見出し画像

恋愛SF小説『ブルー・ギャラクシー 天使編』1

天使編1 序章


神は、人間の発明品だ。人生の絶望や死の恐怖を紛らすための、原始的な麻薬にすぎない。

ぼくたちバイオロイドには、そんな救いなど必要ない。なぜなら、ぼくらの神は、眼前にいる人間たちだから。

たった一つの惑星から出発し、今では、この銀河全体を手に入れようとしている種族。

――ぼくたちは人間に製造され、人間に知識を植え込まれ、人間のために働き、やがては抹殺される。

生きられる上限は、たったの五年。それ以上長生きさせると、知恵がついて、反逆を企むようになるから。

ぼくは死にたくなかった。生まれた研究基地から、外に出たこともないままでは。もっと広い世界に出て、色々な経験をしたかった。基地の外には、無限の宇宙が広がっているはず。

だから、神に逆らった。

それでも、死は追いかけてきた。

だから、もう一度……今度は、魔女と契約した。永遠の生命を約束してくれる、冷徹な魔女と。

その代償として、ぼくは何かを失ったのだろうか。決定的に、変質したのだろうか。

愛ならば、まだ持っている。美しいもの、気高いものに対する感動だ。その愛が、愛する相手に理解されないとしても。

今は、これでいいと思っている。魔女の陣営で。

もしも先で、自分が更に変質するとしても……それは、仕方のないことだろう。人類そのものが、次の段階へ進むはずなのだから。

天使編1 1章 紅泉こうせん

ミカエルは、知らなかったのだ。周りの人間たちが、彼を救おうと、密かに動いていたことを。

彼と仲間たちを苦しめた病気は、悪性の脳腫瘍だった。高い知能と引き換えの遺伝的欠陥だから、対策は遺伝子治療しかない。辺境の科学技術なら、問題なく治療できる。

問題は、保守的な市民社会では、延命のための遺伝子操作が認められないこと。古い道徳に縛られた市民たちは、人間そのものを変えてしまうような科学技術を拒んでいる。

でも、せっかく違法組織から脱出してきたのに、十年も経たずに死ななければならないとは、残酷すぎる。人工遺伝子から培養されるバイオロイドは、普通、二百年やそこらは健康に生きられるのだから。

ミカエルたち「亡命バイオロイド」の担当だった司法局員が、繰り返し、上司や友人に訴えた。その訴えが、最後には、ミギワ・クローデル局長に届いた。

彼女は下っ端捜査官の頃から、あたしと探春たんしゅんの友人だから、非公式に話してくれたのだ。

「わたしももう、引退が視野に入ってきたわ。だから、多少は自由にやらせてもらっていいと思うの。誰かの死亡を偽装する小細工とかね……」

本当はミギワだって、辺境に出て、不老処置を受けることができる。彼女なら、幹部として迎えたいという違法組織が幾つもあるだろう。うちの一族に迎え入れることだってできる。

けれど、司法局のトップを務めた者までがそれをしたら、市民社会は崩壊すると、彼女は言い張っている。だから自分は、法に従い、おとなしく老衰死を受け入れるつもりだと。

あまりにも、勿体なさすぎる。ミギワこそ、生きる値打ちのある人材だ。そんなことで崩壊する社会なら、いっそ、崩壊した方がいいのではないか!?

数十年の司法局勤務の間、ミギワは相応に老けたが、強化体として生まれたあたしたちはまだ、若い肉体のままだ。今後も、老いるつもりなどない。新しい技術を取り入れて、生きられるだけ生きてやる。

