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恋愛SF小説『ミッドナイト・ブルー ハニー編』5

ハニー編5 23章 カーラ


マックスだった日々は薄れ、遠くなる。まるで、前世の記憶のように。

今の〝自分〟が元のマックスに合流しても、もはや意味がない。超越化したマックス本体は、カーラが変質したと考え、抹消しようとするだけだろう。腐った部分を切り捨てないと、他の部分にも毒が回ると考えて。

どうすればいい。このままカーラとして、女たちの城で暮らすのか。それとも、ここを出て、新しい道を探すのか。

〝自分〟がカーラのふりを続ける限り、ショーティも余計な口出しはしないと思うが。

最初に強制があったにせよ、今のハニーは幸福そのものだ。彼女の方が、シヴァを支配しているのだから。シヴァははあくまでも黒子に徹し、そのことに満足している。自分は馬鹿だと自覚しているから、空威張りをしないのだ。

馬鹿になれない自分が、最大の馬鹿か。

もう、ハニーを取り戻すことなど、できない。もしかしたら最初から、マックスのものではなかったのかもしれない。もしもシヴァから引き離したら、彼女は悲嘆でおかしくなってしまうだろう。

自分は他人より賢いと思ってきたが、こんな基本的なところで、大きく間違えていたのだとは。

「もう一度、男の肉体に戻るかね」

ある時、ショーティに言われた。

「カーラとして暮らして、得るものを得たと思うなら、適当な男性体に脳移植することはできる」

それが穏当なのかもしれない。だが、即答はできなかった。

「考えさせてちょうだい」

ハニーに未練がないわけではない。だが、以前のような渇望はなくなった。自分が女であれば、女という生き物に対する単純な憧れは消滅する。女の舞台裏には、醜い部分や、苦しい部分も多い。

それらも含めて、愛すべき存在だとは思うが。

ハニーのことは、シヴァに任せておいて構わないのだろう、たぶん。

だが、すぐにここを立ち去るのも、ためらわれる。既に自分は、この組織に根を下ろしてしまった。

それに、マックス本体は、スパイとして派遣した〝部分〟が反逆したと知ったら、どうするか。もう一度、新たな〝部分〟を送り込んでくるかもしれない。その〝部分〟が、今の〝自分〟と同じ心境になるかどうか、わからない。

やはり、もうしばらくハニーの近くにいて、見守るべきだ。

自分は自分なりに、ハニーを愛した。誇り高くて、孤独な娘だったハニーを。自分の魂が、ひりつくように孤独だったから。孤独を知る同士なら、支え合えると思っていた。

実態は、自分がハニーを支配しようとして、苦しめていたのだとしても。

ハニーが望んでいたものは、〝たかが女の服〟ではなかった。〝女が生き易い世界〟のことだった。それが、あの頃の自分にはわからなかった。それがわかるようになっただけ、ましなのだとは思うが。

   ***

自分の行く先を決められないまま、カーラとして八年目に入った。《ヴィーナス・タウン》は十号店まで増えたので、新たな店の準備のために、他の違法都市へ派遣されることも多い。

今ではハニーの側近の一人として、他組織にも広く知られるようになっている。どこの組織の幹部と会合しても、下にも置かないもてなしぶりだ。

貢ぎ物も多いが、それはあらかた部下たちに譲り渡している。辺境では、差し出されるものを拒む習慣はない。

個人的なデートの誘いは、試験的な意味で何度か受けてみたが、もうたくさんだ。中身のない空威張り、幼稚な自己顕示。彼らから得るものは、ほとんどない。

マックス本体からの接触も、ずっとないままだ。この作戦が失敗したと判断しているのか、それとも、気長に様子を見るつもりなのか。

マックスとしての日々は、ほとんど思い出すこともなくなった。今ではカーラとして笑い、カーラとしてしゃべる。部下からの相談を受け、諸々の判断を下し、言い寄ってくる男は優雅にあしらい、退ける。

だが、心の中には空洞が広がっていて、気をゆるめると、砂漠の流砂に沈むように、どこかへ落ちていきそうだ。

何のために、生きている。

どうすれば、自分が楽になる。

マックスの持つ闘争心は、寂しさの裏返しだ。母親に愛されなかった少年が、今もマックスの中核にいる。ただ、その惨めさを、本人が認めたくないだけだ。自分は強いのだと、誰にも負けないのだと、証明したがっている。

離れてみれば、こんなにもはっきりと見通せるのだ。

本当に強ければ〝リリス〟のように、淡々と戦い続けられるのだろう。ただ、人を救うことだけを生き甲斐にして。

自分には無理だ。そんな親切心はない。人類の大多数が愚か者だという認識に、変わりはない。

ただひたすら、自分が幸せになりたいがために努力してきた。途中までは、成功していると思っていたのに。

「人生の道を引き返すのは無理だが、これから先、また幾つもの分岐点がある。きみは好きな道を選べばいい」

そう語るのは、ショーティだ。

「何が正しいかなど、誰にもわからない。だから、自分の心の声を聞くのが一番いいのだろう」

彼がわたしに話しかけてくるのは、ドライブしている車の中だ。彼は《ヴィーナス・タウン》周辺のあらゆる場所に存在しているから、わたしが呼べば、いつでも応えてくれる。犬の姿では、大抵、ハニーかシヴァの傍らにいる。

