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自滅のこぎり狂乱ブーン、安眠抹殺、

二月十六日

そしてニーチェ的立場とは結局のところ、近代の自由主義的個人主義の概念枠組からの逃避様式でもそれに対する代案でもなく、むしろその枠組の内部開示におけるいま一つの代表的な契機なのである。それゆえ私たちが予期しうることは、自由主義的個人主義者の社会は間欠的に「偉大な人間」を育ててしまうということだ。悲しむべきかな!

アラスデア・マッキンタイア『美徳なき時代』「徳としての正義――諸概念の変遷」(篠崎榮・訳 みすず書房)

午前十時五三分。UCCコーヒーと昨日爺さんからもらったファミマのポテチ。そこそこ体調はいい。体調のいいときでさえ「生存のだるさ」を少しも免れてはいないのだけど。こんな途方もなくだるいのに毎日パソコン開いて誰にも求められていない厭世日記を書き続けている俺はいったい何なんだ。少子化つまり出生率の低下を嘆く系の記事を見かけるたび、それで本当に困るのは労働力と税収を確保したい国家だろうとしか思えず、かりのその内容がどんなに斬新かつエビデンスベースドなものであってもほとんど頭に入らない。俺と奴らでは「問題」の捉え方がぜんぜん違う。びっくりするほど違う。俺にしてみれば「人々が子供を作らなくなったこと(「自分の人生」に子供を巻き込まなくなったこと)」は掛け値なしに好ましいことである。見方によっては「まともな人間が増えた」とも言える。もし俺がいま胎児だったとして「この世界に生まれたいですか」となんらかの意思確認方法で尋ねられたとしたら迷わずに「ノー」と叫ぶよ。ちなみにこれは李琴峰の近未来小説『生を祝う』からほぼそのまま借りた発想ね。「合意出産制度」とか「生存難易度」なんてパワーワードがつぎつぎ出てくる良作。魯迅の散文詩集『野草』のなかにある「立論」をいま思い出した。今日はほかに何も書きたいことがないので全部そのまま引くことにする。

私は夢で、小学校の教室にいて、文章を作るために教師に立論の方法をたずねた。
「むつかしい」教師は、眼鏡のふちの外からじろじろ私を見すえながら言った。「こういう話がある――
「ある家で、男の子がうまれた。家じゅうの喜びようは大したものだ。一月目の誕生日祝いに、抱いてきて、来客に見せた――むろん、縁起を祝ってもらいたいのだ。
「ひとりは言った。『この子はいまに金持になりますよ』かくて、その男は感謝された。
「ひとりは言った。『この子はいまに役人になりますよ』かくて、その男はほめ返された。
「ひとりは言った。『この子はいまに死にますよ』かくて、その男は家じゅうのものから袋だたきにされた。
「死にますと言ったのは、当り前のことで、富貴になれると言ったのは、嘘かもしれない。だが、嘘を言ったものは、よい報いを得、当り前のことを言ったものは、殴られる。おまえは・・・・・・」
「私は、嘘も言いたくありませんし、殴られたくもありません。先生、では私は、何と言ったらいいでしょう?」
「それなら、おまえは、こう言わなければばらぬ。『まあまあ、この子は、ほら、何てまあ・・・・・・いや、どうも、ハッハッハ、ヘッヘ、ヘッヘッヘ』」

『魯迅作品集2』(竹内好・訳 筑摩書房)

こういう種類の「毒」はどんな世においても一定量は必要だね。「聡明である」とはこういう「毒」を自ら作り出し、意識の底に沈殿させていることだ。それにしても、研究者でない俺から見ても、『野草』と漱石の『夢十夜』の共通性は明らか。せんじつ買った奇書『笑死小辞典』の中にあるポール・モーランの「名言」をいま思い出した。

生きているということは、誰もがそのために死ぬ一つの病気である。

そろそろ昼食にする。ハンバーグを温める。ハンプティ・ダンプティ、もっこりずんぐりロバの耳。偽物の終末論に気を付けろ。もう世界は死んでいるのだから。

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