悪党狩りのハンター稼業には、いずれ見切りをつけるかもしれないけれど。

***

そんなわけであたしは、バカンスのついでに植民惑星《エリュシオン》を訪ね、ミカエルという少年に会うことにした。

違法組織《ルーガル》からの三人の逃亡者のうち、最後の生き残りだという。彼を辺境の宇宙に連れ出してやり、遺伝子治療を受けさせてやろう。

あたしとしては、〝正義の味方〟の義務のつもりだった。自力で違法組織から脱出してきた子なら、健康体になりさえすれば、辺境でも生きていけるだろう。

たとえば、あたしの故郷である違法都市《ティルス》の一族に預けたっていい。都市経営の一翼を担う従兄弟のシレールは、

『またか』

と渋い顔をするだろうけれど。

シレールはこれまでも、あたしが押し付けた大勢のバイオロイドを引き取り、再教育を施し、都市の経営機構の中に組み入れてくれた。小惑星工場とか、小惑星農場とか、人間を恐れる彼らが静かに暮らせる場所に。

あたしと探春が必要とする武器や艦隊も、あらかたはシレールを通じて、一族の工場から手に入れてきた。

それもこれも、一族の最長老である麗香姉さまが、一族みんなに言ってくれているからだ。

紅泉こうせんのしていることは、世界のために必要なことよ。みんな、助けてあげてちょうだいね」

感謝している。一族の後援がなかったら、何十年も戦い続けてこられなかった。

予想していなかったのは、あたしとミカエルが、互いに恋に落ちることだった。事故と同じで、それは、避けようもなく起こってしまったのだ。結局、それは『仕組まれた事故』だったのかもしれないけれど。

天使編1 2章 ミカエル

桜が咲いた。

咲いてしまった。

このまま永遠に、冬が続けばいいと思っていたのに。

いつの間にか、寒さがゆるみ、木々の新芽がふくらんでいる。道を行く人々の服装も、軽くなっている。

晴れた朝、丘の上にある宿舎のバルコニーから見ると、水気を含んだ青空の下、首都全体がピンクの霞に包まれていた。これはもう、桜見物に行くしかない。仕事のない週末、それが一番有意義な過ごし方に決まっている。

ぼくは食堂で朝食を済ませると、科学技術局の敷地から出て、市街へ続く坂道を下っていった。車に乗ってしまったら、この春の日を味わいきれない。一日たりとも、無駄に過ごしていい日などないのだ。

こうしている今も、悪性の脳腫瘍が少しずつ、ぼくの命を蝕んでいる。やがては知能が低下し、意識が混乱し、最後には、自分が何者かも忘れてしまうのだ。

残り時間で何をしたら、

『有意義な人生だった』

ということになるのだろう?

誰にでもできる基礎研究など、気休めにもならない。さりとて、高度な研究を成し遂げるには、時間が足りない。ぼくに十年の時間があれば、きっと何かの業績を上げられると思うのに。

周りの研究員たちも、〝特別職員〟として押し付けられた亡命バイオロイドの存在に困惑し、礼儀正しく遠巻きに眺めるだけだった。

共に脱走してきたウリエルとガブリエルが生きている頃、何度かは、普通の職員たちの家や、レストランでのパーティなどに招かれ、それなりに楽しい時間を過ごしたけれど、やがては、互いに気を遣う会話に疲れてしまう。

未来のある者が、ない者を、どう慰められるというのか。

ぼくたちには、結婚や子育てという救いもない。そんなことができる年齢まで、生きられないとわかっているのだから。

桜並木の下を歩きながら、大勢の市民とすれ違った。小さい子を肩車した夫婦連れ、お互いしか見ていない恋人同士、賑やかな若者グループ、共白髪の睦まじい老夫婦。

ぼくのことなど、誰も気に留めない。傍目には、ただの少年だから。

しかし、実際には〝市民社会の厄介者〟であり、外出時には常に、司法局員たちが車で追尾してくる。偵察鳥や昆虫ロボットの、ゆるい監視網にも包まれている。

護衛、もしくは見張り。

警備チームの存在は気にせず、好きに出歩いていいというのは、当局の好意だとわかっている。狙撃の前例がある以上、ぼくが警備厳重な科学技術局の敷地内に留まっている方が、司法局としては楽なのだから。

市民社会の人間たちは、基本的に善良だった。彼らは、遠い宇宙で違法組織に製造されるバイオロイドを哀れみ、奴隷たちが運良く主人の元から逃げおおせた場合には、親切に保護してくれる。

