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君たちはどう滅びるか、パリは禿げているか、ビビンバ研究所あるいはソドムとゴモラの乱交的遠近法もしくは地球爆砕計画(ルビコン川の憂鬱)

七月二四日

ルネサンス期の悪魔研究も、完全に自立した女性の姿までは思い描けなかった。彼らは、告発の対象だった魔女の自由を説明する際、別の権威に対する服従を持ち出してくる。すなわち、魔女たちはまちがいなく悪魔の支配下にあったわけだが、これもまた男性的権威に対する服従にほかならない。

モナ・ショレ『魔女』(いぶきけい・訳 国書刊行会)

十時半起床。三〇分ほどFBとnoteをつらつら眺める。安定して詰まらない。俺もこういうゴミ駄文を日々書いているんだな。厚顔無恥は天性だ。紅茶、蒟蒻ゼリー三個。隣のジジイ問題(TJP)にやや引きずられていますわ。ここに引っ越してきたその日にアクビで奴の存在を知って以来、殺意は増すばかり。夏など奴の部屋由来の煙が風に乗って入ってくる。だから窓を開けられない。締め切っていてもなんだか臭い。地獄。ペンチで一枚一枚生爪引き剥がして目の奥に突っ込んでやりたい。とはいえ共用廊下で擦れ違うときなんかはちゃんと微笑を浮かべて挨拶する。紳士だから。嫌いな人間を無下に扱えないのも弱さというのなら俺はその弱さを愛する(キリッ)。でももう奴に対しては「心からの親しみ」などは決して持ちえないだろう。ところで、集合住宅に住んでいる者たちは部屋から出る際、誰かと顔を合わさないか内心びくびくしている。いちおう「同じ屋根の下」で生活しているにもかかわらず、そこに住んでいる人のたいはんは互いに名前も知らない。だからその距離の取り方が分からない。そもそも他者と顔を合わせるというのは人間にとってなかなかストレスフルな経験といえる。人間であることの居心地悪さはひとえにその点による。「心を許す」という慣用句がありますが、私がこれがどういうことなのか皆目見当がつかないのです。

五木寛之・他『視想への旅立ち』(河出書房新社)を読む。
四十代の五木寛之は饒舌でトンガッてるね。対談(討論)相手は、菊地昌典
、武満徹、内村剛介、唐十郎、寺山修司、山下洋輔、塚本邦雄、篠山紀信、高畠通敏の九人。学生時代(一九歳ごろ)、『大河の一滴』を皮切りに、『運命の足音』『人生の目的』『みみずくの散歩』『風に吹かれて』と彼のエッセイをぞくぞく読んだ。その後「活字本」にどっぷり浸かることになるきっかけが五木エッセイだったと言っても過言ではない(『青春の門』も最初の数巻は読んけど、信介が耳のなかの水を出したときの描写しか覚えていない)。なぜあの頃彼のエッセイにそこまでハマったのか、といった問いに答えるのは案外たやすい。まず、活字が大き目で読みやすかったから。なにしろ当時はまだそれほど活字慣れしていなかったので、これは助かった(その点で幻冬舎には感謝)。つぎにとことん厭世的だったから。この世は地獄だと五木は骨の髄まで理解していた。そのくせその「厭世観」はごくドライなものだった。彼は満州からの引き揚げを経験しており、そのさいの凄惨な記憶は、その後の彼をずっと苦しめている。彼が親鸞にゾッコンなのもきっとその為だろうと思う。あとで五木が子供を作っていないことを知り、彼のことをますます好きになった。こんな地獄に子供なんか作れるか、という「倫理的決意性」を僕はついそこに見てしまう。ちと理想の投影が過ぎるかしら。稲垣足穂や深沢七郎や埴谷雄高やジャン・ジュネなど、なんとなく僕が気を引かれる人たちは子供を作っていない。家庭人特有の卑俗さや薄汚れを免れている。

以下、気に入った箇所の引用(誰の発言かなど細かいことは気のするな)。

枯れてきた人間には若い人間にない知恵とか穏やかさとか、そういうものが出てくるのはぼくは当然だと思いますけれども、やはりニキビ盛りの人間にしかないエネルギーっていうのはありますよね。ぼくはやはり何とかして音楽の中に肉体性みたいなものを求める気持が心の中のどこかにあります。

ジャズと情況

ぼくは、日本の文化は戦闘を回避する傾向があると思うんです。だから、日本語の中にあるいろいろな言葉にしても、いい例が、方言がどれだけ標準語と激烈な対立をやって滅びていったかというと、そうじゃなくて、標準語で一応全国平定はされていて、心ある人々が方言で詩を書いてみたり、方言の美しさを残そうという形でやっていきます。

日本文化の源流を求めて

ぼくは漂民世界というのは、さっき言ったように幻想共同体をつくる、それは権力的統制と管理組織をつくることにつながると思っているわけです。それに対して住民世界というものの原点にもどれば、たとえば日本の村には、ひょっとこ(火男)というのがありますが、これはつまり脳性麻痺のような身体障害者とか、そういう人たちのことですね。つまり、大体三パーセントから五パーセントぐらいの割合で必ず出てくるそういう人たちを包み込む組織を、本来の住民社会というのはつくっていたんじゃないか、というのがわたしの基本的な考え方なんです。

日本的差別の構造

アナーキストというやつは、日本の場合には、何といおうと大枠において東洋的なアナーキズムですね。アナーキズムにいろいろあって、認識論上のアナーキズム、政治史的なアナーキズム、芸術的なアナーキズム、生活上のアナーキズムといったふうに分けて考えることもできるけど、基本的にはアナーキズムは、日本人にはたいへん無縁だろうと思いますね。

現代のニヒリズム

ぼくは、いつも三〇年代やっていて、なぜ大衆がファシズムに惹かれていったのか。ぼくらとしてはまず、惹かれた、あるいは積極的に支持したのは大衆であったということを、事実として確認するということから出発しないと、ファシムズの本質と言うのは、なにか一部の野望をたくましゅうした連中が出てきて、大衆をだましたのだ、つまり、大衆を引きずって塗炭の苦しみをなめさせたのだ、というかたちで、いつも悪辣なリーダーと受難者の民衆というかたちでとらえるでしょう。それはやっぱりファシズムの本質を突いていないと思うのですね。

三〇年代の歴史と文学

斜坑に働く人間には、苦痛とともにある意味での安心というか、なんか豊かな大地の中というか、胎内の羊水にただよっているようなものがあると思うんで。露天掘りをやってる人間には、それがないと思う。

暗黒の斜坑への旅

考えてみると、ぼくはどうもシラけるということばが嫌だったということがあるんだろうけれども、今言ったブラック・メールだとか、ブラック・パワーとかあるいはひところ盛んだったブラック・イズ・ビューティフルといった運動、そういうものに対してシラけるということばを抵抗なく使えるということは、どこかで白というものに対して、つまりホワイトに対して、集団的に無意識的に迎合しているところがあるんじゃないのか。ちょっと思いつきみたいだけど、なぜ、クロけると言わないか、アカけると言わないか、アオけると言わないか。

市民的価値意識批判

さ、今日はこのあとどうしようかな。気散じに書店でも行くか。隣のジジイの雑音が頭蓋骨の内側にへばりついている。

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