八十億の愚者、春のアヌス祭り、絶望の国の曖昧な若者たち、骨絡み生存中毒、ききキリン、
三月二四日
午後十二時三分。紅茶、クラムチャウダー。
「モスクワテロ133人死亡」という見出し。「テロ」というのは理由もなく起こることもあるがだいたいは「なにかしらの理由」があって起こるものだ。ロシアはどんな「テロ事件」が起こっても「ああやっぱりね」と思ってしまう国のひとつだ。もっとも最強最悪の「テロリスト」は国家そのものなんだけど。イスラエルやアメリカをみていると特にそう思う。
きのう妹が亡くなったという爺さんに香典と交通費6000円を貸す。これで37000円。金も友人もない老後がいかに哀れであるかをこの人は遺憾なく教えてくれる。香典にも「相場」というのがあるらしく兄弟姉妹の葬儀に参列する場合は一万円から五万円くらいがちょうどいいらしい。香典については、それは近親者が葬儀費用を分担するためのものだとか、近隣縁者の相互扶助だとか、いろいろもっともらしいことが言われていて、どれも「当たらずと言えども遠からず」なんだろうけれど、そもそも「葬儀」に費用がかからなければそんなものもいらないわけだ。平均百何万ほどかかると聞いて驚く。生物個体が死んだだけなのになんでそんな金がかかるんだよ。このことに驚かない人間の多さにも驚いてしまう。もしお経を読みたければ自分たちで読めばいいし、死体をミイラにしたければかってにすればいいし、燃やしたければ好きなところで燃やせばいいし、埋めたければ好きなところに埋めればいいんだ。土地は誰のものでもないのだから。駅構内から「ホームレス」を排除したがる連中は土地をいったいを誰のものだと思っているんだろう。少しも理解できない。ニンゲンノカンガエテイルコトガサッパリワカラナイ。葬儀社といい坊主といい、「専門業者」というのは金を取り過ぎる(「分業」こそ悪魔の発明だ)。礼服なんていう野暮なものを持たないうえにネクタイの結び方も忘れて久しい俺にとって冠婚葬祭は苦行でしかない。あらゆる儀式は俺をウンザリさせる。大人になるということはウンザリさせられることが多くなるということだ。俺は高校生のころには「人生はひとつの悪いジョーク」だと気が付いていた。三十にもなってそのことに気が付いてない人を見ると張り倒したくなる。とりあえず「葬儀の歴史」についていずれ調べてみる必要があるね。志ん生の「黄金餅」を聞きたくなってた。えええ人間というものはまことにばかばかしい生き物でありまして九朗判官義経。
稲垣足穂『少年愛の美学』(河出書房新社)を読む。
アルコール度数の高すぎるハブ酒だね。ぜんかい読んだときよりも強い愉悦を感じられたよ。付箋が二十枚くらい付きました。「異性愛」という悪趣味しか知らない(ふりを通している)男たちには縁遠い本だろう。A感覚とかV感覚とかP感覚とかいう言葉は多分にフロイト的。Aはむろんアヌス(anus)、肛門のこと。アヌスとはヤヌス(双面神)でもあるのではないか、といま思った。「ある」と「このようにある」の両義性がアヌスにはある。肛門と排泄物の彼岸的相互不可侵条約。
「無限への供物」はいい言葉だ。『虚無への供物』って変な小説あったねそういえば。アヌス感覚はそのまま宇宙論的自体愛に通じている。存在的思考(凡庸的思考)と存在論的思考(哲学的思考)の間の断絶を知っているのはアヌス感覚だけだ。「人間の美しさ」などというものは存在しない。じつをいうと「美少年」とは「菩薩」の自己表出(示現)なのだ。人は「美少年」のうちに菩薩的相好を観ずにはいられない。それは「解脱の予感」なのではなく「解脱の不可能性の予感」なのだ。「美少年の目とお尻」を通して人は「菩薩の実在性」を直観する。たしかに直観する。けれども菩薩ははじめから完全に無力である。菩薩はいつもその無力を嘆いている。「美少年」のあの脱俗的な柔和性はその嘆きの一表現である。菩薩は「私」を救済することは出来ない。私は菩薩のその精妙な「歔欷の声」に耳をかたむけ「智者」を志すことしか出来ない。「衆生」をどうにかして苦しみから救わねばならない。菩薩の示現に接した私はいつもこればかり考えている。菩薩の無力さをとことん知っている私はだから、「信仰による人間救済の可能性」を否定する。そんなものはありえない。人間を救えるのは人間だけだ。
三時半には図書館行こう。明日は休みだ。先週は一日もサボらなかった。俺もやればできる。ららら科学の子。想像を絶する天王星破壊活動。みすたーさたん。
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