すくなくとも私にはいないぞ

「すずめの戸締り」のネタバレが記載されています。ご注意を。


・大学が全休だったので新海誠監督の「すずめの戸締り」を観た。
正直思うことは多いけど羅列したい。

・まず、今回の話の大きな構造の核として機能した「震災」について、鑑賞特典のブックレットからもかなり監督の中での「災害とどう向き合うか」が具体化されていた。というより、監督の内心で自己完結しすぎているような気がする。

特に今回の映画は、主人公が起きた災害のかなり直接的な被災者であり、それが主人公の行動の動機にも多少なりとも機能しているが、そもそも主人公すずめと草太が本来抜本的に防ぎようのない「災害」を物理的行動で防ぐことが出来る「対象」として扱ったのにすごく戸惑った。

要石を刺す行為や、後ろ戸を閉じるという具体的行動により震災は「防げる」ものとして作中では存在している。だが、これだと主人公すずめを含め現実の人々が多く亡くなった東日本大震災の時にはなぜ防げなかったのかという感情が起きそうなものだが、当のすずめはそれを特に疑問には思わなかったらしい。母親も亡くしている上に彼女の価値観を大きく左右する部分であるはずなのに、当の草太に抱く感情は「カッコイイ、ロン毛の教員を目指す大学生」だ。

新海監督による本作の企画書では、恋愛という要素をターゲッティングとしても注入している。実際本作の主人公の最終的な動機の核は「性欲」だ。なぜ意地悪に「性欲」だと表現するかというと、他者ないし異性と恋をする上で生じる対立や両者が傷を負うというような描写が一切されていない点にある。「なんとなく惚れて、一緒に旅をして、かなり好きになりました。」くらいの距離感だ。同じ部活に参加してたらなんとなく両想いになっていた中学生カップルと大差がない。

もし、物語の推進力を「互いを大切に思う」のであれば、その動機になる要素がもう少し描写されてもいいはずなのだが、その点はめっきり漂白されている。逆に叔母との衝突と邂逅はかなり克明に描写している。「表層的やり取りだけで済ましていた人間関係が、自身の暗部をさらけ出すことで傷つきあい、より関係性が強固になるという構図」は個人的に好きなので、その点は良いと感じた。

そう考えた時にやっぱり草太の役割は叔母でいいんじゃないだろうかとも思うが、それは資本主義が許さないらしい。

ただ、この踏み込みの甘い上澄みのような恋愛観を新海監督はどう思っているのだろう。基本的に新海作品の大半の男女関係がこの形に落ち着いてしまうため、やっぱり好きなのだろうか。

「秒速五センチメートル」の小説版では、アニメでは描かれなかった主人公遠野高貴君の独白が存在する。うろ覚えだが主旨は
「自分は他人から与えられる感情にただ受け身になるばかりで、自らそれを与えようとしなかった」みたいなものだったと思う。当時映画を鑑賞した後にこの小説版を読んで「なんでそれを映画でやらなかったんだ!」と驚いたのを覚えている。山崎まさよしの歌に絆されている場合じゃないだろう、もっと大事な内省をしているじゃないかと思っていた。

作品を重ねるにつれ男女の関係は衝突のようなものがあってもそれは「じゃれあい」の範囲に留まり、明確な対立や価値観の違いに直面する瞬間はついぞ訪れなかった。ティーンエイジャーを対象にする特有の恋愛観なのかもしれないが、そこらのライトノベルも多少なりとも互いの衝突を描写するため、あまり肯定的にとらえることが出来ない。最初は互いに反目しあっても良かったんじゃないだろうか。ただすずめと草太のどちらかがあの旅に非協力的に映ってしまうので難しいのか・・・。

・今回の作品で捉えられた新海誠監督の「災害」や根本的な「世界」の捉え方を見ていくにつれ、かなり無条件に「この世界」を肯定したい人なのだなあと感じた。すずめと出会う人々は皆一様に優しく、後ろ戸を閉じる時に思い返す人々の生活の音には不快なものが一切挿入されていない。あの世界には災害が起きる直前に想起される人々は「行ってらっしゃい」「おかえり」を言い合える人たちだけなのだろうか、孤独に身を震わせながら、今にも死にたいと考え絶望を吐露する人はいなかったのだろうか。

もしかしたら、あの映画世界には存在しないのかもしれない。もしくは新海誠監督は「見たくない」のかもしれない。

そう考えてしまった今日この頃でした。



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