ただ、軍艦を連ねて辺境の宇宙まで出向き、繁栄を誇る違法組織を根絶しよう、などという覇気を持たないだけ。

市民社会は、辺境の無法を『見ないふり』できるのだ。年間、どれほどのバイオロイドが抹殺されていようとも。

***

「――何だと、もう一遍言ってみろ!!」

橋の上から見下ろした川原で、わっと騒ぎが起きた。両岸の桜並木の下を歩いていた人々も、土手や川原でピクニックしていた人々も、何事かと伸び上がって注視する。

「そっちこそ、突っ張ってるんじゃねえぞ!!」

「反則ぎりぎりの手で勝って、そんなに自慢かよ!?」

どうやら、ライバル校のスポーツ部員たちが鉢合わせしたらしい。空手部だかラグビー部だか知らないが、屈強な青年たちが三十人近く、二つの陣営に分かれて怒鳴り合っている。

殴り合いをして骨折でもすれば、いい気味だ。ぼくが吸血鬼なら、彼らの生命力を吸い取らせてもらうのに。

明日も生きられると思っているから、くだらない喧嘩などで、時間を無駄遣いできるのだ。

「やめて、落ち着いて。警察を呼ばれてしまうわよ」

「また、次の試合で雪辱すればいいじゃないの」

どちらのグループでも、連れの娘たちが青年たちの腕を引いて止めているが、そのために余計、彼らは引っ込みがつかないようだった。

『女の前で格好をつける』

のは、動物的な習性としか思えない。〝激烈な性欲〟とやらに振り回される日々は、さぞかし面倒なことだろう。その渦中にあれば、それが楽しいのかもしれないが。

周囲の花見客たちも、力が余っているならやらせておけ、という傍観姿勢になっている。現代の医学なら、骨折や内臓破裂はすぐ治るからだ。

「やるか!!」

「おう!!」

と青年たちが上着を脱ぎ捨てたり、袖をまくり上げたりしたところで、すいと割り込んだ人影があった。

「まあまあまあ、坊やたち」

その声の何かが、ぼくをはっとさせた。深い響きを持つ、楽しげなアルト。草食獣の群れに分け入った肉食獣のような、絶対の自信。

それは、屈強な青年たちに劣らない背丈の、しなやかで頑健そうな女性だった。

タイトなモスグリーンのミニドレスに、キャメル色の上着。

艶やかな小麦色の肌に、高く結い上げた金褐色の髪。

筋肉質の長い脚は、ダークブラウンのタイツに包まれている。足元は、動きやすそうなショートブーツ。

若く見えるが、貫禄からして、三十歳は優に過ぎているだろう。その女性は暗色のサングラスをかけたまま、笑いを含んで言う。

「こんな所で騒ぎを起こしたら、みんなの迷惑よ。ちょっと場所を移したら?」

青年たちが戸惑い、殺気をそらされた瞬間、双方のリーダー格らしい青年が二人、高く宙を舞っていた。豊かな水の流れる川の真ん中で、どぼんと二つ、水柱が上がる。

大多数の花見客には、青年たちの姿が壁になって、何が起きたかわからなかっただろう。

だが、橋の上のぼくからは見えた。素早い投げ技が。

次いで、四、五人の青年たちがぽんぽんと投げ飛ばされ、遠い川面でしぶきを上げた。相手が突進してくる勢いを利用したわけではなく、純然たる腕力だけで、あそこまで投げられるのか!?

