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「真の男」になりたがっている男たち、

五月二日

カウンセリングの現場で、絆、自立、依存、さらには愛情という言葉は現実的対応においてはほとんど意味をもたない。現実としても無意味であると言い切ってもいい。愛情豊かに接しましょう、自立させましょう、などというのはうわべだけ触れていればいい人たちのお題目に過ぎない。少なくとも私にとって、それは、どのようなことなのかイメージすら出来ない。

信田さよ子『家族のゆくへは金しだい』(春秋社)

午前十時三一分。扁桃三つ、濃緑茶。ほんらい起きしなにものを口にいれてはいけない。小中学生のころぎりぎりまで寝てたから朝飯が苦痛だった。
三か月以上昼夜逆転せずに生活できている。抑鬱もさして重くない。そこそこ調子がいいのは、たんに冬が終わり、花粉の季節が終わったからだろう。最悪でないというだけで「気分の良さ」を感じられるなんて。きょうは天気がいいからまた遠征するか。「えんせい」を漢字変換すると厭世になった。厭世という言葉の美しさ。厭世を感じない人間などいるのだろうか。ハイデガー風にいうなら厭世は現存在における情態性と切り離し得ない。むしろそれを自覚していないときほど現存在はそれに親しんでいる(苦しんでいる)。厭世はつねに輪郭のない曖昧な気分としてしかそこにない。それに対応しうる具体的な理由など探すだけ無駄だ。たとえ当面の問題が去っても厭世はあり続けるだろう。外から「ダンシング・クイーン」が聞こえてくるんだけど。スマホの着メロ? 俺は古代語の研究者でもあるから古い言葉はけっこう知ってる。スマホというのもやがて古代語になるだろうね。さっき朝飯という言葉を使って思った。飯(めし)という言葉はほとんど男しか使わない。こういうのを男性語というのか。私はふだん「飯(めし)」なんて言葉は使わないけど、ときどき「男のふり」をしたくなったときなどは使う。この日記は基本的に「男として」書いている。だから「俺」なんて一人称もあえて使う。男(男の子)というのは、仲間内ではわざとでも「荒っぽい」言葉を使いたがる。まるでそれが「男の証明」であるかのように。これを一種の生存戦略と見るのはさほど間違ったことではない。がいして、同性同年代の間においては、「育ちが悪そう」と(適度に)思われることは、友達になるうえで有効なのだ。男子たちが、「クソしてえ」とか「ションベンしてくる」とか「まじ欲求不満、やりてえ」なんてマッチョなことをあえて言うとき、そこには、「男同士だから分かるよな」という結束確認がある。ホモソーシャルを強固にするのはこうした暗黙の結束確認なのである。男はたいてい「男になる(男らしさ)」に憧れている。「男になる」ということ自体に発情できる(というか発情するように促されている)。「男になる」ということが実際にどういうことなのかほとんどの男は説明できないのだけど、それが何を言わんとしているかは、ぼんやりながらも把握している。男はつねに「真の男」になりたがっている。自分を「真の男」と認識することこそ最高の快楽であると信じている(どんな「異性」も自分を「真の男」と認識するための手段でしかない)。こうした自己発情に自覚的な人間はあまり多くないが、頭の悪くない人間はこのことにはじゅうぶん自覚的だろう。三島由紀夫はそれほど頭の悪い人ではなかったので、「男がいかに男らしさに発情しうるか」ということをよく知っていた。私が彼に親しみを覚えるのはそのためだ。「男の中の男」という褒め言葉はあっても「女の中の女」という褒め言葉はありえない。というのも、女は何もしなくても女でありえるからである。女は無条件に女でありえるのだ。男は違う。男は男にならねばならない。彼らは男という生物学的性だけでは満足できない。(主として共同体によって)「男」として認められたいと思っているし、認められなければ「生きている心地」がしない(劣等意識を強いられるから)。やはり男性学は面白いですね。鳥刺し男はパパゲーノ。鳥刺し虫のリボンちゃん。
【備忘】13000円+4000円

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