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「ポジティブな人」が苦手である

九月十日

十二時半起床。紅茶。さいきん空嘔がまた出るようになった。とくにトイレで。空きっ腹にカフェインが良くないのかも。今日行けば明日休み。このごろは休日が待ち遠しくてならない。また古書店と温泉行こうか。いまの俺は助詞省きにかなり意識的である。本を買いたい、なんて書かない。本買いたい、でいい。そのほうが喉越しがいい。読みたいものが山積している。ユーチューブで近本光司内野安打集とか中野拓夢好守備集なんて見てる場合じゃない。赤い靴はいてた女の子、お池にはまってさあ大変、どじょうが出て来てこんにちは、六甲おろしに颯爽と。

佐伯啓思『反・幸福論』(新潮社)を読む。
『西部邁ゼミナール』によく出てたので名前は知っている。「保守論客」ということになっている。尖閣をめぐる持論や民主党政権への辛口の部分はありきたりで退屈だが、「ポジティブ・シンキング」なるものへの著者の疑念はよく分かる。「現代日本人」はあまりにも「幸福」を志向し過ぎる。なにかと「前向きに」とか「明日を見よう」とかほざく。とかくネガティブなことを言いたがる人間を避ける傾向がある。つまり「引き寄せの法則」信者が多いのである。皮肉なことにそうやって「幸福」を願えば願うだけ不満が募り「不幸」になる。というのも現実とはつねにすでに「不条理」なものであり、たいていの期待は裏切られ、ほとんどの希望はへし折られるものだから。「資本主義社会」における欲望のほとんどは外的に作られるもので、それらは決して充たされることはない(タンタロスの渇き)。シオラン的ペシミズムはつねに「異端」的地位にある。人々は「生の問題」をあえて見ようとしない。「生」を害悪視することはそれくらい「直観」に背くことなのだ。人はいずれ病んで死ぬのであり、そんな残酷な運命が確定している人間が「幸福」でいられるはずなどない、という私の直観のなかにもどこか「生への甘え」がある。「それでもどこかに生の意味があるはずだ」とかいうあまりに青年的な思いがある。「生物」であることを恥じ、「生きていること」を呪い続けること以上に、知的な振る舞いがあるだろうか。「不条理」をひたすら受容するのは家畜や奴隷にこそふさわしい態度ではないか。人間とは「否定すること」の出来る存在者である。「いまここの開かれ」に驚愕できる存在者である。「世界がどのようにあるか」ではなく「世界の存在」自体に驚愕することの出来る存在者である。国木田独歩の『牛肉と馬鈴薯』を俺が愛するのは、この小説が「驚愕への欲望」を率直直截に表明しているから。
近代人はみずからすすんで「無縁社会」を選んだのであってそれをいまさら嘆くのは愚か、という著者の嘆き節も頷ける。家族という小集団にはいつも様々な問題がある。それは「社会の受け皿」としても機能する一方、個人を抑圧する「虐待装置」としても機能する。血縁関係による共同体はおうおうにして「風通し」が悪い。同居者を鬱陶しく思わないことの難しさは誰しも経験済みだろう。夫婦間においては「殺意」なんて日常茶飯事だろう。「旦那デスノート」が生まれる所以。「一人暮らし」への憧れとは逃避願望なのだ。もっとも「一人暮らし」によってすべてが解決されるわけではない。陳腐にまとめるなら「安心と自由はトレードオフ」ということか。

岡田温司『アガンベンの身振り』(月曜社)を読む。
アガンベンは呼吸が合う。彼は「~しないことも出来る」という「非の潜勢力」に強い価値を見出す。怒ることも出来るが怒らない。産むことも出来るが産まない。話すことも出来るが話さない。人間は潜勢力を潜勢力のまま留めておくことが出来る。出来ることはなんでもする、というのは「野獣」である。「野獣」の世界は狭い。閉ざされている。「非の潜勢力」のロジックが「怠け者礼賛」に利用されてもいいじゃないか。怠け者は「暴力の行使」においても怠け者でありうるのだから。
<ホモ・サケル>シリーズはまだ半分も読んでない。今年と来年でいちおう通読はしたいが難しいかな。読むことも出来るがあえて読まない、のだ。

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