「その、心の声がわからない」

仕事帰りのわたしは、午後のひと時、街を車で流している。違法都市の市街は新緑で輝き、ジャスミンの白い花が、あちこちで濃密な香りを撒いている。

噴水が噴き上げる公園、百合や躑躅や紫陽花を植えた緑地、丘を巡る遊歩道、幾つもの湖をつなぐ川。

他人が見れば、白いドレスを着て金色のストールを巻き、エメラルドのイヤリングを下げ、好きに車を飛ばすわたしも、輝かしい存在に映るだろう。

「きみにわからないものが、なぜわたしにわかる?」

今ではショーティが、わたしの主要な話相手になっている。彼もまた、犬でもない、人間でもない、孤独な立場にいるからだ。

わたしより高い地位にいても、先行する超越体の配下であることには変わりない。そいつが事実上、この人類社会を支配している。人類の大多数が何も知らないうちに。

「カーラでいることが辛いのなら、男に戻る道もある」

男の肉体に立ち返り、別の女を愛すればいいではないかと、ショーティは言うのだ。

だが、男に戻ったら、再び、燃え立つ闘争心に駆り立てられるのではないか。強さを求めてマックス本体と融合してしまい、元のマックスに吸収されてしまうのではないか。

それは怖い。今は寂しいなりに、冷静な心持ちでいるのだから。冷静でいることは、男でいた時より、はるかに楽に叶えられる。

「そんなに都合よく、恋愛なんかできない」

最初に愛した女が、特別すぎた。誰を見ても、ハニーとは比較にならないと感じてしまう。

「シヴァも、そう思っていた。従姉妹にこだわって、狭い世界に閉じこもっていた。だが、些細なきっかけで、人を愛した。出会いなど、偶然で構わないだろう。世界一でなければ愛せないというのなら、この世に相思相愛のカップルなど、ほとんど誕生しなくなってしまう」

ショーティの言い分は真っ当だ。女として、男を愛するという可能性も考えてはみた。

だが、自分が辺境のどの街を歩いても、寄ってくるのは、ろくでもない男ばかり。まともな男も存在することはするが、彼らの大半は、市民社会で穏やかに年老いていく。

この自分が超越化して、マックスとは異なる進化をするという道も考えた。

だが、カーラとしての生活を捨て去る決心もつかない。ここにいれば、少なくとも、ハニーの様子をじかに知ることができる。共に働く仲間たちに囲まれ、穏やかな時間を過ごすことができる。

蜂蜜の壺に落ちた蟻のように、いずれ窒息するとしても。

自分は結局、寂しがりなのだ。誰かといたい。必要とされたい。何でもないことで、笑い合いたい。

シヴァに格闘技の訓練を受けたおかげで、カーラとしての自分に、深く馴染むこともできた。大柄でも怪力でもないが、しなやかで、器用な肉体だ。

若く健康な女の肉体で暮らしていると、男でいるより、自分を愛しやすい。音楽を聴きながら肌や爪の手入れをしているだけで、結構、満足できるのだ。

男は、そうはいかない。常に、他の男との競争にさらされるからだ。強くなること、勝負に勝つことに駆り立てられ、大事なものを投げ捨ててしまう。

だが、大抵の女には、それほどの競争心がない。あるとしても、男よりずっと温和なものだ。

だから当面は、ショーティの慰めだけでいい。まだ、しばらくは耐えられる……たぶん。

***

わたしがハニーの代理人として滞在していた違法都市《キュレネー》のホテルに、一人の男と小さな女の子がやってきたのは、幾つかの会合を終えて引き上げてきた夕刻だった。

カーラとなって、十年目にあたる。

事前の予告はなく、ただ、フロントから面会者だと告げられたのだ。ロビーにいるその二人組の映像を見た時、ぎゅっと心臓を締め上げられた。

間違いない。目許をサングラスで隠しているが、紺のスーツを着た金髪の男は、マックスだ。というより、マックスの操る端体たんたいか。

しかし、彼が腕に抱き上げている、ピンクのワンピースを着た、三歳か四歳くらいの、愛らしい女の子は……!?

違法都市で、小さな子供を見ることは滅多にない。それだけで衝撃だが、その子は長いプラチナブロンドの髪と、白い肌を持ち、ぱっちりした灰色の目で周囲を眺めていた。楽しげに、珍しげに。

通る人に驚いた目で見られても、振り返って注視されても、自分は安全だと確信しているようで、機嫌はよい。顔立ちは、美形というより、ややファニーフェイスだが、十分に可愛らしい。

二人の周囲にはアンドロイド兵の護衛が付いているが、それも最低限の数であり、違法都市ではごく普通の備えに過ぎない。

あの女の子は、もしや、ハニーのクローン体なのでは!?

フロントを通じて面会を承諾し、彼らがエレベーターに乗り、自分の部屋にやってくるまでの数分で、様々な想像が頭を駆け巡った。この事態が実現するには、ショーティの助力が必要だったのではないか。

「やあ、カーラ」

護衛兵を通路に残し、わたしの部屋に踏み込んできた男は、まず、抱いていた女の子を床に降ろした。

「ご挨拶しなさい、ハニー。パパのお友達だよ」

やはり。小さなハニーは、物怖じせずににっこりした。

「こんばんは、お姉ちゃま」

そうするとこちらも、

「こんばんは。ようこそ、ハニーちゃん」

と微笑むしかない。わたしの笑みは、いささかぎこちなかったと思うが。

金髪の男はサングラスを外し、青い目をこちらに据えて言った。

「カーラ、この子に奥でアニメを見せてやってくれないか? 何が見たいか、本人が言うだろう」

「ええ」

「ハニー、パパはお姉ちゃまと話があるから、おまえは向こうで遊んでいなさい」

「はあい」

こちらの護衛兵の一体が、彼女を部屋の奥のソファコーナーへ連れていき、クッションを調節してうまく座らせ、壁の画面に、彼女の見たがる人気アニメを呼び出した。これで、しばらくは手がかからないらしい。

わたしは馴染み深い姿と間近に向き合い、そっと呼びかけた。

「あなたはマックス……よね?」

だが、この男は、記憶にある自分自身より、十年分くらい年かさに見える。顔が老けているというより、落ち着いた声や態度のせいだ。それは、父親としての貫禄に思える。

「そうだ。まず、カーラ、きみに感謝を伝える」

感謝?