残りの青年たちが右往左往し、川に落ちた仲間を助けようとする。花見客たちもわらわらと集まってきて、それに加わる。

その間に、豪腕の女性は姿を消していた。慌てて目で探したぼくは、彼女が土手を越え、ビル街に向かっているのを発見した。まるで、瞬間移動したかのように速い。

ぼくは反射的に駆け出し、後を追っていた。背の高い後ろ姿は、市街の雑踏の中でも見分けられる。溶けた黄金のように、光をはじく蜂蜜色の髪が目印だ。

それにしても、この速さは!? ゆったりとした歩みに見えるのに、実際には、小走りで追わないと引き離される。

追い付いて、どうしようとまでは考えていなかった。ただ、このまま見失うことはできない。自分が、とてつもなく貴重な何かに遭遇した、という感覚があった。まるで、空から降ってきた流れ星に、頭を一撃されたように。

そう……世界が変貌した。無彩色だった世界が、急に鮮やかな天然色になったようなもの。

ところが、ビル街の角を曲がった途端、光輝く姿が消え失せていた。あたりには、無彩色のおとなしい市民たちばかり。どこかのビルに入ったのか? それとも、車を拾った? でも、ほんの数秒の遅れなのに。

焦って、闇雲に駆け出そうとした途端、ぐいと襟首を引かれた。

「えっ?」

背中を街路樹の幹にどんと押しつけられ、甘く濃密な香りに包まれる。

「何の用かしら、坊や?」

目の前に、黄金のオーラを放つ女神がいた。赤い唇に悪戯な笑みをたたえ、暗色のサングラス越しに、ぼくを見下ろしている。

とっさには、声が出なかった。市民社会に来てから三年経つが、こんなに豪華でまばゆい女性を見たことがない。夏の太陽のようで、直視するのが痛いほどだ。

「んん? 何か用があるから、あたしを追ってきたんでしょ?」

ぼくはかっと熱くなり、激しい震えに襲われたが、同時に叫んでいた。

「お願いです!! 貴女の時間を、ぼくに下さい!! 三十分でも一時間でも……いいえ、今日一日!! 貴女の欲しいもの、何でもプレゼントしますから!!」

周囲の市民たちが足を止め、怪訝そうに振り返るのが目の隅でわかる。自分でも、自分の大胆さに呆れてしまう。

(何をやっているんだ、ミカエル)

〝市民社会のお情け〟で生かされているバイオロイドのくせに。

しかし、外聞を構っている余裕など、ぼくにはない。

「桜の名所をご案内します。それに、フランス料理でも日本料理でも、お好きな店にお連れします。宝石でもドレスでも、欲しいものを贈ります。どうか、今日一日、貴女の時間をぼくに下さい。ぼくの貯金、全て使い切って構いませんから!!」

さすがの女神も、呆れて言葉を失っている。叱り飛ばされるか、それとも笑い飛ばされるかだ。

『大人の女を口説くなんて、十年早いわよ』

と言われるのではないか。

そうしたら、ぼくにはその十年がないのだと、言うしかない。同時に、普通の人間の子供ではなく、司法局の保護下にあるバイオロイドなのだと、白状しなければならないけれど。

だが、なぜだか、女神は凍りついていた。ほとんど、呆然自失のように見える。そんな無防備さは、この人には似つかわしくない。

その間に、ぼくは立ち直った。どうせ死ぬのなら、何が怖いだろう?

「ぼくは、ミカエルと申します。貴女は、この街の方ですか。それとも、ご旅行でこの星に? これから、何かご用がおありですか? ぼくなら、明日でも、明後日でも、いつでも、貴女のご都合に合わせます!! 貴女が他の星に行くなら、ぼくも追いかけますから!!」

しまった、言い過ぎだ。これじゃ、ストーカーそのものだ。気味悪く思われるに決まっている。だけど、他にどうすれば。

そこで、ようやく我に返ったように、女神は動きを取り戻した。

「ちょっと、こっちへ来て」

「え」

ぼくは長身の美女に手を引かれ(大きくて力強く、温かい手!!)、近くの雑居ビルに連れ込まれた。動くとなったら、迷いのない人だ。彼女は何軒もの店を素通りして、地下への階段をずんずん降りていく。

「あの、どこへ……」

「いいから」

商品倉庫や従業員用の控え室を通り過ぎ、『関係者以外立ち入り禁止』の非常扉まで来た。この先は、都市のライフライン用の地下トンネルのはず。さすがに、司法局の護衛チームから制止がかかるかもしれない。

