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「子供の泣き声は騒音ではない」と自分にも他人にも言い聞かせたがる「不誠実な態度」はまったくよくない

八月九日

十一時五分起床。起き抜けに一句思いついた。

古池や蛙ぴょこぴょこ三ぴょこぴょこ

あまり寝つきはよくなかった。寝る直前に岩崎優のアウトコースびたびたストレート動画を見て興奮していたからか。ただたんに暑くて寝苦しかったからか。さいきん図書館で子供の泣き喚き声を耳にいれるのが辛い。だいたい私はどうも子供という存在をいまだに「許容」できていないようだ(ちなみに老人も「許容」できていない)。こんなことをいうとすぐ「だれもがいちどは子供だったじゃないか」とかいうクソポエムで応答されかねないのだが、不快なものは不快なのであって、このような個としての生き生きとした否定感情を、「曖昧な共同体的価値意識」によって糊塗するのは、不誠実である。私は、アクビとか咳払いとか人間が口から出す音全般が嫌いで、それを近くでしつこく繰り返されると蹴り倒してやりたくなる。幼児(子供)とて例外ではなく、いつまでもぎゃあぎゃあバカみたいに泣き叫ばれると、醜悪で不潔でエゴのカタマリの小怪物に迫害されているような気持ちになってきて、「こんな生き物の繁殖は美的にも倫理的にも間違っている!」とか(心で)声を荒らげざるを得なくなる。そうしたうえでとりあえず気を鎮めて、「私もまたそんな怪物である」ということを思い出し、「とりあえずいまは許したふりはしてやる、たがいにろくな死に方しないよな」とその近くにいる小怪物に一種奇妙な同情をおぼえつつ、「人間という大地の悪性腫瘍」について再びしばらく暗い感傷に浸るのである。私はいつも幼児の泣き声のなかにどうにもならぬ救いがたさを感じる。あれは紛れもなく地獄の底からの悲鳴であって、だからただたんに「うるさいな」と舌打ちすれば済むような種類の騒音ではないのだ。

もし私が、私の最も深い本能に従っていたら、朝から晩まで、そして夜は夜どおし「助けてくれ!」と叫ぶだろう。

シオラン『カイエ:1957-1972』(金井裕・訳 法政大学出版局)

幼児の泣き声が催させるあの不快はひとえにそのせいだ。それはなによりもまず「助けてくれ!」の悲痛な叫びであり、生への底無しの不安のあからさまな表出なのである。すべての存在者への「同情」にねんじゅう苦しめられている私にとって幼児という存在は見るのも耐え難い。「わざわざこの宇宙に新しい無益な苦痛を追加してどうするんだ」とかいう小賢しい功利主義的観点ではとても論じようのない、生の惨苦生殖という受難のリレー

外食相談研究会『どうしてくれる!?店長1万人のクレーム対応術』(日経BP)を読む。
飲食店におけるクレームの実相がちょっと覗けた気がする。クレーマーという言葉が人口に膾炙してずいぶん久しいが、それを日々経験している当事者の実務話はあまり聞いたことがない。本書によると、金品を目的としたような純粋な悪質クレームはクレーム全体のなかでもごく少なく、ほとんどのクレームには「それなりの理由」があるそう。だからいちおう「真摯な対応」をすればだいたいどうにかなるという。クレームへの最初の対応を間違えたことで発生するクレームを二次クレームという。「お客様」はなによりもまず誠意のある対応を店員に求めているのだとか。
まえにもたしか書いたけど、ふだん客商売をしているような人は、客がいないところでも「お客様」と言ったりする(職場とぜんぜん関係のない場所で酒を飲んでいる途中でさえつい言うことがある)。「お客様ファースト」が叩き込まれているというより、ただの口癖なのかもしれないが、いずれにしても気持ちが悪い。私は「お客様」という言葉のなかにつねにどこか嫌味で皮肉な成分を感じ取ってしまう。「過剰な敬意」というのはまずプロテクターとして機能すべく存在している、と論じたのはたしか内田樹である。相手地位が高ければ高いほど、その機嫌を損なわせることは、危険である。禍(孤立、降格人事、不敬罪など)に直結しやすい。日本の人々は代議士を前にするとやたらと「先生先生」と我勝ちに敬ってみせるが、あれも、「権力者」の忌諱に触れることを何とか回避しようという試みの一種だろう。このような「自己防衛的敬意表現」は古今東西いたるところにあって、「お客様」はそのなかの一つに過ぎない。

もうそろそろ焼きそば食って行く。ぼぼんちゅう。

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