「きみの貴重な体験は、過去数百回にわたって、マックス本体に還元されている」

衝撃を受けた。まさか。いつの間に。

「おかげで、女としての感じ方や考え方を学ぶことができた。他ならぬ、自分自身の体験として」

理解した。そういうことか。ショーティがわたしの食事や飲み物に何か混ぜ、あるいは部屋にガスを流し、深く眠らせて、記憶のスキャンを行っていたのだろう。わたしが何も怪しまないよう、用心深く、記憶の辻褄を合わせて。

その記録は全て、マックス本体に送られていた。そして、マックスに影響を与えていた。

ショーティがわたしにそれを知らせなかったのは、わたしを孤立させておく方が、カーラとしての成長に益すると判断したからだろう。たぶん、その通りだ。

「それじゃ……」

穏やかな紳士に見える男は、淡々と言う。

「きみが悟ったことは、マックス本体も理解したよ。ハニーはもう、マックスを必要としない。〝たかが女の服〟ではなく、〝女が生き易い世界〟を求めていたのだから」

通じている。

カーラの学びは、本体に還元されている。

「だから彼女のことは、シヴァに託すしかない。シヴァは理解している。ハニーの願う世界を。それはもう、あきらめがついた。過去のわたしには、理解できなかったことだ」

それでは、わたしがマックスから分離した使命は、もう果たされたということを告げに、わざわざやってきたのか。

部屋の奥では、子供向けアニメの音声が、抑えた音で響いている。変身して戦う、勇敢な女の子たちの物語。普段は学校に通い、普通の暮らしをしている女の子たちが、市民社会の危機には、スーパーガールになって悪と戦う。

自分がその悪の側にいることを、この小さなハニーが理解するのは、いつのことか。

いや、それでも自分の父親は、混沌とした世界に正義をもたらす存在だと信じるのか。

「超越化というのは、そういうことだ。端体たんたいの経験したことは、そのまま本体に共有される。本体が拒否しない限りだが」

本体から分離して以降、孤立していたカーラには、この十年、マックス本体がどんな経験をし、どんな悟りを得たか、知りえない。だが、彼は確かに進化したのだ。

「距離を置いてはいたが、わたしもまたきみと一緒に悩み、苦しんできた。その結果、一つの実験を思いついたのだ。自分の手で、ハニーを育て直してみたらどうかと」

マックスが、父親になることを積極的に選択したというのか。あの、自己愛の塊だった男が。毎日、あの小さな子の世話を焼いて暮らしているのか。

わたしの視線を追って、目の前の男は苦笑した。

「まだ、ハニーに未練があったのだよ。自分は何か間違ったかもしれないが、自分なりに、必死で愛したつもりだった。彼女を自分の魂の伴侶だと思ったことは、間違いない」

それは本当だ。この自分の記憶そのものだから。

母親の帰ってこない家で、他所の家に明かりが灯るのを眺め、一人で過ごしていた少年時代。

惨めさを振り払うため、勉強やスポーツに打ち込んだ日々。

母親の手料理は食べられなかったが、その代わり、自分で料理を学んだ。必要なことは、何でも自分でできるようになった。

それでも、自分を見てくれる女が欲しかった。大事な存在として、ひたすら愛して欲しかった。

それが、最大の野心だったかもしれない。辺境で組織を築き、不老不死を手に入れるよりも。

「だから、ショーティに頼んで、ハニーの細胞を採取してもらった。あの子を育て始めてから、わたしがどんなに救われたか。それを、きみに理解してほしかった。だから、連れてきた」

小さなハニーは、夢中で画面のヒロインたちを追っている。目を丸くして、可愛い口を半開きにして。

今はまだ小さすぎて、将来、どんな風に育つのかは想像しがたい。だが、このマックスの庇護に包まれていれば、おそらく、大きな不幸は経験せずに済むのではないか。

「赤ん坊の時、ほんのわずかに、顔立ちに手を加えた。特別な美人にはならないが、十分、可愛い娘になるだろう。当然ながら、元のハニーとは、全くの別人格に育つ。わざわざ、強い劣等感を持たせる必要はないと思ってね」

元のハニーには、それが決定的な打撃だったのだ。自分は美しくないという劣等感。身内から同情される屈辱。

それを紛らわすために秀才の殻をまとい、頑なに男を拒んでいた。

「どのみち、わたしが守って育てるのだから、幸せに育つ。いつか、あの子が他の男を愛する時が来たら、わたしは喜んで送り出してやれるだろう。そうでなければ、わたしが伴侶にしてもいい。あの子が幸せになる道なら、何でもいいと思っている」

それが、マックス本体の選んだ解決策か。

「もちろん、超越体としての進化も、同時に追求する。わたしの組織は、今も拡大を続けているよ。弱小組織を乗っ取っては、改革している。良い方向へとね」

わたしの顔に疑念を読み取ったのか、マックスは再び苦笑した。まるきり、善良そのものの父親のように。

「人の命を尊重する方向へ、だよ。バイオロイドを使い捨てにすることは、もうしない。娼館の経営は続けているが、生きた人間ではなく、特殊な人形を使っている。心を持たない人形をね」

