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とても地獄は一定すみかぞかし≪mercy killing≫≪ doctor-assisted suicide≫よんどころないとは言わせぬぞい

七月四日

戦前から、おそらく江戸時代から、いやそれよりもさらに昔からあった傾向に違いないのだが、周辺文化の国民として、日本の知識人には大文化(メイジャー・シヴィライゼイション)と自分とを合体させたいという強い欲求があった。かつて江戸時代の儒者が中国へ憧れたように、明治以来の学者は欧米やまた一部の人は中ソへ憧れてきた。第二次世界大戦で日本が敗れ、日本人であることがなんとなく負い目に感じられた時、日本人の外国研究者の外国への傾倒はいちだんと度を強めた。日本における欧米派比較文学の発達もそのような日本知識の心理状況と無関係ではなかったように思う。

平川祐弘『漱石の師マードック先生』「イズムの功過」(講談社)

ごぜん六時起床。いちごのサンダー、ブラック・ティー。
冷涼の空気を吸おうと窓を開けるが早いか糞ジジイのタバコ臭をもろ感知、ソッコー閉める。閉める音にこちらの怒りを感じてほしいけどそれに気が付くような神経の持ち主なら最初から共同住宅でタバコなんか吸わないか。深呼吸深呼吸。もし隣に住んでいるのが僕の惚れやすいような素敵男子だったらどうかしら。やっぱり殺意湧くかしら。でもこの「If論」にはあまり意義を見出せないわ。そもそも素敵男子はタバコなんか吸わないから。アタシのなかの素敵男子はみんなじぶんの「暴力」にはとことん敏感なの。オレ様が気持ち良ければ周りの不快なんかカンケーねえ、と平気で思えるオヤジ以外、いまどき喫煙なんかしないのよ、マジで。他者の痛みや不快に鈍感な人間は男であれ女であれみんな「オヤジ」よ。その「オヤジ」的無神経がおぞましいものとして感受されつつあることはまことに慶賀すべきことだわ。「子供を作らない人が増えた」のもそんな「オヤジ」的無神経を嫌悪する人が増えてきたからじゃないの。だからつまり昨今ますます強まりつつあるタバコ臭嫌悪は、タバコそのものによる物質的不快が、「キモいオヤジの吐いた空気なんか吸いたくない」という拒絶によって強化されたものなのよね。

休館日だったきのう、文圃閣に行きました。途中、むっちゃ暑かった。水筒がなかったらきっと熱中症になっていたでしょう。もっともかつてはメジャーリーグを目指していたくらいだから体力には自信ありますけど。
買った本は、丹羽文雄『蕩児帰郷』、石川淳『諸国畸人傳』、マルキ・ド・サド『悪徳の栄え(上)』、花田清輝『復興期の精神』、ボードレール『人口楽園』、オールコック『大君の都(中)』、五木寛之・他『視想への旅立ち』、橋本治『蓮と刀』、大林信彦『笑学百科』、バース『酔いどれ草の仲買人(Ⅰ)』、秋田實・編『ユーモア辞典①』、開高健『岸辺の祭り』の計十二冊。出費は一四三〇円。

長尾和宏『仏になったら仏を殴れ:コロナ時代を生き抜くための死の問答集』(ブックマン社)を読む。どうして手に取ったかさっぱり分からない。でもたまにはこういうのもいい。著者は「在宅医療のスペシャリスト」で、『小説「安楽死特区」』というのも書いている。一部ではかなり「悪名高い」ようだが、主義主張を持つ人間であればそれは誰もが避けられないこと。彼がたびたびその必要性を説いている「平穏死」とは、(本人の意志により)「過剰な延命処置」を行わないで「自然」に任せる死というもので、「尊厳死」と同義とみていい。
現在の日本では尊厳死も安楽死も「合法化」されていない。そもそも議論自体が不活発で、ある程度「社会問題」の類に詳しそうな人でさえしばしば「安楽死」と「尊厳死」をごっちゃにしている(もっとも安藤泰至によればこの二つを別のものとする用語法は日本に独特のものだと言う)。
たしかに「法制化」に際してはどこまでも慎重な議論は必要だろう。心理的にも技術的にも倫理的にも様々の難題があるのは事実。尊厳死についてであれ安楽死についてであれ、はっきりした結論はたぶん出ないだろう。そもそも人の世にはっきりした結論なんか絶対にありえないのだ。ともあれ、「賛成」とか「反対」にだけにこだわるそんな粗っぽい論争に加わるより前にまず基礎的なことをちゃんと勉強しろよ、とは言いたい。もちろん自分に対して。
そういえば今年の『選択』一月号で、カナダが医師の幇助による安楽死の対象を拡大するという記事があった。「精神疾患を唯一の基礎疾患とする患者」に対しても解禁するという。さいしょこれを知ったとき、「カナダというのはなんてリベラルで素敵な国なんだ」と感動を覚えたものだ。でもそのあとしばらく考え込んでしまった。もしそんなことになれば、福祉によって「生かされている」鬱病患者などが、「制度的に死ねるのになんでいつまでもお前は人様に迷惑をかけて生き続けているのか」という有言・無言の圧力に一層さらされることになるのではないか。そもそもそうした制度の存在自体が、「生産的ではない人間は生きる価値がない」といったあの愚劣なテーゼを追認・補強するものではないのか。つまりそれは、個々人の「自由意思」に委ねるというかたちを取った、「死なせる暴力(権力的間接暴力)」ではないのか。私は「産むこと」に伴う原暴力はもちろん容認できないが、このような誘導的な「間接暴力」もまた同じくらい容認できない。好きでこんな地獄みたいな世界に生まれてきたわけではないのだからせめていつでも楽に死ねる権利くらいは与えてほしい、という切実極まる叫びを聞くたび私は、「こんな地獄みたいな世界」を漸進的にでも「改良」していくことこそが「世界」に対する最大の復讐なんだ、と「常識人」ぶってつい言い含めたくなるのだが、その実そんなことはこれっぽっちも信じていないのだ。
徒労感だけが募る。眠るように死にたい。I want to die like I sleep.

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