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日常嫌悪、他人の「善意」、むすむす危惧、みみんざ、catastrophe、

一月二日

はだかむし【裸虫】①人。人間。寛政三年・傾城諺種「むかしより人間をさして裸虫と云、又米を喰ふ虫ともいへり」

前田勇・編『江戸語の辞典』(講談社)

午前十一時五〇分起床。ライオンコーヒー、源氏パイ、アーモンド。マリリン・モンローがメロンのなかで国会議事堂と性交しながら泳いでいる夢を見る。
きのうごご、野々市のブック・オフへ向かう途中でわりと大きな地震に遭遇した。気象庁はそれを「令和6年能登半島地震」と命名したらしい。「令和」なんてひさしぶりに入力したよ。そういえば2007年にもわりと大きめのがあったな。貧民どもがひしめいていたはずのブック・オフ行きを中止して部屋に戻ると机上に林立させていた本が崩壊していた。「のど割れ」している本は一冊もなかった。こんなのは被害のうちに入らない。七尾に住んでいる高齢の友人は車中泊をしているらしい。とうぶん余震も続くだろうから高さ制限を設けた方がよさそうだ。

びふぉあ
あふたー

なぜだか能登に住む家族の安否はさして気にならなかった。こういうときすぐ誰かに電話したりするような人間のほうがおそらく「マトモ」なのだろうけど。「天涯孤独への淡い憧憬」とでも呼ぶべき何かが自分のなかにはある。学生時代の私はそれを「孤児願望」と呼んでいた。滑稽だとは思う。そんなのは「書生的感傷」に過ぎない。でも大なり小なり人はみな滑稽なんだよ(この十把一絡げ論法が俺の乱暴さ)。私はその滑稽さに極力自覚的でありたい。私にはむかしからあえて「冷血漢」を装いたがる悪癖があって、ときどきそれがむしょうに嫌になる。たぶん「冷血漢」を装うことで相手の「友情」もしくは「愛情」を試しているつもりなのだ(「こんな冷たい私でも好きになってくれる?」という甘え)。カミュの『異邦人』のムルソーには、おそらく死ぬまでなれない。
地震直後に「こっちは大丈夫だよ、心配しないで」と必死こいて(半ば演劇的に)伝える相手がいない人間がこの世どれだけいるのだろう、とか考えている。そんな人にとってはむしろ日常こそが災厄なのではないか。今回のような災害があるたび「妙な爽快感」が発生するのはどうしてだろう(第一に「本当の被災者」ではないからだろう)。かつて「日常戦争」というタイトルの詩集を見かけたことがあったけれども、(少なくとも私にとっては)「日常」こそがもっとも恐ろしいところなのであり、この「日常」がかりそめにも中断されるとき、私はどこか「救い」のようなものを感じる。赤木智弘の「希望は戦争」と同じくらい凡庸なこと言ってるな、という自覚はあるけど、実感だから、しょうがない。「○○禍」とか「○○大地震」なんて呼ばれるそんな「公認の出来事」が起こる以前から世界は安定して悲惨で残酷なのだ、という認識が私には根強くある。「ありふれた日常」など私はすこしも愛していないのだ。だからそんな「公認の悲劇」に見舞われてはじめて「世界は不条理だ」なんて嘆き悲しむような人たちにはどうしても同調することが出来ない。「温かい家庭」とかいうグロテスクな表象にいっしょう馴染めそうもない私などは、どうしてもそう考えてしまう。道路で「並大抵ではなさそうな」揺れを感じながら、「世界よ終われ!」と念じたのは私だけではないはず。(当然ながら)この耐えがたい「終わりなき日常」(宮台真司)はまだ続いている。前回の大雪もそうだけどあらゆる自然災害は耐えがたいほどに中途半端だ。この中途半端さこそが「悲劇」を「悲劇」たらしめている。俺は人間の作り上げた何もかもが一瞬で瓦解するのをこの眼で見たい。「真のカタストロフィ」を待望してやまない。いやだから凡庸なこと言うなって。

飯食うか。ももんがももんがけるあっく、ミシマノナマクビ。

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