青い浩

昭和の文学少年くずれではあるけれど、私には必要な時間だつた。いままで本は私をいつも救っ…

青い浩

昭和の文学少年くずれではあるけれど、私には必要な時間だつた。いままで本は私をいつも救ってくれた。

最近の記事

本には交流があるP2ー戯作10

いよいよ里川に入ってきますが、これは私だけでなくコアの記憶の時間の光景とも言えます。 山渓から平野部に流れていく水勢は川はばを広げ、おおきく蛇行して大淵を作り、さまざまの生き物の住処をつくり、岩を淵に沈め、石たちは更に転がりながら丸く小さくなって下流に河口に向かって旅を続けます。 川原に一休みしている小石は、子どもたちが、ときには石は水よりも軽いことを実験、証明できる遊び道具になります。 水切り。 飽きずに何回でも何回でも集中して実験を続けます。向う岸まで水面を、選んだ石が

    • 本には交流があるPー2戯作9 二重人格もOK

      図鑑も絵本のひとつと面白いと楽しんでいる自分に気づいて、思ったこと。 植物のしくみ、動物のしくみ、天気のしくみ、宇宙と地球、生死のしくみも、小学生の素直な好奇心で読めば、知識というより心の風船が元気に膨らむようだ。 しかし、この男がかつては(自分は自分が作るものだ)などと実存主義の一部だけを信条として我利我利に気負っていたなどとは人は想像もできないでしょう。 実際、この男は正直になつてきていた。知識だけでなく、物やことを知らないことばかりだと、素直に認めはじめたのです。でも、

      • 本には交流がある。まとめ

        本には交流があるのPー2を今、綴っていますが、Pー1からの流れで安易にそうしてしまったのですが、どうも違うなと思い始めました。 きれぎれに綴った(本には交流がある)は、ひとつの、まとまりにしたい。というのは、フォローして頂いたり読んでくれている方がいるというのに、少し心配になってきたのです。強気と弱気の振れ幅の大きい二重人格の特徴です。心配というのは、本当に自分の身の丈にあったことを書いたのか?高慢な図々しいことを書いたのではないか、という思いでした。そもそも、自分を振り返る

        • 本には交流があるPー2 戯作ー8 山道と満天の星 と霧雲

          ところで、山道やトロッコ列車の単線路を真夜中に歩いた経験をした人は稀だと思いますが、釣人は、目的の渓へ夜明けまでに間に合うように暗闇の道を歩きます。例えば新月で月は見えません。 けれども、心細くありません。街ではとうてい見られない満天の星が光り見守ってくれているように感じられるからです。 初めて、その夜空を見たとき、人は自分の内の何かが澄みわたって心が解放されるような、古代に戻ったような不思議な(時間)を全身で感じる。 二時間三時間歩いて、渓に降り、藪をこぎ、ウエーダにびっし

        本には交流があるP2ー戯作10

          本には交流があるPー2 戯作一7 渓からの出発

          さあ、渓からの出発ですが、その前に私の想像です。 大昔、山々にとてつもない大雨がふりそそぎ、山のはざまの低地に流れ込んで行った。その激しい流れは低地を山際を削り、落差にしたがって岩を礫を土砂を押し流した。次の洪水は大きな水たまりに溜まった土砂を下流に押し出します。水たまりは深くなって淵となります。 次からは淵の出口、淵尻から押し流された土砂、岩で凸凹の山なりの瀬が生まれる。 川は淵と瀬の繰り返し。激しい流れは内に曲がりながら淵を作り瀬を作り蛇行して下流に水と土と岩と養分を運ん

          本には交流があるPー2 戯作一7 渓からの出発

          本には交流があるPー2 戯作一6 川の道

          コアは川の流れに添ってカワセミの写しの姿で河口まで旅する遊びをニコニコして思いつきました。・・・としましたが、さてさて、ここで、ナレーシヨン(語り)であるべきなのに物語のルール違反をしたい欲が出てきてしまいました。元々エッセイ、散文詩小説、童話、ファンタジーとかジャンルにこだわることは苦手で、自由でいたい我儘な作り手でいたい自分が居ます。 それでも、自己満足して、書き出すまでに多少、迷いました。話の枠を壊す、つまり、逃げていないか、安易に走っていないかと思ったのです。 でも、

          本には交流があるPー2 戯作一6 川の道

          モナ森出版の映画[銀河の雫]を見て思う

          ネパールのバターランプの灯は(はじめはひとつ)の記憶を照らす標に想える。 宗教成立以前の遥か遠い太古のヒトが他を偲ぶ、涙が生まれ、自己以外のために祈る行為が生まれたとき、天とつながることを知ったのではないか。祈りの時、人は真底、優しい自由な時間を持っているのかも知れない。 もつともつと私達は素直にならないといけないのだろう。 銀河の雫のひとつの星の地球の(はじまりはひとつから)の記憶。心の奥に持っている、最初のひとつだった記憶。 山元かっこちゃんは、大切な、でも忘れがちなこ

          モナ森出版の映画[銀河の雫]を見て思う

          本には交流があるP2 戯作1ー5 コアの物語 溪から河口へ

          コアは今は鳥になって遊んでいます。それには、こんな経緯があります。鏡のような川面に空や森の草木が映って、二つの景色があり、水面のそれは少しの漣で、ゆらいで、かたちの変化が面白い。そこへ川下から鳥が飛んで来ました。宙を実際に飛んでいる鳥が水面に映って、うりふたつの鏡の鳥が拵えられました。 コアはこの時を見逃しません。ユカイな遊びを逃しません。 ちゃっかり、映りの鳥になって、水面を飛翔して楽しんでいる。写しの鳥になっているコア、重さという実体はないけれど、コアの無邪気な想いみたい