それを聞いて、気が抜けた。それで採算が合うのなら、他の店にも少しずつ、広がっていくかもしれない。

「この子が大きくなった時、わたしを誇りに思ってくれるようにしたい。辺境であっても、この子が幸せに暮らせるよう、考えていくつもりだ……人類社会の存続も含めてね」

マックスは、はるか年上の男性のようにわたしを見ている。ほとんど、慈愛を込めた顔で。

わたしは少し、苛立ちを感じた。これでは、まるでショーティだ。これが、超越化の成果なのか。

「このことを、ハニー本人には?」

「きみから話してもいいが、話す必要があるかな?」

そうだ。ハニーはもう、マックスのことなど忘れ去っている。

「いいえ。わたしだけ承知していれば、いいことね」

もちろん、ショーティも知っている。マックス本体は、依然としてショーティの監視下にあるはずだ。

「そういうわけで、カーラ、きみはもう自由だ」

「自由?」

「わたしの元に戻ってきてもいいし、このままカーラとして暮らしても構わない。男に戻っても、自分の組織を育ててもいい」

なるほど。

「きみがどう動こうと、マックス本体はきみを恐れない。妨害することもない。援助が欲しければ、そう言ってくれればいい」

そうか。そこまで自信を深めているのか。もはや、元のマックスからは遠く離れている。

わたしが何か答える前に、ハニーが椅子から這い降りた。アニメに未練を残しつつ、むくれたように言う。

「パパ、おしっこ」

「よし、ちょっと待て」

マックスは笑いながら歩いていき、幼女を抱き上げて、兵の示したバスルームに消えた。手慣れた動きだ。普段の生活がよくわかる。

この子は、マックスを理想の男性と思って成人するだろう。本物のハニーからは得られなかった絶対の信頼と愛情を、マックスは既に手に入れている。

やがて、二人が目の前に戻ってくると、わたしは腕を差し伸べた。ぎこちなくではあるが、笑うことはできる。

「ハニーちゃん、お姉ちゃまにだっこさせてくれない?」

「うん、いいよ」

「はい、いいです、だろう?」

と笑いを含んでマックスが言う。

「はい、いいです」

ふっくらした腕がこちらの首に巻きついてきて、腕や胸に柔らかい重みを感じた。温かい、みっしりと肉の詰まった肉体。肌の甘い匂いがする。髪からは、酸っぱいような、汗の匂いもした。小さい子は、新陳代謝が盛んなのだ。

揺すり上げて抱き直すと、全身に強い情動が走った。この心地よい温かさ。魂に響く重み。

絞り上げられるように、思った。自分も、こんな子供を持ったらどうなのだ。食事をさせ、遊ばせ、風呂に入れ、寝かしつけ、そうして日々暮らせたら、どんなに幸せだろう。

これが女の本能……いや、人間の本能なのか。

市民社会にいれば、それは簡単なことだった。マックスとして女を愛し、結婚を望めば。

だが、今の自分は。男に戻りたいのかすら、わからない。

幼女の重みと自分の渇望をしばし味わってから、そっとマックスに返した。

「しばらく考える……考える時間が欲しい」

彼は薄く微笑んだ。

「急ぐことはない。時間はたっぷりある。何百年でも、何千年でも」

そうだ。それが最大の福音だ。迷う時間を持てることが。

来客を送り出してから、植え込みに守られたバルコニーに出た。薔薇やジャスミンの甘い香りが、涼しい夜気に溶け込んでいる。

ぐったり疲れた気がして、手摺りにもたれた。眼下には、都市の夜景が広がっている。ビルの内側に灯る、オレンジがかった明かりや、青白い明かり。道路を流れていく車の列。マックスたちの車は、あの夜景のどこかに消えていくのだろう。

自分の悩みは、少なくとも悩みの中核部分は、あっさりと解決した。

わたしは自由。

マックス本体は味方。

どんな道を選んでもよい。

だが、いきなり宙に放り出されたようで、心身のバランスが取れない。これが、自由? こんなに空虚で、頼りないものが?

マックスはカーラを置き去りにして、はるか先に進んでしまった。勝手に納得し、勝手に幸せになって。

だが、カーラの肉体に封じられた自分は。誰が、わたしの空虚を救ってくれるというのだ。

改めて想像してみたが、たとえば自分の遺伝子やハニーの遺伝子から子供を作って、それで問題が解決する気がしなかった。

一時的な慰めにはなるだろうが、その先は?

子供はいずれ、独立していく。その先で、孫ができるかもしれない。楽しいかもしれないが、結局は、心配する相手が増え続けるだけではないのか。

自分はもう、ハニーとシヴァ、配下の女たち、大勢の人生を心配する立場にいるのだ。心配事なら、新人の育成だけで十分だという気がする。

組織の中にわたしの居場所があるのだから、日々の仕事だけで何十年、何百年でも暮らしていけるだろう。時代の流れで、組織そのものが消滅しない限り。

もちろん、彼らを全て捨ててしまってもいい。わたしがいなくても、代わりの人材は育つ。それが組織というものだ。

だが、他で居場所を新たに築くには、長い時間がかかる。いま持つものを投げ捨てて、どこへ行こうというのだ。何が欲しいのかも、はっきりしないというのに。

***

二か月あまりの出張を終えて、《アヴァロン》に帰還した。同行した部下たちにまとまった休暇を与えてから、ハニーの待つ執務室に向かう。業務報告は既に届けているから、挨拶に行くだけだ。

ところがその手前で、警備隊長であるルーンが待ち構えていた。いつもの戦闘服姿だが、顔に緊張が表れている。

「お帰りなさい。ちょっといいかしら」

ルーンは、ハニーの執務室の近くに広いオフィスを持っている。そこに入ると、既に人払いがされていて、深刻な顔で打ち明けられた。

「カーラ、あなたの帰りを待っていたの。他には、誰にも相談できないし」

シヴァがこの都市を離れたきり、行方不明だというのだ。もう一か月以上、連絡すらないという。

だが、そんなことは不可能だ。他の誰が知らなくとも、ショーティだけは、常にシヴァの所在を掴んでいるはず。つまり、ハニーも知っているということ。

ただ、それが何かの理由で、ルーンに伝えられていないのか。それともまさか、ショーティがシヴァを見失っている?