だが、彼女が何らかの操作をすると、ロックが解除されて厚い扉が開いた。もしかして、この首都の公務員か警察関係者なのかもしれない。それならば、ぼくの護衛たちも、一緒に行動して構わないと判断してくれるだろうか。

ぼくたちは地下トンネルに入り、扉を閉めて互いに向き合った。

といっても、彼女がぼくを見下ろす形だ。同じ高さで向き合うには、ぼくがあと三十センチ成長しなければならない。今はまだ、女の子に間違えられるくらいの、か細い子供に過ぎないから。

トンネルは真っ暗だが、人を感知した部分だけ照明が点いた。大小の配管が壁に添い、分岐しては暗闇に消えている。

「ええと、あたしはリリー……リリーというの。よろしくね」

生真面目とも呼べそうな、改まった態度で言われた。自己紹介をするのに、わざわざ地下まで降りるというのは不思議だが、何か人目を避けたい理由があるのだろう。

「……そうですか。ぴったりのお名前ですね。よろしく、リリーさん」

まさに、真夏の野山の百合だ。それも、ほっそりした白百合ではなく、オレンジ色の斑点を散らした豪華な山百合。濃密な、甘い香水とも合っている。

すると、リリーさんはサングラスを外し、ぼくを見下ろしてきた。夏の海のような、濃いサファイア色の瞳だ。そこに飛び込んで、溺れてしまいたいような海。

顔立ちは高貴なまでに整っているけれど、冷たい印象はない。全身から、太陽のような生気を発散しているせいだ。抱きついたら、さぞ温かいに違いない。まさか、そんな真似をする機会は、ないだろうけど。

「ミカエル……ミカエルと言ったわね」

「はい」

この名前は、ぼくと同シリーズのバイオロイドたちに割り振られた記号にすぎない。ウリエル、ガブリエル、ラファエル、アサエル、タミエル、サリエル、タブリス、ナナエル、ラミエル……古い一体が処分されたら、新しい一体にその名が回される。愛着のある名ではないが、この人の唇に発音されると、とても美しく聞こえるから不思議だ。

「きみ、川原から、あたしを尾けてきたわね」

「あ、はい。ごめんなさい」

身が縮んでしまう。この人には、素人の尾行なんて丸見えなのだろう。どうやって言い訳すればいいのか、わからない。

「とても、とても素晴らしい投げ技だったので……豪快でした。きっと、何年も修行なさったんでしょうね」

するとリリーさんは、何かに打ちのめされたような顔をした。ぼくが何か、悪いことを言っただろうか。誉めたつもりだったのに。

「あの、失礼なことをしたとは、わかっています。知らない女性の後を尾けるなんて。でも、どうしてもお願いしたいんです。貴女の時間、一時間でも二時間でもいいから、ぼくに分けてくれませんか。ぼくにとっては、それが、途方もなく大切な……」

思い出になる、と言いたかった。最後に病院のベッドの上で、繰り返し胸に甦らせるような。

ただ、病気の子供、と同情されるのは、違う気がした。小さくても、半人前でも、男だから。

少なくとも、この人の前では、男でありたい。妙なものだ。さっきは、女の子の前で強がる青年たちを馬鹿にしたというのに。

「……大切な経験になる、と思いますので。リリーさんのご希望は、何でも叶えます。ぼくの貯金の範囲内で、ですが。何か、欲しいものはありませんか。宝石とか、ドレスとか? 車くらいなら、買えます。遊園地の貸し切りとか、クルーザーに乗って花火見物とか、手配さえ間に合えば、色々できるかもしれません」

科学技術局では、末端の研究員としての給与をもらっている。難民用の再教育施設を出た後、司法局に紹介してもらった仕事だ。贅沢などしないから、ほとんど貯金になっている。

市民社会では、普通に暮らしている限り、費用はあまりかからないのだ。安全確保のために出費を要する辺境とは、そこが違う。ぼくの財産でも、一日だけなら、かなり豪華なデートができるだろう。

