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「君の悩みなんか宇宙の広大さにくらべればちっぽけなものさ、だから低賃金くらい我慢して働け」

四月十四日

五時起床。コーヒーと紅茶、源氏パイ三枚。コメを研いで炊飯器にセット。ほんじつの「強迫さん」の機嫌はどうでしょう。異臭感知系か雑音感知系か。それとも両方やってくるか。ちなみに隣のヤニカス爺さんは在室している。もともと私は人の気配には敏感だが、嫌いな人間の出す気配にはもっと敏感だ。基本的に人間が苦手なんだろうな。そこそこ仲のいい人でも一緒に長くいるとだんだん気が滅入ってくる。向うの無知とか浅薄さが堪えがたくなってくる。それよりこのごろ歯ブラシの尖端が上の第一小臼歯の根元を刺すときに沁みるのだ。歯冠のエナメル質損耗もしくは歯肉退縮による象牙細管の開口が原因らしい(象牙質知覚過敏)。神経の通っていない象牙質に刺激が加わって痛みを感じるメカニズムを説明する「動水力学説(hydro dynamic theory)」についてはまたあとで。これはとても専門的な話なんだ。

稲垣諭『絶滅へようこそ(「終わり」からはじめる哲学入門)』(晶文社)を読む。「人間なんかいずれ絶滅するんだから今を一生懸命生きよう」みたいな通俗的人生感傷あるいは自己啓発臭の耐えがたいものだったらすぐに読むのをやめるつもりだったが、想定していたよりもずっと筆が冴えていて、マイルドな毒気もあって、館内にいる六時間ほどで一息に読んでしまった。まさに<至福の読書体験>だった。年末恒例の「今年の三十冊」に入るかも知れない。ギュンター・アンダースやデイヴィッド・ベネター、デイヴィッド・グレーバーなど私の敬愛する「知識人」の名がぞくぞく出て来るので飽きるところがない。「反出生主義」に触れた章ではE・M・シオランも登場するかと思いきや、最後まで言及はなかった。趣味的に合わないのかな。私にとって彼の著作群はきわめて高質な解毒剤もしくは瀉下薬なんだけども。
最後の方で村上春樹の『1973年のピンボール』についての長い批評があったがそれも意想外に楽しめた。私は彼の作品についてはこれまで二三作しか読んだことがなく、おそらくそれは読まず嫌いもしくは「不相応な嫉妬」のせいなのだが、なんだか妙に読みたくなってきた。文芸批評に感化されたのは久しぶりである。
目下「隣の爺さん問題」による悶々の渦中にあるだけに、「世の中は救いようもなく悲惨である」という紋切り型のペシミズムにどうしてもつい惹かれてしまうようだ。思うに、他人の不幸は蜜の味といういわゆる「シャーデンフロイデ(Schadenfreude)」を持て余している家畜的凡庸人がますます増えつつあるこの腐れ切った時代のなかにあって必要なのは、「空しさの直視」と「反逆の身振り」である。前者の必要性については、SNS上におけるあの承認欲望地獄の様相を一瞥すれば分かるだろう。老いも若きもナルシシズム増幅装置を手放せなくなっている。「セラピー的自然」や「おしゃれカフェ」をアイフォンで美しく撮影しては世界に向けて公開したがる<ウェブ自慰>が止められない。だが存在の空しさはどんなことによっても埋めることは出来ない。自己愛は柄しかないバケツなのだ。それは「欠如である」という事実によってしかその実体性を維持しえない。この欠如を満たしてくれそうな「何か新しいこと」をいつまで待ち続けても詮無いだろう。現代の空虚人たちの多くは酒もタバコも飲まない代わり、「新着」を告げる赤色バッジに一喜一憂している。「構ってもらえる喜び」欠乏症、もはや自覚されないほどに膨張した倦怠気分にのべつ苛まれている。果てしなき「うぬぼれ」の戦略的互恵関係、タンタウロス的自己愛ゲーム、脳内報酬系的劫罰、涙ぐましいばかりの孤独否認劇。この現代版『ゴドーを待ちながら』において待望されているのは<大いなる赤色バッジ>ではないか。あらゆるニヒリズムの病根はきょうも隠蔽されている。
「強迫さん」がやや頭をもたげてきて、辛くなってきた。ヤニ系の異臭がさっきから気になって、本稿の執筆中すでに五回は壁クンクンしている。だからもうこのへんで書くのをやめます。

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