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ドナテッロのダビデ像に一目惚れ

二月八日

十一時起床。コーヒー淹れて、チロルチョコつまみながら、本稿着手。

私は美少年研究者でもあるので、イタリア・ルネサンス期の彫刻家ドナテッロのダビデ像について書こうか。彼のダビデ像は、一四〇八年ごろに制作された大理石のものと、一四四〇年ごろに制作されたブロンズのものと、二つある。私が惚れてしまったのは後者だ。
ブロンズとは青銅のこと。中国からその製法が伝わったことから唐金と呼ばれたりもした。アルミニウム青銅もあるが、青銅といえばいっぱんに銅とスズ(錫)との合金を指す。もともとは赤銅色だが、スズの割合が増えるにしたがい黄色や白色に変わる。ただ空気にさらされると緑青(塩基性炭酸銅)という「さび」が表面に発生する。青銅は加工しやすく耐食性にも優れているため、古来、日用道具や貨幣や美術品などに使用されてきた。人類史最古の合金と考えていい。時代区分上、「石器時代」と「鉄器時代」の間を「青銅器時代」と呼んだりもする。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」(『平家物語』)の梵鐘も青銅。

ちなみにダビデとは統一イスラエル王国(イスラエル・ユダ連合王国)の王で、在位は紀元前一〇〇〇年から九六〇年ごろ。その生涯については『旧約聖書』「サムエル記」に詳しい。ただし古代に編纂された文書なので、今日における「史実」と合致するとは限らない。羊飼いで琴の名手でもあった少年ダビデが楽師としてサウル王に仕えることになったこと、ぺリシテの巨人戦士ゴリアテを投石で倒したこと、サウルの嫡子ヨナタンと仲良くなったことなどが書かれている。
ダビデ像と言えば、ミケランジェロのダビデ像(一五〇四年ごろ)を思い浮かべる人が圧倒的に多いかもしれない。筋骨たくましく精悍な顔つきの全裸「青年」が投石用の紐みたいなものを肩に掛けているあれだ。「西洋美術史」でもあれがダビデ像の最高傑作と考えられている節がある。それはそれで的外れではないのだろう。
でも美少年好みの僕としてはドナッテロのダビデ像のほうがミステリアスでエロティックで、ずっと好みなのだ。美術研究者による図像学的薀蓄はともかく、全裸姿で帽子とブーツ(武具か)、片手に剣、長髪、微量に憂愁を含んだ高貴で小生意気な眼差し、汲みつくせぬほどに怪しい色気を湛えている。後ろに回るとよく引き締まった愛らしい尻も拝める。言うまでもなく、我々が美しい人の尻に見惚れるのは、その形状的質感的愛嬌性とそこからひねり出されるだろう「汚物」との間にギャップ萌えを感ずるからである。
また、切り取られ踏みつけられているゴリアテの首との対比効果によってある種のviolent flavorが醸し出されていることも忘れずに書き添えておこう。あと、実物の男根と象徴の男根(剣)が両方剥き出しであるにもかかわらず、全体として「過剰さ」を帯びてはいないことも。人によってはこれを「両性具有的」などと評するだろう。この作においてbiological sexの肉体表現は明らかに「崇高性」「神聖性」をまとっている。観る者にプラトン的エロス衝動を抱かせずにはおかない<超俗的>な色気はそこに淵源している。
少年なのに肩幅が広く、そこはかとなく逞しいその姿を眺めていると、だんだん抱かれたくなってくる。あるいはその御御足(おみあし)に踏まれたいというマゾ的願望が芽生えて来る。ことによると彼に踏まれているゴリアテの頭は、人々による「誰よりも強く美しいものに殺されたい」という耽美的自己否定願望の反映なのではないのか。「偉大」な美術作品とはそんな危険な誘惑性を潜在させているものなのである。
ところで〈aesthetic〉であることと〈ethical〉であることは両立するだろうか。

昨日もガタリとジジェクを読む。きょうでジジェクは読み終えるつもり。久保明教『機械カリバリズム(人間なきあとの人類学へ)』も読み終える。キルケゴール『反復』を読み始める。
パンが焼ける。もう二時だ。外出の準備もしないと。なんだか余裕のない暮らしをしているな。これじゃ平民みたいだ。

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