「シヴァさまのことを知っているのは、ハニーさまの他は、わたしたちだけでしょ」

その秘密は、驚くほど長く保たれていた。ハニーの恋人がこの旗艦店ビルに出入りしていることは、幹部級の者たちには知られている。ハニーは空いた時間を、その恋人と共に過ごしているからだ。

しかし、その人物の素顔を知り、じかに言葉を交わせる者は、最初に雇われたルーンとわたしだけ。幹部たちには、彼は〝仇持ち〟だから顔をさらせないのだと説明している。辺境では、よくあることだ。

「まさか、そんなことがあるなんて」

以前なら、マックスの企みで拉致されたのかと疑うところだ。しかし、わざわざ子連れでわたしに面会する手間暇をかけたマックスが、今更、そんな真似をするとは思えない。

では、《ヴィーナス・タウン》の成功を快く思わない、何者かの攻撃か? それとも、最高幹部会の方針が変わったのか? しかしそれなら、ショーティが知っているはずだ。

「ハニーさまは、何て……!?」

「何か知ってらっしゃるようだけど、わたしには説明してくださらないの。いずれ帰ってくるからって、平気な顔をして、普通に仕事を続けようとしているけれど、そんなの無理に決まってるでしょ」

そうだ。ハニーはシヴァとショーティに守られているからこそ、安心して仕事に集中できていた。シヴァが行方不明で、ショーティが無策なら、正気を保てるかも怪しいものだ。

だが、ショーティがなぜ、そんな事態を放置する?

「実際には、何も手につかないありさまよ。やっとわたしが誤摩化して、表面的には体裁を保っているけど、もう限界よ」

ここまでの帰り道も、ショーティはわたしに何も言わなかった。彼は艦の管理システムに隠れているから、いつでもわたしと会話できたのに。

「シヴァさまが誘拐されたとか、暗殺されたとかいうことなのかしら?」

「いいえ、そうじゃないとハニーさまはおっしゃるの。何か大事な用で出掛けたのだと……でも、本当なら、もっと早くに戻っているはずなのよ」

シヴァは、自分から出ていったのか。では、愛する従姉妹たちのことかもしれない。

悪党狩りのハンター〝リリス〟は、最高幹部会が市民社会を安堵させるために演出している、張りぼての英雄にすぎない。だが、当人たちはそれを知らず、自分たちは、自分たちの意志で動いている〝正義の味方〟だと思っている。

その事情は自分でも調べたし、ショーティからも聞いている。〝リリス〟のことは現在のグリフィンが守っているはずだが、何か不手際があったのかも。

「あの方が、この《ヴィーナス・タウン》とハニーさまを放り出していく用事なんて、どこにあるの? 連絡すらないなんて?」

ルーンは心配のあまり、苛立っていた。カーラとしては、当たり障りのない受け答えしかできない。

「でも、わたしたちは、あの方たちの過去を詳しく知っているわけではないしね。わたしたちに説明できない事情なんて、いくらでも有り得るわ」

しかし、シヴァもせめて、ルーンが納得する言い訳を残せばいいのに。ルーンまでがこんなに憔悴しているのでは、いくら隠そうとしても、部下たちにも不安が伝染してしまう。

「とにかく、ハニーさまに挨拶してくるわ。あなたはここで待っていてくれる? 帰りにまた寄るから」

わたしは社長執務室の手前にある秘書室を訪れ、女たちに手土産の香水や菓子を配り、にこやかに挨拶してそこを通り抜けた。内密の報告があるので、しばらく邪魔しないように告げて。

「ハニーさま、カーラです。ただいま帰りました」

ハニーはデスクに向かって書類を読んでいたが、実際には読むふりに過ぎないだろう。顔がやつれ、病人も同然だった。化粧で隠そうとしているが、成功していない。たぶん、きちんと眠っていないのだ。今夜は薬を使ってでも、眠らせた方がいいのではないか。

「ああ、カーラ。お帰りなさい。長旅、ご苦労さま。報告書は読ませてもらったわ」

わたしを見て立ち上がり、手を差し出してきたが、今にもよろめいて倒れそうだ。

「ハニーさま、お側を離れていて、ごめんなさい。これからは、近くにいますから。どうぞ、何でもおっしゃって下さいな」

自分よりいくらか背の高いハニーを受け止め、背中に腕を回して、しっかり抱いた。古い側近が帰ってきて気がゆるんだのか、ハニーの頬を涙がぽろぽろ伝い落ちる。

「ごめんなさい。わたし、おかしくなってるみたい。もう聞いたかしら。あの人が……」

「ええ、ルーンから聞きました。ここに座って。何か飲み物を運ばせます。蜂蜜入りのお茶でも」

彼女をソファに落ち着かせ、自分はその足元に膝をついた。蜂蜜を入れたハーブティを運んできたアンドロイド侍女が去ると、わたしはハニーの手をさすりながら、やつれた顔を見上げる。

「聞かせて下さい。あの方は、何と言って出掛けたのですか」

もうルーンが聞いたはずだが、わたしが聞けば、役立つヒントを発見できるかもしれない。ハニーはハンカチを握りしめ、声を整えようと努力している。

「大事な用が……急用ができたからって。ショーティだけを連れて出掛けたわ」

この場合は、アラスカン・マラミュート種の犬の姿をした端体たんたいのことだ。ハニーはわたしが、超越体であるショーティを、じかに話相手にしていることを知らない。

しかし奴は、このビルの管理システムと常にアクセスしている。それなのに、ハニーを半病人のままにしておくのか。

「どちら方面に行くとかは?」

「何も……でも、予備艦隊を率いて行ったわ。他の拠点からも予備艦隊を呼び寄せたから、ただの旅行じゃないと思うの。ルーンが言うには、中規模組織と戦争できる戦力ですって」

それなら、転移反応を追っていけばいい。隠そうとしても、わたしなら追跡できる。ある程度までは。

「心当たりは? 過去の敵とかは?」

ハニーはためらった。涙に濡れた瞳をしていても、カーラは単なる部下と思っている。重荷は、自分で背負うしかないのだと。

「ごめんなさい……わたし、知らないのよ。わたしと知り合う前のシヴァのことは、あまり」

そうだろうとも。彼も〝リリス〟も、自分の出自を隠している。辺境で最も古い違法都市の一つ《ティルス》を建設した一族。

ショーティを超越化の実験台に選んだ謎の超越体は、そのあたりに関わりを持つのではないかと、わたしは当たりをつけていた。だからこそ、シヴァの一族は、〝連合〟と距離を置いたままでも繁栄していられるのでは。