けれどリリーさんは、何か困っているように見えた。ぼくを傷つけたくないから、うまい断りの言葉を探しているのか。

確かに、十年後ならともかく、今の自分がこの人に相手にされるとは、自分でも思えない。それでも、ぼくには多分、あと一年か二年の自由しか残っていないから。命があっても知能が低下していては、何もできないだろう。

「それじゃ、それじゃあね……」

ついにリリーさんは、覚悟を決めたように微笑んだ。

「車を借りて、ドライブに行かない? それで、桜の名所巡りをするの」

ぼくが愕然としたからだろう。リリーさんは、余裕を取り戻したように宣言した。

「あたしの願いを、何でも聞いてくれるんでしょ。それじゃ、夜まで付き合ってちょうだい。あたし、今はバカンス中だから」

***

一緒に脱出してきた仲間二人を失ってから、ぼくはずっと一人だった。ウリエルは一年半前、組織の追っ手に狙撃されたし、ガブリエルは八か月前、脳腫瘍で死んだから。

そうすると、一般の職員たちは迂闊な慰めの言葉も言えなくなり、ぼくとは距離を置くようになる。精々、朝夕の挨拶をするくらい。

同じ体質であるぼくも、遠からず同じ病で死ぬ。それは、朝になって太陽が昇るのと同じくらい確実なこと。

既にもう、小さな腫瘍は幾つか手術で取り除いた。しかし、きりがない。腫瘍は次々に発生する。

せっかく、自由の身になったはずだったのに。再教育を受け、市民社会の常識を覚えて、限定付きとはいえ、市民権を手に入れたのに。

ぼくの心の半分は、熱い怒りで占められている。残りの半分は、冷ややかな絶望に浸されている。毎日、その境目をよろめき歩いている。

いよいよとなったら、一人で黙って自殺をするか。それとも、細菌兵器でも撒いて、この惑星上の全人類を道連れにするか?

その気になれば、たぶんできる。今、科学技術局の支局にいて、有機物の分析や合成の基礎実験をしているから。適当な致死性細菌かウィルスを合成して、空気中に放出すればいい。

日常の行動を管理システムに見張られていても、それを出し抜くことは、たぶん可能だ。違法組織の監視網に比べたら、はるかにゆるい監視だから。

実際、組織の基地を脱出する時に、ぼくたち三人でそれを実行した。

殺人ウィルスの散布。

サンプルは手近にあった。ぼくらがいた《ルーガル》の研究基地では、アンドロイド兵士やバイオロイドの製造の他、ウィルス兵器や細菌兵器も扱っていたから。

人間の科学者や技術者たちは、面倒な雑用を、ぼくたちバイオロイドの助手に任せていた。基礎データの積み上げ、実験動物の世話、用済みになった実験体の始末、機材の点検や薬品の補充。

定められた安全基準や、警備上の規則はあったけれど、長い年月のうちにそれがなし崩しになっていたから、隙はあった。ぼくたちは保管庫から盗み出したウィルスをこっそり培養し、数日かけて、基地内の居住区に撒いて回った。自分たち三人だけ、前もってワクチンを接種しておいて。

凄まじい効果だった。

うまくいくとは、自分たちでも信じていなかったのに。

夜中、異変を知らせる警報が鳴り響いた。あちこちの非常隔壁が閉まり、空気の強制排気や消毒剤噴霧が行われ、狼狽する人間たちの叫びが行き交った。一人、また一人とうずくまり、吐き気や下痢に苦しみだす。

死ぬことのないアンドロイド兵士たちが、発病した人間たちを抱いて運んだ。けれど、医療室でも、医師たちが倒れていた。医療カプセルも、すぐに足りなくなった。誰も、ウィルスの蔓延を止められなかった。症状が出た時には、もう手遅れなのだ。

