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飾りじゃないのよ書物は、

十一月二四日

私のテーゼの鍵となる部分とは、<近代の道徳発言と実践は、それ以前の過去からの断片化した残存物の繋ぎ合わせとしてのみ理解されうる>ということ、そして<その残存物が近代の道徳理論家たちに対して生みだした解決できない諸問題は、この点が十分に理解されるまでは解決できないままであろう>ということであった。

アラスデア・マッキンタイア『美徳なき時代』「ニーチェかアリストテレスか?」(篠崎榮・訳 みすず書房)

午前十一時三〇分起床。カルパス、柿ピー、紅茶。昨夜はわりと寒さが控えめだったのでひさしぶりに三時間近く歩いた。やっぱ毎日このくらいは歩きたいね。座って過ごす時間が長いぶん、脚を動かしたい。歩く時間と読む時間、どっちかが短くなると、だいたい体(精神)に異変が起こる。厭世気分が募る。そうなると「強迫さん」の不機嫌が看過できないレベルに達し、やがて「すべての怒り」が隣人に向けられることになってしまう。このパターンを繰り返すようになって、かれこれ六年は経つか。ごく控えめにいって地獄である。たいていこの苦しみは人に伝わらない。「強迫さん」の生態を俺ほど熟知している人間はそういないだろう。これだけ熟知していながらいまだにそれを管理下に置けていない俺の愚かさは、もはやどうしようもない。「分っちゃいるけどやめられねぇ」の一言に尽きる。なんならこれを「スーダラ節問題」と呼んでもいい。「生活音なんか聞き流せばいいんだよ、お前も音は出すだろう、お互い様さ」「分っている、それは俺がいちばん分っている、でもいちいち癪に障ってしまうんだ、俺だけが一方的に理不尽を強いられているような気になる」「まずはその濃密な自意識を消すんだ、その自意識こそ被害者意識の培地になっているんだ」「自意識を消そうとするのもやはり自意識だ」「そんな屁理屈はいいから」「もういい」。
膨れ上がる建設費、会場整備の遅れ、軟弱地盤。大阪万博は中止が至当だろう。決定が早ければ早いほど補償金も少なくて済む。たまには政治家みずからが「サンクコストの呪縛」を解く「英断」をしてほしいもの。「身を切る」とはそういうことだろう。「非を認めて株を上げる」ということだって今ならまだ可能だ。

青山ゆみこ『ほんのちょっと当事者』(ミシマ社)を読む。
「身を削りながら書いた本」という印象。クレジットカードで自己破産しかけた話は誰にとっても「他人事」ではない。とにかく金を貸してモノを買わせたい連中がウヨウヨしてんだよこの世は。「資本主義社会」とは借金推奨社会のことでもある。「もっと要らないモノを買え」と我々はねんじゅう小突き回されている。「クレジットカードは社会的信用の証」といったことを誰もが真に受けている。「どうしてそんなものを持ちたいと思わされているのか」と誰もあまり考えようとはしない。それは一種の「罠」ではないか。なんであれ「借金」によっては人は「経済の奴隷」になる。債務者はつねにその自由を制限されている。いちいち「借り」を意識させられる。「カネがないと生きられない」「地獄の沙汰もカネ次第」という思い込みがひとつの「強迫観念」にまでなっている。だから誰もが必死に働く。貯蓄する。保険に入る。失業しただけで自殺を考える。ああなんて残酷な世界に俺は生きているんだ。人間はなんて可哀想なんだ。俺は人類を代表して泣き喚こう。悲痛の叫びを上げよう。この世の何もかもが俺を気持ち悪くさせる。もうウンザリだ。ぼぼんちゅうーーー。コマネチ。ネズミの尻尾は赤い。ワインレッドの憂愁。

もう飯食うわ。外は雨。二時には図書館はいります。

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