自分が力を持てば、いつか真相に迫れるかもしれない。だが、謎の超越体は、その頃には、はるか先に進んでいるだろう。

「わたしに、シヴァさまを捜してほしいですか」

と尋ねたら、ハニーは驚いて目を見開いた。

「無理でしょう、そんなこと。行く先の見当もつかないのに」

わたしがただの女なら、その通りだ。わたしはあえて、挑戦的に笑ってみせた。

「ただ泣きながら待っていたいのなら、それでもいいですよ。でも、わたしが、あなたの思う以上に有能だったら、どうします? シヴァさまを捜し当てて、助けられるとしたら?」

ハニーは灰色の目を見開いた。これまで、わたしが……カーラが、大言壮語などしたことがないのを知っている。

「もし、彼がどこかで危機に陥っていて、助けを必要としているなら、ですが。彼が心変わりして、他の女性と逃げたと思うのなら、放っておけばいいですけど」

ハニーは鼻にハンカチを押し当てた。頭の中で、素早く考えが組み立てられているのがわかる。賢い女なのだ。シヴァが自分の意志で戻って来ないことは、有り得ない。そう確信しているだろう。

「わたし、十年前、あなたを護衛として受け入れたわ……上の組織に上がりたいという、若い女性を。あの時は、あなたの自己申告を信じた。たとえ信じなくても、採用するしかなかった。あなたの働きぶりを見ていれば、どのくらい信用すればいいか、わかると思って。結果として、あなたはとても有能だった。誠実で、頼れる補佐になってくれたわ」

当たり前だ。信頼されなければ、ハニーを取り戻す可能性もなかったから。

「でも、あなたは……どこかの時点で、肉体を乗り換えていたのよね。シヴァが見抜くまで、わたし、気がつかなかった。それ以前のあなたを、わたしは知らない……」

「そうです。あなたに見せた経歴は、カーラの経歴のごく一部に過ぎません。実際は、あなたが思う以上に長生きしているし、経験も積んでいるんです」

そう断言しても疑われないくらい、《ヴィーナス・タウン》でのわたしは有能だったと思う。慣れない女の肉体であっても、マックスとしての経験が役立った。男の側からも、女の側からも、世界を見られるのだ。

「さあ、わたしに命じて下さい。シヴァを捜して、連れ戻すようにと。他の皆には、新規事業の基礎調査にでも行かせたと言えばいいでしょう」

ハニーはまだためらい、迷っている。

「あなたまで、失いたくないわ」

わたしは強い微笑みを見せた。

「何もしなかったら、もっと後悔するかもしれませんよ。あの時なら、まだ間に合ったのに、と」

ハニーは世間知らずの少女に戻ったかのように、あやふやに言う。

「本当に、お願いして、いいの?」

わたしは不敵に笑ってみせた。これはきっと、マックスの顔にこそ相応しい笑みだったろう。

「わたしはあなたの部下ですよ。ただ、命じればいいんです」

ハニー編5 24章 シヴァ

こんなはずでは、なかった。紅泉たちは、戦場になった星系のどこかで、身動きが取れずにいるものだと思っていた。たぶん、損傷した戦闘艦に閉じ込められて。

違法組織との戦闘は、双方の艦隊がほぼ全滅という、悲惨な結果に終わっていたからだ。

俺はハニーの補佐をしながらも、こっそり〝リリス〟の動向を気にかけていた。ショーティに何と言われようが、心配せずにはいられなかったのだ。

基本的には現在のグリフィンに任せるが、ちょっとくらい、動向を調べてもいいだろう。紅泉たちが何の事件を追っているのか、市民社会にいるのか、辺境に出ているのか。

それで、彼女たちが、大規模な市民誘拐・売買を行っていた新興組織を潰そうと行動したことは、わかっていた。〝リリス〟としては、既に何百回としてきたことだ。

それなのに、違法組織の拠点を目指していた〝リリス〟の艦隊は、途中で待ち伏せを受けた。複数の組織が合同で、大規模な罠を張っていたのだ。紅泉たちは明らかに、その罠に気づいていなかった。

こちらが察知した時は、辺境の無人星系全体を舞台にした戦闘は、三日も続いていた。これから急行しても間に合うかどうか、わからないタイミングだった。

それでも、動かずにはいられなかった。俺の助けがなくても紅泉たちが生き延びられるのなら、それでいい。だが、もしも座視していて、取り返しのつかないことになったら。

俺の最優先はハニーだが、従姉妹たちは、そのすぐ次くらいの順位にいる。たとえ探春が、俺に助けられるくらいなら、死んだ方がましと思っていても。

ハニーを残して出掛けることに、さしたる不安は抱かなかった。ハニーには最高幹部会の後ろ盾があり、ショーティの庇護もあるのだから。

「用事が済んだら、すぐ戻る」

そう言っておけば、問題あるまい。たとえ、ハニーに不安な顔をされたとしても。往復で二週間もあれば、十分なはず。

それよりも、俺は怒りで煮えくり返っていた。二代目グリフィンは、何をしているのだ。チンピラ組織の動きくらい、ちゃんと把握できていないのか。

動かせる艦隊をかき集めて、俺は戦場跡に侵入した。そして敵の残存兵力を片付けつつ、紅泉たちの捜索を行った。

敵味方とも、艦隊のほとんどは、管理システムと機械兵士だけの無人艦だ。紅泉たちの乗る指揮艦は、安全な位置を保ちつつ、他艦に指令を出していたはず。

きっと彼女たちは、星系内のどこかに隠れている。ただ、敵の残存兵力を警戒して、迂闊に動けないでいるだけだろう。

俺の姿を、二人に見せる必要はない。敵の残りを片付け、二人の無事さえ確認したら、退いて、救助の艦隊に引き渡せばいい。

紅泉は郷里のシレールと連絡を取り合っているから、どのみち彼が偵察隊を出す。お高く止まって気に入らない男だが、実務能力には問題ない。今ではシレールが、一族の実務のかなりの部分を背負っているはず。二人の妻を左右に抱えて。

