないの。他の十人の大幹部は、男なのよ」
とリュクスは無念をにじませて言う。この女たちが、人間らしい態度を見せるとは。これが演技なのか、それても、これまでの冷血ぶりが演技だったのか。
「辺境の男たちは、女を自由にさせたくないの。それをしたら、市民社会と同じことになるからよ」
とメリュジーヌ。ああ、それはわかる。
「弱い男は、自分が女に選ばれないことに耐えられない。強い男は数が少ないから、多数の弱い男たちの怨念を無視できない。でも、それは時間の問題に過ぎないわ。何度潰しても、女たちは革命を起こすから」
それは、リアンヌのことか。その前にも、同じようなことがあったのか。今はハニーで、次はまた誰かが立つというのか。
「その革命を、期待なさっているのですか」
とハニー。
「ええ、そうよ。わたしたちは、あなたを見つけて守ってきた。他にも何人か、期待をかけている女たちがいるわ。こっそりと手を差し伸べて、助けたり守ったりしているのよ」
「それでは、〝リリス〟の他にも、そういう女たちがいるということですね……?」
「もちろんよ。次世代のスター候補は、何十人も用意しなければならないわ。そのうち誰が成功するか、やってみなければわからない」
「だから、あなたはもう少し辛抱してちょうだいね。いずれ、改革の流れが大きな大河になるまで」
年長の女たちの言葉で、ハニーはだいぶ明るい顔になった。
「他にも戦う女がたくさんいるのなら、心強いですわ」
「その女を支える男もね」
メリュジーヌの一言に、俺は口許を引き締めた。俺のように、喜んで番犬を務める男か。そちらの方が、よほど稀有ではないかと思えるが。
ハニー編7に続く
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