本には交流がある9-2

津島美知子著「回想の太宰治」より引用。
昭和53年人文書院より発行分より。

太宰の酒は一言で言うと、よい酒で、酒癖の悪い人、酒で乱れることをきらった。
綿のような毛のものが部屋中散乱し失敗に終わり、太宰は見ていて、お前は詩人だなどと批評した。
時々たまらなくさびしくなることがあった。三鷹にきてから、それまで本がなくて読めなかった彼の船橋時代以前の随筆や、版画荘文庫に収められた短編を読んで少し彼の考えていることがわかったように思った。 (三鷹)より

夕方から飲み始め、夜九時頃までに、六、七合飲んで、ときには(お俊伝兵衛)や(朝顔日記)の一節を語ったり、歌舞伎の声音を使ったりした。「ブルタス、お前もか」などと言い出して手こずることもあった。
この家での最初の仕事は「黄金風景」で、太宰は待ち構えていたように私に口述筆記をさせた。 (御崎町)より

太宰は皮をむかれて赤裸の白兎のような人で、できればいつも蒲の穂綿のようなほかほかの言葉に包まれていたいのである。結婚直後「かげで舌を出してもよいから、うわべはいい顔を見せてくれ」と言われて、唖然とした。

荷物をまとめているうちに私は衝動的に、タンスにしまってあった手紙やはがきーそれは結婚前とり交わした手紙を太宰がお守りにしようねといって紅白の紐で結んだ一束と、その後の旅信とであったがーをとり出して庭に持ち出し太宰と小山さんふたりの面前で、燃やしてしまった。(中略)小山さんが狭いわが家に闖入してきたために追い出されるような気もして、そのようなヒステリックな行動をとったらしい。     (疎開前後)より

海というと私に浮かぶのは、あの朝の楽しかった家庭団欒の一ときの光景である。「浦島さんの海だよ、ほら小さいお魚が泳いでいるよ」とはしゃいだのはだれだろう。太宰自身ではないか。なぜ家族団欒を書いてはいけないのかー私は「海」を読んでやりきれない気持ちであった。  (深浦)より

たけさんは太宰の性格をよく知っている。甘やかせばキリのない愛情飢餓症であること、きびしい顔も見せなくてはいけない子であることを知っている。  (アヤメの帯)より

私はときどき、太宰治の研究家や、愛読者の方々から問い合わせを受ける。今後そのような場合、このつたない著書の中にお答えにかわるなにかを見いだしていただくことができたら幸いである。  (あとがき)より

答えにかわる何かを見いだしたどころではない。太宰治の仕事に自信に満ちた著書です。そしてこの本は、どんな太宰の研究家が分析しても空々しくなってしまう究極の本です。ー、と思うわけは、太宰と書いている人称を津島修治と置き換えたら、いや、(あなた)とおきかえたら、研究、批評の言葉が寒々しくなる。この最高の読者、理解者をわかっていての、結婚後の太宰の仕事の自信だったのではないか、と思います。つけ加えさせてもらえば、私が初めて読んだ太宰の選集の付録に美知子夫人がドナルド・キーンさんとの談話の中で、なにげない言葉でそして確信をもっておっしゃています。
「ああいう死に方をいたしましたけれども、ほんとうは生まれつき、明るい陽気な.面をもっている人でございました。

さて五十代で.太宰の文章を読み返したとき、(人間失格)の中に、テーマと全く矛盾している文章を見つけたのです。第二の手記のはじめの描写です。暗い描写でなく、いいえ、四十年前には描写に見えていたものが、そうではなく、愛おしいたいせつにしているものを賛歌している、と感じられたのです。天才がなぜこんな構成をこわすような、愛おしい思いをこめた描写をしたのか、中学時代をかけがえのないものとして、いつくしんでいる描写です。けっして道化の処世術からはでてこない素直な感性です。
そうあたりまえ過ぎることに、いまさら気づきました。ーこれを書いたのは太宰治.ではなく、大庭葉藏でもなく、津島修治なのだと、葉蔵とまったく違って中学時代をどんなに愛していたか、どんなに、その渚に象徴される(少年の時間)をいつくしんでいたか、気づきました。

<昭和43年筑摩書房発行
太宰治全集より引用
旧漢字旧仮名は新字体新仮名にあらためました>

海の波打際、といってもいいくらいに海に近い岸辺に、真黒い樹肌の山桜の、かなり大きいのが二十本以上も立ちならび、新学期がはじまると、山桜は、褐色のねばっこいような嫩葉と共に、青い海を背景にして、その絢爛たる花をひらき、やがて、花吹雪の時には、花がおびただしく海に散り込み、海面を鏤めて漂い、波に乗せられ再び波打際に打ちかえされる。その桜の砂浜が、そのまま校庭として使用せられている東北の中学校に、自分は受験勉強もろくに.しなかったのに、どうやら無事に入学できました。そうしてその中学の制帽の徴章にも、制服のボタンにも、桜の花が図案化せられて咲いていました。  (人間失格)第二の手記より

文芸が無ければ、この世の中は、すきまだらけです。  <惜別>より

生誕100年の記念作文には何ページも引用したのですが今回読み返し、私の中の何かが、すっかり変わっていることに気がついた。上記の2段だけを写して、もう納得した。訣別でも、卒業でもないけれど、この(本には交流がある)を書いてきてわかったことがある。少年の私に会いたくて質問したくて書いたんだ。そして会えたような気がする。握手できた。握手できた。自分と和解。ヘンな表現だが、たしかに、そうだ。少年と老人、どちらも私だ。生きていこう。生きていこう。




   



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