自滅のこぎり狂乱ブーン、安眠抹殺、
二月十六日
午前十時五三分。UCCコーヒーと昨日爺さんからもらったファミマのポテチ。そこそこ体調はいい。体調のいいときでさえ「生存のだるさ」を少しも免れてはいないのだけど。こんな途方もなくだるいのに毎日パソコン開いて誰にも求められていない厭世日記を書き続けている俺はいったい何なんだ。少子化つまり出生率の低下を嘆く系の記事を見かけるたび、それで本当に困るのは労働力と税収を確保したい国家だろうとしか思えず、かりのその内容がどんなに斬新かつエビデンスベースドなものであってもほとんど頭に入らない。俺と奴らでは「問題」の捉え方がぜんぜん違う。びっくりするほど違う。俺にしてみれば「人々が子供を作らなくなったこと(「自分の人生」に子供を巻き込まなくなったこと)」は掛け値なしに好ましいことである。見方によっては「まともな人間が増えた」とも言える。もし俺がいま胎児だったとして「この世界に生まれたいですか」となんらかの意思確認方法で尋ねられたとしたら迷わずに「ノー」と叫ぶよ。ちなみにこれは李琴峰の近未来小説『生を祝う』からほぼそのまま借りた発想ね。「合意出産制度」とか「生存難易度」なんてパワーワードがつぎつぎ出てくる良作。魯迅の散文詩集『野草』のなかにある「立論」をいま思い出した。今日はほかに何も書きたいことがないので全部そのまま引くことにする。
こういう種類の「毒」はどんな世においても一定量は必要だね。「聡明である」とはこういう「毒」を自ら作り出し、意識の底に沈殿させていることだ。それにしても、研究者でない俺から見ても、『野草』と漱石の『夢十夜』の共通性は明らか。せんじつ買った奇書『笑死小辞典』の中にあるポール・モーランの「名言」をいま思い出した。
そろそろ昼食にする。ハンバーグを温める。ハンプティ・ダンプティ、もっこりずんぐりロバの耳。偽物の終末論に気を付けろ。もう世界は死んでいるのだから。
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