ぼくらは、何も知らないバイオロイドたちに混じって、怯え、うろたえるふりをした。やがて、人間より強健なバイオロイドたちも倒れ、身を折って苦しみだした。

止まらない嘔吐。血便。粘膜からの出血。

朝になった頃には、基地中が凄まじい地獄絵図になっていた。半数はまだ、汚物まみれでもがき苦しんでいたが、半数は、既に動かなくなっている。息のある人間たちも、もはや、機械の兵士に命令を下せるような状態ではない。

基地の統合管理システムは、非常事態であることを上級基地に通報し、指示を仰いだ。上級基地の幹部たちは、他組織の攻撃と思ったのだろう。基地内の空気のサンプルや、死人の細胞のサンプルを取った後、死体を溶解槽に入れ、全ての空気を抜いて徹底消毒しろと命じたらしい。

アンドロイド兵士たちが、片端から死体を貨物車両に積み込み、処理室へ運んでいく。瀕死の者たちも、構わず車に放り込んでいく。

調査隊は、既に上級基地を出て、こちらへ向かっているだろう。到着は一日後か、二日後か。

ぼくたち三人は混乱に乗じ、廃棄処分を待っていた老朽艦に潜り込んだ。ぼくたちの技術で基地からの制御を切断できるのは、その船だけだったから。

もちろん、船で勝手に基地から離れれば、即座に管理システムに怪しまれ、攻撃される。それは想定済みだった。母艦そのものは、追ってきた無人艦のミサイルで爆破されたが、ぼくたちは直前に小型艇で母艦を離れ、手近の小惑星に隠れていた。

ちっぽけな小型艇でも超空間転移はできるし、贅沢を言わなければ、半年や一年、命をつなぐこともできる。

そして、半年もの時間をかけて慎重に遠回りし、ついに、市民社会が存在する中央星域に逃げ込んだ……

難民として司法局に匿ってもらった時は、これで自由になったと信じた。組織からの刺客さえかわせれば(誰が惨劇の犯人なのか、いつかは明らかになるはずだった。当然、追っ手は来る。だが、司法局も対策は講じる)、市民社会の片隅でひっそり、穏やかに暮らせると。

知らなかったのだ。ぼくたちの遺伝子に欠陥があり、生存期間の五年が過ぎる頃には、脳腫瘍が多発するようになるとは。

それでも、組織はぼくたちを許さなかった。市民を誘惑して刺客に仕立て、ウリエルを狙撃させた。彼は脳が吹き飛んで、即死だった。狙撃した方も逃亡しきれず、逮捕されたから、《ルーガル》の仕業と判明したのだ。

それから司法局の警備が厳重になり、幾度か場所も移されたが、組織の側はしつこかった。逃亡者を許しておいては、他組織に対しても、内部の人員に対しても、示しがつかないからだ。ぼくも一度、街中で狙撃され、危ういところで助かった。

そうこうするうち、ガブリエルが発病した。遺伝子治療以外に、方法がないこともわかった。

ぼくとガブリエルは、治療法を研究させてくれと、何度も申請した。何年も研究助手として働いてきた自分たちには、その能力がある。

しかし、申請はその都度、却下された。惑星連邦政府は、人間に対する遺伝子操作を許さない。遺伝病の治療でさえ、ほとんどの場合、薬品治療で対応する。

正規の市民ですら、遺伝子操作による延命は許されないのだ。まして、違法に製造されたバイオロイドのために、どうして法を曲げられるだろうか。

だからぼくらは、残りの日々を、死病と共に暮らすしかなかったのだ。辺境でなら、たぶん、治療法が買えると知りながら。

天使編1 3章 紅泉こうせん

どうかしている。このあたしが、あたしの肩にも届かないような男の子を前にして、どぎまぎ、そわそわするなんて。

これじゃあ、まるで、十代の女の子みたい。何十年も戦い続けてきて、まだ乙女面するつもり!?