          本には交流があるP2 戯作1ー5 コアの物語 溪から河口へ

          本には交流があるP2  戯作1-4風船の交流

          カゲロウに見せかけた毛バリをふっている釣り人がいたのです。その釣り人は頻繁にこの沢にやって来ます。 ところが、この日は、どうもいつもとようすが違います。一度も魚を掛けません。けれどもなぜか、残念そうでなく、悔しそうでなく、かえって楽しそうにみえる。水の中から見れば釣れないわけが判ります。釣鉤のフトコロを切ってしまったものを使っていました。その掛かるはずの無い毛バリで竿を振っていたのです。 ときどき、テンカラ竿をふる手を休め、空を見上げ雲の形を面白がり、何かうなづいていた。新緑

          本には交流があるP2  戯作1-4風船の交流

          本には交流があるP2 戯作1-3 コアの物語

          コアは小さな谷間の沢に舞い降りました。しばらく水面の煌めきの点滅に猫パンチのまねをして、じゃれていましたが、水の渦の螺旋の階段にさそわれて、水中に入っていきました。川にも降りていく波と浮き上がる波とがあるのです。水面にだけ波があるのではありません。水中には生きものが、たくさんいるけれど、かれらはコアに警戒しません。なぜならコアは水の中にいるときは、水の粒に入っていたのです。コアはまだ生き物とは言えませんが心のようなものはもっているようです。だから水の粒に入ると、決めたのです。

          本には交流があるP2 戯作1-3 コアの物語

          本には交流がある  戯作1-2 風船から始まった。

          孫の持った風船が手を離れて空高く舞い上がっていった時に、老人の長い人生からずっと忘れられていた記憶が突然、蘇ったように思い出された。老人は思い出すままに物語りを記しはじめた。どうしても書いておきたかった。なぜならそれは、懐かしいそして豊かな時間に満ちていたからだ。 『コアの物語』ー戻る、この言葉の不思議さ、何に戻るのか? それは、めざめました。その球体に守られたものは、ゆっくりとゆっくりと目覚めていきました。棚田の丘のいっとう上にある桜の木の蕾のなかで目覚めました。その(

          本には交流がある  戯作1-2 風船から始まった。

          本には交流があるP2   戯作1

          時間というものは記憶に対して、よくわからないことをする。記憶の中の「その時」「ストップモーションの絵」をあとから思い出す、そう、思い出すという方法で知らせる。 その人に必用な「その時」を脈絡のない記憶の海から、時間が知らせるという計らいのようだ。直線でない、あるいは時計とは全く違う数値でない(対流)している時間。 その事例として「コアの物語」を思い出したひとりの老人がいた。

          本には交流があるP2   戯作1

          本には交流があるP2 戯作をこしらえていきたい

          「本には交流がある」3ヶ月で終えることが出来ました。太宰治の本から山元加津子の本までが続くというミスマッチを承知の、その落差というか無理とも思える高低差を綴った10章でしたが、自分にとってはある意味、道が開けたような気持ちがする。道を心と言い換えてもいいように思う。もっと早く山元加津子さんの本を知ればよっかたが、とにかく人生観は変わった。気づきが遅いということも、年齢からいえば残りの時間が少ないかどうかも、知るところではないが、これからは、大人向き子供向き、そんなジャンルなし

          本には交流があるP2 戯作をこしらえていきたい

          本には交流がある 最終章 かっこちゃんの大きな木 灯台

          いよいよ、ほんとの最終章。山元加津子さんの本のことを書くときが来ました。緊張をしっぱなしです。手元にある本を読み返していきました。けれど読み進めるうちに愕然としました。突拍子もないことをしようとしていないか?いったい自分は何を纏めようとしているのか、本からキーワードをいくつ並べても、到底私の意図は表現できない。引用をしても自分の受けた感動は表現のかけらさえ出来ない。全部を引用するしかない。 思えばnoteに「本には交流がある」を書き続けたのは、この最終章のゴール目指したから

          本には交流がある 最終章 かっこちゃんの大きな木 灯台

          本には交流がある 最終章2 安保徹さん  二つの生命体の合体から始まった

          *安保徹著(安保徹のやさしい解体新書)(かたよらない生き方)(安保徹の病気にならないしくみ)より参照引用 

          本には交流がある 最終章2 安保徹さん  二つの生命体の合体から始まった

          本には交流がある  最終章#1 ”いまのここに、かつてのかなた いのちの波のざわめき” (胎児の世界)を読んで、ここに響いた!・・と胸をおさえた

          いまさら度々になってしまうけれど本は本を呼ぶ。本が私を見つけてくれる。安保徹さんと三木成夫さんを知ったのも、そうとしか思えない。書店で何気なく手にした.安保徹さんの免疫の本でした。興味深い、しかも著者の真剣熱情を信じられると直感しました。安保さんの本を次々に読んでいくうちに三木成夫という名前が書かれた行があった。本は次の本を知らせる。本はリレー。三木成夫さんの本を私に知らせてくれた。  この本にはエキサイティングしたよ!本当にエキサイティングしたよ!  学者の著書とは到底思え

          本には交流がある  最終章#1 ”いまのここに、かつてのかなた いのちの波のざわめき” (胎児の世界)を読んで、ここに響いた!・・と胸をおさえた