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反俗的ナルシシズムと自死、虐殺まんこ、<個>としての自由、烏合の衆、堕罪府大学、

三月五日

二十歳のとき、私はすぐにも自殺しかねない状態だった。その後、事態は変わった。といっても、この三〇年の長い年月、私が自殺を考えることも、ときには真剣に自殺を思い描くことさえなくなったというのではなく、何かいわく言いがたいものによって、自分には自殺はできないと思い知ったのだ。この何か、この<声>が、いまや消えかかっているのではないかといたく恐れる。すくなくとも、この声は、このところ私にはますます聞き取りにくくなっている。

E.M.シオラン『カイエ:1957-1972』(金井裕・訳 法政大学出版局)

午前11時24分。紅茶、激安の殿堂で買ったチョコケーキ。午前10時半ごろに爺さんの訪問で起こされる。缶ビールを二本差し出しながら「カネはもう少し待ってください」。さくやディズニーのアニメ『白雪姫』をユーチューブで見た。発表は1937年。日中全面戦争の発端となった盧溝橋事件(七・七事変)が起こった年。加山雄三が生まれた年でもある。白雪姫がキスしまくる小人たちの禿げ頭がとちゅうから亀頭に見えてきた。グリム兄弟が採集した「Schneewittchen」がどんな話だったかもう少しも覚えていない。こういう「眠り姫」型の説話は世界中に分布しているらしい。川端康成のエロ小説『眠れる美女』もその系譜に連なるものと言えるか。「鬼才」ドナルド・バーセルミの『雪白姫』をそろそろ読みたいなと思った。岐阜県に「白雪姫」という酒があったなとも思った。作文のなかで「思った」や「感じた」を使いすぎるのはよくない、とたびたび聞かされた。ついそれらを使ってしまうのは私もまた「断言を嫌う日本人の一人」だからなのかも知れない(この「かも知れない」も私はよく使うな)。

島田雅彦『僕は模造人間』(新潮社)を読む。
島田初期作品の傑作。こんな自意識過剰のひねくれまくった人物を中心に据えた「青春文学」があるか。周囲の期待を裏切ることにしか喜びを見出し得ない青二才・亜久間一人。彼こそこの絶対的理念なき「リキッド・モダン社会」(ジグムント・バウマン)に存立可能な唯一の「英雄像」ではないか。

僕は規則を窮屈に感じない去勢された連中も規則に反抗する規則を守る専門バカも嫌いだった。僕は規則に無関係なことをせっせと行う口だった。

第二楽章 間男

言うまでもないけれども、人は生まれた瞬間から「凡庸化教育」にさらされる。バカみたいな「お遊戯」をさせられたり、「ごめんなさい」「ありがとう」を言わされたり、やたら整列させられたり、「詩」を書かされたり、「志望校」を選ばされたり、「恋は美しいもの」と信じさせられたりと、あらゆる方向からの凡庸化圧力を受けながら「成長」する。残酷なのはこれらに抗うどんな身振りさえ凡庸たらざるを得ないという事実ですね。これを直視しない限り人の「知的成熟」はありえない、と俺は思う。世の中にあふれかえっている「反体制者像」や「アウトロー像」がいかに平凡で類型的なものかを思い出してみるといい。「無頼派」「ヤンキー」「一匹狼」「ツッパリ」「アプレゲール」「デカダン」「オブローモフ主義」「人情味あふれるヤクザ」「非行少年」「世捨て人」「リストカッター」「毒舌的皮肉屋」「不服従」。もうウンザリしてくる。どいつもこいつも「反抗する俺」や「捉えどころのない私」を演じることに陶酔し切っている。救いがたいほどに凡庸だ。その滑稽さをいかに強く自覚していてもやはり類型的であることを免れることは出来ない。何をやっても滑稽たらざるを得ないのならせめて少しでも快楽度の高い演技をしようではないか。わたしが言いたいのはそういうことである。

誰しもが青春という安っぽい舞台(出来合いのものが多いが)で悩みや苦しみ、恥らいや欲求不満を思い入れたっぷりに演技する役者であるが、演技が命がけである分、また盲目的である分、ドラマチックになる。ゼロ戦に乗って敵艦にぶつかっていくのも、スクラムを組んで機動隊に体当たりするのも、スポーツや喧嘩や麻薬やセックスに熱中するのも、褐色の肌をつくったり、ヌードになったり、路上で乱舞したりするのも同じ青春と言う名の倒錯だ。厚顔無恥に演じれば、陶酔を味わえるかもしれない。我身の不幸を嘆くのも、国家権力の横暴を怒るのも、特権意識を無理に持つのもナルシシズムとマゾヒズムの豪華なカップリングを楽しむということではないか。

第四楽章 成熟

作者は三島由紀夫も登場させて、クソマジメな三島崇拝者の神経を逆撫でするように彼にオネエ言葉を使わせたりもしているが、私はこれを作者なりの「リスペクト」の一表現と受け止めた。島田は三島のあの死に方にただならぬ影響を受けている。反俗的ナルシストとして劇的に「自決」し得た三島に「嫉妬」していたのではないか。もし島田雅彦が九十年代後半に死んでいたらいまとは比べものにならないほど厚い「名声」に包まれていただろう。太宰治のように「神格化」されていたかも知れない。すくなくとも俗物的(あるいは家庭的)にならないで済んでいただろう。

そろそろ飯食うか。納豆と生卵。こんやは「近眼のマグー」をぜんぶ見るぞ。喪服。

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