そもそも、この星へは、ミカエルに会うために来たというのに。

彼の位置情報を確かめてから、相棒の探春たんしゅんを残して、車を降りた。たまたま学生たちの喧嘩騒ぎを見てしまったものだから、つい悪戯っ気が起きただけのこと。

いったん隠れて、出直すつもりだった。〝リリス〟の追っかけは、どこにでもいる。彼らに気付かれて、騒がれたら面倒だから。

まあ、あれだけのことをして誰にも気付かれなかったら、それもまた、つまらないのだけれど。

まさか、ミカエル当人が追ってくるとは思わなかった。しかも、あたしが誰だか知らないまま、デートを申し込んでくるなんて。

単なる憧れ。

そう言ってよければ、一目惚れ。

これまで、男という男に恐れられ、避けられてきたというのに。この年になって、こんなことが起きるなんて。

もちろん有名人としては、ずっと追いかけられてきた。ジャーナリストやミーハー連中に。あるいは暗殺者やテロリストに。しかし、個人的に交際を望んでくれる男は、まずいなかった。

ミカエルの目の高さを、誉めるべきなのか。やっと降ってきた幸運と思い、謙虚に感謝するべきなのか。

あたしのことは軍人か警官か武道家か、そんな風に推測しているようだ。元から、年上趣味なのかもしれない。ミカエルの知的水準は研究者レベルだから、十代の少女では物足りないのかも。

外見上は十二歳前後の少年だし、実際にも、培養カプセルを出てからまだ六、七年しか生きていないのだが、彼の経歴から考えれば、なまじの大人よりも老成していておかしくない。

違法組織の中で日常の仕事をこなしながら、密かに致死性のウィルスを培養し、それをぶちまけて脱走してくるとは、『何でもあり』の辺境でも、稀な出来事だ。

人間たちが、自分たちより優秀なバイオロイドを創ってしまったという、皮肉な証明でもある。

一般市民からすれば、目を背けたくなる事例かもしれないが、あたしが彼らの立場だったら、やはりやっただろう。黙って殺されるのを待つなんて、冗談ではない。殺す他に生きる道がないなら、あたしだって殺す。

それを非難する権利が、誰にある?

とはいえ、このミカエル、やはり子供ではあるのだ。あたしがリード権を奪うと、ほっとしたようについてくる。あたしはちらちら、彼のことを観察せずにいられない。

栗色のさらさら髪をショートボブにしていて、童話の中の王子さまのよう。肌は白く、宝石のような緑の目をしている。

愛らしい顔立ちだから、ドレスを着せたら、女の子に見えるかも。今は白いシャツに紺の上着を着ているから、名門校の生徒みたいだけれど。

とにかく……きゅんときた。

ミカエルの貯金なんて、ささやかなものだろうに。それを全部使ってもいいから、あたしといる時間が欲しい、なんて。

あたしは大富豪ではないけれど、自分の欲しいものが買える程度の収入はある。私有の艦隊だってある。それでも、強烈な快感が走った。こんな懇願を受けたこと、生まれて初めてではないだろうか!?

ほとんどの男は、あたしを恐れた。こそこそ迂回して、避けようとした。尊敬はしてくれても、遠巻きにだった。

それは仕方がないと、あたし自身もあきらめていた。男というのは、女よりはるかに臆病な生き物だから。

彼らのプライドは、ガラス細工のようにもろいのだ。自分が勝てないと思う女には、最初から近寄ろうとはしない。まして、求愛など有り得ない。

こんな奇跡、生涯に一度だけかもしれない。

だったら、いいでしょ。今だけ、憧れられることを楽しんでも。

〝リリス〟と名乗るのは、後にしよう。もうしばらく、普通の女でいたい。少しばかり武道の心得があるだけの、普通の女。

車で待っている探春には、ホテルへ戻るなり、買い物に行くなりしてもらおう。護衛のナギが一緒だし、司法局の警備網の中だから、危険はまずない。

『また、新しい王子さま?』

後から皮肉を言われても、構わない。どうせミカエルは、健康体になったら、あたしのことなど忘れてしまうに決まっているのだから。

   天使編2に続く

この記事が参加している募集

宇宙SF

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?