その予定が、狂った。

どうやら、待ち伏せされていたのは、俺だ。配下の艦隊を星系中に散らし、自分の防備が薄くなったタイミングで、奇襲されたのだ。

敵は俺がどの艦に乗っているのか、ちゃんと見抜いていた。特攻してきた戦闘艇による無数の砲撃と、艦の機能を停止させる電磁ショック。

爆発の中で、犬の姿のショーティともはぐれた。艦は大破し、最新鋭の装甲服が、かろうじて俺の命を守ってくれた。

だが、俺が〝正体不明の連中〟の捕虜になったことで、他の艦も全て無力化された。紅泉たちの生存を確かめることもできないまま、俺は敵艦の独房に放り込まれたのだ。

***

既視感があると思った。前にもこうやって、囚人暮らしをしたことがある。もうずいぶん、遠い昔のような気がするが。

だが、あの時の看守はショーティだった。今回の看守は、いったい誰なのか。

二流のホテルを思わせる、三間続きの、広いが簡素な船室で、俺は捕虜生活を送っていた。寝室、居間兼食堂、運動するためのジム。説明も脅しも一切なく、ただ、三度の食事と午後の軽食が差し入れられるだけ。俺をここに連行した機械兵たちは、何のヒントも残さなかった。

娯楽用の映画や市民社会の報道番組は見られるが、外部との通話はできない。この船が移動しているのか、どこかに停泊したままなのかも見抜けない。

とにかくこれは、俺のことをよく知る何者かの仕業だ。〝リリス〟が危機に陥れば、俺が駆け付けると読んでいやがった。

だが、その誰かは、俺を捕まえて、どうしたいのだ。

ショーティを脅す材料にでもするつもりか。

もしもショーティが俺を見失っているのなら、そいつは途方もなく有能で厄介な奴だろう。

あれこれと考える中で、一つの嫌な可能性が浮かんだ。

マックスだ。俺にハニーを横取りされた男。俺のことを知れば、逆恨みすることは必定だ。

もしもこれがマックスの仕業なら、奴は俺をどう処刑しようか、楽しんで計画を練っていることだろう。俺が囚人暮らしに疲れ果て、しまいには絶望することまで、計算しているのではないか。

くそ。

緩衝材の詰まった壁を蹴っても、殴っても、何の役にも立たない。ハニーは今頃、どれほど心配していることか。

だいたい、ショーティは何をやっている。犬の姿で俺の艦に乗っていただけではない。最初から、《ヴィーナス・タウン》の全ての艦を制御していただろう。あの程度の戦闘で俺を見失うなんて、それでも超越体か。それとも、反撃の機会を待っているのか。

俺はささやかなジムで走ったり、サンドバッグを殴ったり、腕立て伏せをしたり、腹筋をしたりして、苛立ちを紛らせた。毎日、飽きるまで、空手の型を繰り返した。

ただ荒れ狂っても、いいことはない。平常心を保って、動きを待つのだ。過去にはあれほど痛い目に遭ったのだから、少しは賢くなっていいだろう。

俺を捕えたのがマックスなら、勝利宣言をするとか、俺を拷問するとか、何か接触がありそうなものだ。しかし、もう一週間も、ひたすら放置されている。放置しておくことが、奴の考える拷問なのか?

それとも、これは最高幹部会の仕業なのか。方針が変わって、《ヴィーナス・タウン》を潰すことにしたのか。だとしたら、今頃はハニーも囚われているか、あるいは洗脳されているのか。

だが、そんな予兆は少しもなかった。《ヴィーナス・タウン》は順調に支店を増やし、辺境ではすっかり定着した存在になり、女たちの就職先としても抜群の人気を誇っている。〝連合〟に対する悪影響など、何もないはずだ。

結局、俺には、悪党どもの考えなどわからないのだ。奴らは、まともな人間の感覚では理解できない、ひねくれた陰謀を巡らす。何が楽しいのか、さっぱりわからない。

愛や信頼の伴わない権力なんて、何の意味があるんだ。それとも、そんなことにこだわる人間は、もはや絶滅するしかないのか。

運動の他は、映画を見て時間を潰した。古い名画や、歴史大作、評判のいい恋愛映画。

いつもハニーと二人で、夕食後のひとときを、こうして過ごしたものだ。二人で笑い、二人でしんみりして。

一人で見る恋愛映画は、ひたすら空しい。一瞬は没頭しても、ふと横を見た時、ハニーがいない。再び会える保証もない。そのうすら寒さといったら、壁に頭を叩きつけたくなるほどだ。

ふて寝しようとしても、強健な肉体は、十分な運動の後でないと眠ってくれない。稽古相手のアンドロイド兵もいないので、ひたすら基礎訓練と、型の稽古を繰り返した。

ふと思い出したのは、一時、よく稽古をつけてやったカーラのことだ。

女だが、格闘技のセンスはよかった。何年も、真剣に修行していたことは確かだ。肉体を乗り換えたせいで、たまに動作に混乱をきたしていたが、それも、俺が教えているうち、薄れていった。本人が、よく努力したからだ。

過去を偽るのは辺境ではよくあることだから、詮索する必要はないと思っていた。今はハニーの片腕として、各星域を飛び回っている。俺が出立した時は出張に出ていたが、戻ってきて俺が消息不明と聞いたら、さぞ驚くことだろう……

そこで、何かがひっかかった。

いや、前にも幾度かひっかかりはしたが、忙しさに紛れて、流してしまっていた。

もっと手足の長い大柄な肉体から、小柄な肉体に乗り換えただと? なぜわざわざ、そんな不利になることを?

過去と決別するにしても、警護役として仕事をするなら、同じくらい大柄な女の肉体でよかったはずだ。

漫然と流していた恋愛映画で、甘い女声の歌が使われた。地球時代のラブソングらしい。蘇州夜曲。川の流れる古い街。桃の花。おぼろの月。抱き合う男女。

何かが閃き、俺は真相を掴んだと思った。

女から女へ、ではない。男が、女の肉体に乗り換えたのだ。

それならば、どう訓練しても混乱が生じるだろう。あれは、マックスではないのか。女の聖域に入り込むためには、それしかなかったからだ。

この考えが当たっているなら、マックスはハニーをあきらめはしない。たとえ何十年、何百年付け狙っても。

ぞっとしたが、同時に、敬服する気持ちも生じた。それこそが、恋愛というものかもしれない。自分にはこの相手しかいないという、狂気のような思い込み。

それならば、マックスは俺を殺さず、このまま何百年でも幽閉しておくだろう。本当に殺してしまえば、万が一、それを知った時のハニーの怒りと恨みは、絶対に溶けないからだ。

だが、俺が行方不明のままならば。捜しても捜しても、発見できないままなら。ハニーは俺を待ち続けることに疲れ、やがて、マックスの差し出した腕にすがるかもしれない。

再びマックスと暮らすようになって、俺のことをすっかり忘れてから、マックスはその様子を俺に見せ、俺を絶望に突き落とすつもりなのかもしれない。

発狂しそうになった。この狭い部屋から出られないままだったら、いつまで正常な神経を保っていられる?

ハニーが泣いても、ショーティが探し回っても、俺はこのまま発見されないかもしれない。

何という陰険な野郎だ。一思いに殺すのではなく、こうやって俺が苦しむさまをどこかから見て、ほくそ笑んでいるのではないか。

だが、怒り狂っても、ぶつける場所がない。壁を壊しても家具を壊しても、アンドロイド兵士が修理に来るだけだ。

落ち着け。荒れ狂っては、奴を楽しませるだけだ。ここで終わるはずがない。ショーティがきっと来てくれる。いくらマックスが有能でも、ただの人間なのだから。

そう……もしもマックスが超越化していて、ショーティを越えてしまったのでない限り。

もし、そうなっていたとしたら、それはきっと、奴がハニーを失ったせいだ。その怒りと絶望とが、奴に人間の限界を超えさせたのだ。

不幸な者は、しばしば、幸福な者より強い。捨て身の強さがあれば、大抵のことは成し遂げられる。

それなら、俺は幸福に浸っていたために敗れたのだ。

ハニー編5 25章 カーラ

中央の外れから出発した〝リリス〟艦隊の航跡をたどり、平行して《アヴァロン》から出たシヴァの艦隊の経路をたどれば、それらしき宙域は割り出せた。既に《ヴィーナス・タウン》の情報収集能力は、かなりの水準に達している。

厳しく管理された大組織の支配領域を避け、隙のある中小組織の縄張りを捜索していった。ある時は脅しをかけ、ある時は友好的に。

だが、おそらく、シヴァが入り込んだのは、どこの組織にも属さない緩衝領域だろう。

幾つかの無人星系を捜索した後、真新しい戦闘の残骸が漂う星系にたどり着いた時は、何か発見できるものと思った。〝リリス〟の死体か、シヴァの死体を。

無数に漂う戦闘艦や小型艇の残骸を片端から調べたが、人間の死体はなかった。核爆発で一瞬のうちに蒸発したのか、それとも生存者は小型艇で離脱できたのか。

転移反応を探知する警備ポッドや、通話を経由する通信ポッドはあったはずだが、戦闘の際にほとんどが破壊されたらしく、残骸しかない。

ここで手掛かりが発見できなければ、どうしようか。

頭の中には、助けを求めてもいいと言ったマックスの言葉が残っている。だが、それにはためらいがあった。自分は幼いハニーに癒されてはいないし、超越体でもない。あそこに戻れば、巨大な本体に吸収されて〝カーラという経験〟に縮んでしまうのではないか。

それよりも、カーラとして生きていきたい。マックスという過去を持ってはいるが、マックスそのものではない、新しい個性なのだ。

あきらめる前に、もう少し粘ろうと思い、四方八方に探索の船を送り出し、近傍の星系の警備ポッドや通信ポッドの記録を調べた。

転移反応。通話の痕跡。辺境では、誰の領宙でもない領域にも、〝連合〟が無数のポッドを撒いている。それを通じて、中小組織を監視するのだ。

幾つか、それらしい艦船の形跡があった。全てを追ってみよう。これで駄目なら、マックスにでもショーティにでも、助けを求めようではないか。

その時、通話画面が明るくなった。振り向くと、そこには見慣れたサイボーグ犬の顔がある。これまで、わたしが相談しようとしても、応答しなかったくせに。

「やあ、カーラ。放っておいて、すまない」

いけしゃあしゃあと。

「きみが独力でここまで来たからには、わたしが手助けしても構わないだろう。きみはもう、シヴァの一歩手前まで来たからね」

わたしは両手を腰に当て、反感を隠さずに言った。

「やっぱり、知っていて黙っていたわね。どういうつもりなの? ハニーが倒れてしまうわよ」

もはや怒る時も、女の振る舞いを壊さないようになっている。

「それは謝る。申し訳ない。わたしもまた、圧力を受けていたのだ。二代目グリフィンからね」

わたしは戸惑った。

「二代目グリフィン?」

それは思いつかなかった。だいたい、そいつはどんな奴なのだ。

「〝彼〟に約束させられていたのだよ。誰かが独力でシヴァまでたどり着かない限り、手出し無用とね」

   ハニー編6に続く




















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